足利事件の再審公判で、22日午後に行われた森川大司元検事の証人尋問。菅家利和さん(63)が立ち上がり、「わたしに無実の罪を着せたことに謝ってください」と謝罪を迫った。元検事は「厳粛に、深刻に受け止めている」と述べたが、冒頭に謝罪の言葉はなかった。

菅家さんが足利事件の一審公判で「自白」から否認に転じる約2週間前の92年12月7日、森川大司元検事が菅家さんを取り調べた際の録音テープなど2本が再生された。

「警察で夜遅くまで調べられまして。全然認めてくれないんですよ。このままやってないと言うと、殴るけるとかされるんじゃないかと」と声を詰まらせた。


事件の詳細については他に譲るとして
やはり一番の問題は、最初に菅谷さんが無実の罪を自白したという点だと思う。

日本の司法は自白重視、はっきり言えば自白偏重だ。
最近話題の痴漢冤罪事件をみても、

「変に頑張ると職を失うなど大変なことになる。自白して示談した方がいい」

という方向で解決しようという警察の姿勢が、「当たり屋」のような「痴漢示談女」を生み出した。

捜査の決め手として、真犯人に自白させるのは大事だが
真犯人以外に自白させてしまうと、捜査そのものが迷走し、時に崩壊してしまう。
そのリスクについての無頓着な姿勢が、こういう冤罪を生み出す温床となっている。

ある事柄がいくつかのグループのどこに該当するか統計的に判断する分析を判別分析 という。

判別分析においては、trueをfalseと判断してしまうミスと同時に、falseをtrueと判断してしまうミスも最小化することを考える。

これは、何らかの判断をする上では当然考えるべきことであって、被疑者の人権云々とは無関係な話だ。
刑事事件の捜査において、この当然のことが、できていないんじゃないかと思う。
これでは「誰でも良いから犯人として有罪にすればいい」ということになる。

警察・検察は、取り調べにおいて、真犯人に自白させると同時に、無罪の人に自白させないことを考えないとならない。

無実の罪を自白させた警察・検察と、自白した菅谷さんによって、
足利事件の真犯人逮捕は不可能になってしまった。

菅谷さんは冤罪被害者ではあるが、事件の被害者からすれば、大迷惑な存在だ。