Noteでは結構詳しくレポートしていたのですが、
2021年5月からステージ4の胃癌と闘病していた母が、2024年2月8日午後8時40分に、天寿を全ういたしました。享年68歳でした。
癌闘病をしていた母を看取るために、先月の1月13日(土)から、葬儀を終えた日の2月13日(火)まで、ちょうど1ヶ月間、実家に一時滞在もしておりました。
12月の始めくらいに、母がほとんどご飯を食べなくなり、栄養状態が悪化していたため、父が病院に連れて行きました。
そのとき、主治医の先生からは、
「年末まで、持つか持たないか。」
と言われていましたが、
母は何とか年越しをして、障害者施設から里帰りした妹と一緒に年末年始を過ごすことも出来ました
こうして母は無事に2024年1月を迎えられたのですが、
母が次第に弱って行くのが、実家に行くたびに感じられたのと、
練馬板橋の自宅にいても、なんだか母に呼ばれている気がして落ち着かなかったので…
1月13日(土)から、私はスーツケースを持って実家に一時滞在を始めました。
母は私が一時滞在をすると、笑顔でとても喜んでくれました
しかし、母の体調は、日を追うごとに、階段を降りるようにして、悪化していきました。
いくつか、Noteに書いていたレポートを、下にリンクを貼ってピックアップします
胃癌が肺に転移していたので、
痰がらみや肺水腫が、母の終末期の主な課題でした
しかし、幸いにも、母の場合は胃から転移した癌細胞が気管支を塞いでしまうことはなかったので、
息苦しさは比較的重くならずに済みました。
救急搬送されたこともありましたが、
「最期は家で迎えたい」
という母の希望を叶えるため、私と父も、ヘルパーさんや訪問看護師さんも、
最善を尽くせたと思います
おしっこが出なくなって来たり、血圧が下がってきたら、
「いよいよです。」
と、訪問医の先生からも、訪問看護師さんからも言われていたのですが…
母は、血圧が下がり始めた、2月2日(金)の夜から、
2月3日(土)の朝には全うするだろうと、医療従事者だった父も言っていましたが。
そんなのどこ吹く風!
母は、「勝手に殺すな
」とばかりに、
次の日も、その次の日も、心拍も弱くなりつつ、血圧も下がりつつ、
こうして、粘り続け、頑張って生き続け、
6日がたったころ…ついに、その日はやってきました。
↑この日、リモートワークをしながら、お昼休み中にこのNoteを書いていました。
この時父は、
「この呼吸が改善されなければ、今日の夕方ぐらいにはヤバそうだ…」
と言っていましたが。
母はその日の夜7時に訪問看護師さんが来た時も、まだ頑張って浅い呼吸をし続けていました。
その時には、ずっとリビングから小さめの音量で流していた、小田和正さんや徳永英明さんの曲に、
母の呼吸音がかき消されるぐらいに小さくなっていました。
夜の7時ごろ、母の、かなり浅くなった呼吸を診て、訪問看護師さんが
「この呼吸ですと、持つのは、あと30分か1時間くらいですねぇ…」
と仰ったので、
父はヘルパーさんに電話をしました。(母の最期には、「絶対呼んでね!」と、ヘルパーさんから言われていたため)
私と父は、交代でヘルパーさんの作って下さった夕食を摂り、母の呼吸を監視しました。
ヘルパーさんは、この日は元々シフトではなかったにも関わらず、母を1年以上介護してきたため、情が移ってしまったようでした。76歳のこのヘルパーさんは、これまでにも色々な人の最期を看取ってきた方だったので、ヘルパーさんがいらして下さり、心強かったです
私と父は、母の手を片手ずつ握り、
ヘルパーさんは母の頭を撫でながら呼吸を監視しました。
そして父は母の右のこめかみに触れながら、母の心拍を監視していました。(心電図モニターはレンタルしていなかったので)
母は顔にとても汗をかきながら、浅い呼吸をし続けていました
「息が吸えてないから、頑張って吸おうとして、汗かいてるんだろうなぁ…苦しい?」
と、父は母に言いながら母のおでこを指でトントンして、私は母の顔の汗をハンドタオルで拭ってあげました。
それでも、なかなか母は浅い呼吸を止めませんでした。
夜7時に訪問看護師さんが、
「この呼吸ですと、持つのは、あと30分か1時間くらいですねぇ…」
と仰ってから1時間以上たっても、母は粘り強く、浅く長い呼吸をし続けていましたが…
先にヘルパーさんが
「あっ、呼吸が止まった…」
と、母の呼吸が止まったのに気づき、
その数分後、母の右のこめかみから心拍を診ていた父が
「…止まった。」
と、母の心拍が止まったのを確認しました。
穏やかに、笑っているような顔で、母は息を引き取りました
父は
「よく頑張ったねぇ
」
と笑顔で言い、
ヘルパーさんは、
「良い人だったねぇ
」
と寂しそうな顔で仰って、
私は時刻を確認しました。
2024年2月8日夜8時40分でした。
「8の倍数が多いな!」
というのが、時刻を確認した私の第一印象でした。
