絵がものすごく上手い知人がおり、

少し前に絵のコツのようなものを教えてもらった。

 

その教えの通りに風景画を描いてみたら、

まだ鉛筆の下書きだが、

素人臭くもなんとなくそれなりに描けたような気がした。

 

先日久しぶりにその方と話す機会があったので、

自分の絵の写真を見てもらったら、

大げさなまでにかなり絶賛された。

 

何というか、師匠に褒められたような気分でものすごく嬉しい。

 

自分が尊敬する人物に認められることは、

本当に嬉しいことなんだなと実感した。

 

尊敬を集めるような人物は貴重な存在に思えるが、

尊敬を集める人物の言動は、周囲に大きな影響力を持つのだなと。

 

ならば、自分も自分を尊敬できるような言動が取れるよう心がけよう。

自分自身に最も影響を与えているのは、自分自身に他ならないと思えるのだ。

 

そして自分を尊敬すると言ってくれる方のためになるような言動を心がけよう。

自分も誰かの役に立つことができるならば、勿怪の幸いだ

 

 

絵の方は、師匠から色付けの基本を教えて頂いたので、

その通りに仕上げてみようと思う。

 

完成に近づくのが純粋に楽しみだ。

 

最近新たに出会い、自分の師となるやも知れない方や、

今までに出会い自分の師と仰いでいる方や、

その方々から紹介されて読んだ本などに、

繰り返し出てくるキーワードがあった。

 

それは、自分自身を許すということ。

 

不完全で

未成熟で

不器用で

未洗練で

躓き

迷い

恐れ

怒り

反発し

抵抗し

困惑し

戸惑う

 

そんな自分自身を受け入れ許すということ。

 

これを実行するためには、並大抵の努力ではないように自分には思える。

今まで常に自分の不足を埋める努力をしてきたつもりだが、

それは不完全な自分自身との戦いの連続でもあった。

 

その根底にある考えは、自分は不足している。

自分は不十分だという思いだ。

 

この思いを持ったまま心穏やかに生きようと思っても、

それはちょっと難しい相談に思える。

 

これほどまでに様々な方面から同じメッセージが送られるならば、

自分自身を許して受け入れることは、自分の今後の人生に必要なことなのかも知れない。

 

ならば、この機会に試しに一つだけでも実行してみよう。

成果が出なくてもともと。それで成果が出ればめっけものだ。

 

・・・・・・・・・・

 

「自分頑張ったで日報」というのはどうだろう?

長期的なビジョンやミッションに1mmでも近づく行動ができたなら、

その日は頑張ったでとうことで自分を労う。

 

他人や社会の目から完全に離れた自分メーター的な。

 

いや待てよ・・・

それってこのブログやん!!

 

ならば今日は力強く宣言する。

 

実は、今週末は

今際の際に瀕した祖母の見舞いに実家を訪ていたのだが、

別れ際に祖母が「頑張れ、大丈夫だ」と声をかけてくれたことに対して、

今までの諸々のすべて洗い流して心から「ありがとう」と返事ができたこと。

そんな自分を大いに尊敬する。その言葉を発した祖母も尊敬する。

 

書いていて涙が止まらないので、今日はこの辺にするが、

自分を許すということは、誰かを許すということに繋がっているような気がしてならない。

 

それは強さであり柔軟さ。

普遍的な影響力に思えてならないのだ。

 

願わくば安寧を。

そして、いつかまた会えることを信じて。

今日は七夕。

今日は私の誕生日でもある。

 

牽牛と織女の物語がある日が誕生日だなんて、

ロマンチックだと人からは言われるが、

まったくその通りだと思う。

それに、自分の歳を忘れることがあっても、誕生日は忘れずにすむ。

 

自分と、今日が誕生日のすべての人におめでとう。

 

さて、七夕といえば短冊に願い事を書くことがあるが、

私は皆が何を願っているのかとても興味がある。

 

先日たまたま通りがかった会社近くのビルで、

七夕のイベントが開かれているのを見つけた。

通りがかりの誰もが短冊に願いを書いて、

作り物の笹につけられるというものだった。

 

お陰で、無数の短冊の中身をしばし眺めることができた。

 

願い事の内容は、基本的には自分か他人の幸せを願うものが多かった。

「幸せになりたい」

「世界平和」

「家族の健康」

「出世」

「結婚」

「仕事がうまくいく」

「子供の成長」

「人間関係の成功」

 

そこでふと思うのが、基本的に自他の幸せを願う人たちの間で、

ときたま衝突や摩擦が起きるのはなぜかということ。

 

恐らく、望む結果は同じでも、使う手段が違うのが原因の一つではないかと思う。
ある人にとってはサッカー観戦が幸せな瞬間でも、

ある人にとっては恋愛ドラマを見ることが幸せな瞬間かもしれない。

だからチャンネル争いが起こる。

相手を自分の方法に引き込もうとして、

うまくいかないときがある。

 

極論を言うが、手段が合わないときは、

お互いが満足できる手段を一緒に探すか、

そもそも関わり合わないようにするのが

お互いにとって最良の選択に思えてならない。

 