日本では、8は、末広がりの縁起の良い数字と言われています。
遺される、父と私と妹の、末広がりな幸せを願う、母のメッセージなのかな、と思いました
去年の12月の始めに「年末まで持つかどうか」と言われたのに関わらず、今年の2月まで持ち堪えた母。
誤飲してしまう危険があるからと、私が実家に一時滞在を始めてからすぐに、何も食べたり飲んだり出来ないし、
呼吸も酸素ボンベなしには満足にできず、
大好きなお風呂にも入れず、
本当にしんどかったと思います…
それでも、母は頑張って、頑張り抜いて、
私の38歳の戸籍上の誕生日を一生に祝ってくれました
更に母の頑張りは、それだけに留まりませんでした…
母が全うした時は、朝から母が昔から大好きだった小田和正さんや徳永英明さんの曲を、シャッフルで、流していたのですが。
母が8時40分に、穏やかな顔をして呼吸を止めた直後。
とても偶然とは思えないタイミングで、
↓徳永英明さんの、この曲が流れたのです
100曲以上はiPodに入っているであろう小田和正さんと徳永英明さんの曲が、シャッフルで流れていた中、
愛しい人よ 君に幸あれ
というサビのこの曲が、母が全うした直後に流れるなんて………
なんという事でしょう
母は、ここまでして、メッセージを伝えたかったのか、と思いました…
私と母は、私が10代の頃、関係が険悪になってしまった時期もありました。
妹が知的障害を持っていた関係で、姉の私が「我慢しなさい」と言われるような状況も多くあり、
思春期の私は、それに納得がいかず…
という感じでした。
障害者の家族には、よくあることかもしれませんが。
このことで、母と私は一時期ほとんど口を聞かなかったのですが…
1月に入ってからは、母は私に会いたいと、しきりに父に訴えていました。ほとんど口を聞かなかった頃の分も、取り戻したいかのように。
そして母は、私が実家に一時滞在するなか、
2月まで持ち堪えて、私の38歳の戸籍上の誕生日も生き抜き、
最後の最後に「愛しい人よ 君に幸あれ」と、徳永英明さんの曲を念(?)で再生させたのです…
母は、私が実家に一時滞在を始めた直後に、酸素飽和度が上がらずに救急搬送されてから、言葉を話せなくなってしまいましたが。
それでも、どうしても、私に伝えたかったメッセージが、
愛しい人よ 君に幸あれ
だったのでしょう………
生前は、ワガママで気が強くて、素直じゃなくて、ベタベタするのが嫌いな人だったのに…
そこまでして、最期の最期に、私にもメッセージを伝えようとしたのか………
と、母が全うしてから、3日間くらいは、
悲しくて、というより、感動で
徳永英明さんの曲が流れて、1時間ほどした9時半くらいに、
訪問看護師さんと訪問医さんが、母の死亡診断にいらっしゃいました。
訪問医の先生は、心拍の停止、呼吸の停止、対光反射の停止という、「死の3兆候」を確認し、
ご愁傷様です と手を合わせて下さいました。
訪問医の先生が死亡診断書を書いている間、
訪問看護師さんが母の顔を見ながら
「癌が肺転移した人で、こんなに穏やかな、笑っているような顔で逝った人は、僕もなかなか観たことがありません。この穏やかなお顔は、『最期は家で迎えたい』と仰ったご本人の希望を叶えようと、
ご家族やヘルパーの皆さんがされた頑張りの賜物ですね〜」と仰り、
私たちも心が温かくなりました
その後、訪問看護師さんと一緒に母のパジャマを脱がせ、
まだ温かくて柔らかかった母の身体を、看護師さんとヘルパーさんも一緒に、足の指の間まで丁寧に拭いて、綺麗にしました
実はこれは、母の遺影として用意した、母の故郷の新潟で撮影した時の写真と、全く同じ服装でした。
お気に入りだったこの服装で、母はピンク色の綺麗な棺に収められました。
母の棺が斎場へ持っていかれるまでの、3日間ほど、私と父は、毎朝毎晩、
棺の中の母に手を合わせて、1日1日を淡々と、
葬儀屋さんと打ち合わせをしたり、レンタルしていた母の介護用ベッドや酸素吸引機を業者さんに返却したりして、過ごしました。
そこに、悲壮感はあまりありませんでした
2月10日(土)には、父の仕事場で長くお勤めの3名の従業員さんも、食べ物を持って弔問にいらっしゃいました。
従業員さんたちも、棺の中の母の穏やかな最期の顔をご覧になって、
「苦しまずに逝ったんですねぇ…」
と安心しながら、手を合わせて下さいました。
この日、私もちょっと早めのバレンタインの手作りチョコを作り、
それと従業員さんのお持ち下さった食べ物と、お料理好きのヘルパーさんのお料理で、
持ち寄りパーティーのような、ワイワイ賑やかなお夕飯になりました
お料理好きなヘルパーさんも、来客があると聞くと張り切って、
カレーやエビチリや回鍋肉など、おいしいお料理をたくさん作ってくださり、
それを召し上がった従業員の皆様が、目を輝かせておいしさに感激していらっしゃいました
締めは、父がラクーアに新しく出来たキルフェボンというお店で買ってきた、