相手にとって納得できない手段を強要したり、

自分にとって納得できない手段でも譲歩することが、

日常的なことになってしまっては、

長い目で見て、互いの関係にとって良くない。

 

もちろん互いに納得できる方法を探すことはできるが、

手段の違いを放置することが摩擦や衝突を生む原因ではなかろうか。

 

ならば、強要や譲歩が前提の関係は、

元から組まない方が幸せなのでは。

 

で、ここからが問題なのだが、

そんな関係でも継続することを強制されたり、

継続せざるを得ないと考えることが、

さらなる摩擦や衝突を生むのではと。

 

下記に単語だけ上げるが、すぐにその後の文章を想像できるのでは・・・

 

・上司

・取引先

・お客様

・部下

・後輩

・他部署

・会社
・配偶者

・子供

・親

 

と、せっかくの七夕にこんな湿っぽい話はやめよう。

梅雨だから多少湿っぽいのは仕方がないが、心は晴れやかに行こう。

 

私は願う。

心身ともに健康で明るく前向きな毎日を過ごしている。

自身の与えられた使命に生きることで、貢献する人生を生きている。

 

あなたは何を願うだろうか。

今宵願う全ての人と一緒に幸福と感謝を。

何かをしようとするとき、固く考えすぎることがある。

 

草野球がしたくて参加させて頂いた、

会社の野球チームの試合では、まず楽しむ前に

「良いプレーをしなければ」「チームに貢献しなければ」

などという考えが頭に浮かんだ。

 

自宅を掃除するときも

「綺麗にしなければ」「もっとちゃんとしなければ」

 

気が向いて料理をするときも

「しっかりと栄養があり美味しいものを作らなければ」

 

これは何というか、疲れる。えらく疲れる。

 

 

街で見かける、子育てをちゃんとしなきゃと気を張って

頑張っている親御さんたちに、傍から

「頑張りすぎなくてもいいんだよ」「今ちゃんとでなくても、長い目で見れば大丈夫だよ」

と勝手な声援のつもりの声を心の中で呟きたくなるときがあるが、

子育てをしたこともなければ、自分に対してすらもそんな対応ができない私が、

そんなことを言うのはおこごましいにも程があると思い知る。

 

・・・もしや、これはある意味、

自分の中の未成熟な子供の部分を自分で育てているということかも知れない。

 

人にはそれぞれの成熟の度合いがあるが、

総合点だけではなく、各教科というか様々なジャンルにおける

個別の成熟度があるのかもしれない。

 

とするならば、私が高得点を狙えるのは自己制御。

得点が低いのは自己解放。

 

表裏一体とはこのことか。

 

自分に合った自己解放の方法を見付け実践することが、

パフォーマンスを高めるカギになりそうだ。

 

混乱してきたので、とりあえず最近マイブームの般若心経を唱えて一旦心を落ち着かせよう。

仏説摩訶般若波羅蜜多心経・・・

 
で、自己解放の取り掛かりの第一歩として、
やりたいことをやることを許すことにする。

思い付きのまま突拍子もない行動することを一部許可する。

 

最近友人が本を書いて発売したのだが、

それがものすごい刺激になった。

自分も本を書いてみようと思う。

 

テーマすら決まっていないが、

どんな本を書こうかと思うとワクワクする。

 

表紙のイラストは、会社で絵に定評があり、

色使いが私の好みそのものの御仁に依頼させて頂こうか。

あの方の絵は素晴らしい。

 

何というか、これは理屈抜きにやりたいことに思える。

その内なる声に素直に従うのが自己解放なのかも知れない。

 

今から執筆を始めよう。

人が行きかう駅前の雑踏の中に托鉢僧を見た。

編み笠を被っていながら、周囲をキョロキョロと伺う様子だった。

 

思うに若いその托鉢僧は、手荷物のリュックサックを足元に置き、

この暑いさなか法衣を身にまとい鉢を手に佇んでおられた。

 

ご報謝させて頂いたとき、

「何妙法蓮華経」と唱えておられた。

 

私はその托鉢僧に気付いてから、なんとも気にかかり、

いてもたってもいられずにご報謝させて頂いた次第である。

 

この(終ろうとしている)平成の時代に、

そんな前時代的な流儀が通用するのだろうか。

 

何事につけ、立ち止まる人より行き交う人の方が大多数を占めるのが、
この近代の時勢のように思える。

 

そんな中で、変わらぬ真実があるとするならば、それは何だろう。

それは、時勢と望むべく未来をつなぐ架け橋のようなものではと、ふと思う。

 

現状が永遠に続くべくもないとは多くが思うことながら、

望むべく未来が必ず訪れるとは、誰もが思うことではない。

 

その両方のギャップを埋めるのが、

科学であり、論理であり、文明であり、思想であり、真実であり、人の意志である。

 

ならば、私は次世代により良いタイミングと方法でバトンを繋ぐ役割の一部でありたいと願う。

 

自利利他。

自分のために生きよう。周囲のために生きよう。

そう思えた、何気ない土曜の昼下がり。