新鮮な苺がたっぷり乗った、めっちゃ美味しい苺とピスタチオのタルト
美味しいものを、たらふくみんなで食べて、
この日の夜は、みんなちょっと、お腹が苦しくなっていました
こんな風に、ほとんど悲壮感なく、それなりにみんなで元気に過ごしながら、
母の葬儀の日を迎えました
斎場に入り、母の写真の飾られた祭壇を見ると、改めて母が亡くなった実感が湧いて、
あぁ…
と思いました。
母の祭壇には、カーネーションが沢山飾られてありました。母の棺の上には、母が癌告知された時に従業員さんや私の親友達のご協力も頂いて作った千羽鶴と、花束。
納棺師さんが、母の口の中に綿を詰めて頬をふっくらとさせ、綺麗にお化粧をしてくださり、
お棺の中の母の顔は遺影を撮った癌になる前の元気だった頃に近い印象になっていました。
葬儀に参列され、お棺の中の母の顔をご覧になった従業員さんたちは、
「綺麗にしてもらえて、良かったですね…」
と、涙されていました。
2月10日(土)のお食事会では涙されていなかったのですが、やはりこの綺麗な祭壇をご覧になった時に、母が亡くなった実感が湧かれたそうです…
お坊さんが丁寧に読経して下さる中、私や父が思っていたよりも多くの方々がいらっしゃり、ご焼香くださいました。
知的障害を持った妹も、施設から職員さんに引率されて葬儀に来ました。母の死をどこまで理解していたのかは、わかりませんが、お坊さんが読経される間、ずっと手を合わせて「ナムナム」と呟いておりました。
施設の方に大切にしていただき、受けられるサービスも充実しているお陰で、妹も昔よりもだいぶ大人になり、静かにすべき場所では、ちゃんと静かに出来るようになりました。母もそんな妹を見て、安心して旅立ったことでしょう。
お通夜の後の会食は、父の仕事場の宴会と何ら変わらぬ雰囲気で、従業員の皆さんその他母が生前お世話になった方々とお食事をしながら、母の思い出を穏やかに笑いながら語り合いました
改めて、たくさんの人に愛され、母は幸せだったろうなと思いました
「良い式だったね。」と、葬儀が終わった後に父と話していました♬
そんな母にいただいた戒名は「釋美咲大姉(しゃくびしょうたいし)」。母の実名に含まれる「美」の字もある、綺麗な戒名です
ちょうど49日だった3/27に行われた納骨も、よく晴れた温かい日でした。母も喜んでいたと思います
そして現在、私も父も妹も、母のいない世界で、それなりに楽しく人生を送ってます
こんな感じで、人生初の親を看取る経験は、悲壮感は全然なく終わりました。末期癌を扱うテレビドラマや映画のように、みんなでギャンギャン泣くこともなく、思っていたよりもずっと穏やかでした。
まぁ、私の場合は両親が共に医療従事者だったので、小さい頃から
「人は死ぬものだ」
と言い聞かされていたし、
母がステージ4の胃癌で「もう手術は出来ない」と告知された時も、母が死ぬことを必要以上にマイナスに捉えないように、と両親から言われていたので、
それが母の最期の時を、悔いなく落ち着いて過ごせたことに繋がったと思っています
父は、父方の祖父が30年以上前に亡くなった時に、祖父が父に言ったひと言が忘れられないそうです。
親が子どもにする最後の仕事は、子どもに自分の死ぬところを見せることである、と。
このブログを書いている現在は2024年5月ですが、ちょうど3年前の今ぐらいの時期でした。母が癌宣告されたのは。
この3年間は本当に濃い3年間でした。闘病する本人にも、それを支える私たち家族にも、精神的にも肉体的にも葛藤は多かったですが、素敵なことも負けないくらい沢山ありました。大変なこともあった分、多くの大切なことを学べた3年間だったと思います。
私は母の死に方もまた、母の生き方だったと思っています。平均寿命まで生きたとしても、認知症になってフラフラしながら生きるのは嫌だ、と言っていた母。
享年68歳は、日本の女性の平均寿命よりも20年ほど短いですが、母本人は自分の68年間の人生に満足していたと、私も父も母方の叔父や叔母も思っています。
だから私としても、母がいなくなった寂しさは、まぁまぁありますが、悲しさはありません。母本人が満足な人生を送れたのであれば、娘としても嬉しいです
母の闘病を支え最期まで看取ったことで、私は健康に生きられる事のありがたさを改めて実感して、
前よりも小さな事ではイライラしなくなったし、
自分が満足と思える人生を送るためにベストを尽くす大切さを、母から教えてもらえたと思います。
そして、この3年間で、改めて自分はたくさんの人に支えられて生きている事を実感できました
この一件で、私も母が病期になる前よりも確実に大人になれたと思います。父方の祖父が父に言ったのは、恐らくこの事だったのでしょう。
母がいなくなって、寂しくはなりますが、母の「愛しい人よ、君に幸あれ」という願い通り、
母に恥じないよう、母に負けないくらいに素敵な人生を送れるように、前向きに頑張って生きていきたいと思います
Blue Leopard