尊きもの。生き物と過ごす時間 | Dancin’ life★

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福岡・宗像・飯塚・久留米・オンラインでベリーダンスとバレエ教えてます。ダンサーとして県内外で活動中。Bellydance Najm主宰。イベント・レッスンのお問い合わせはお気軽にどうぞ♡

人間以外の生き物と過ごす事が、わたしの生活の一部になっている。


物心ついた頃から、小鳥、亀、ザリガニ、ヤドカリ、うさぎ、猫、犬、ハムスター、時にはトンボや鈴虫、コオロギまで。わたしの成長と共にいてくれた。


その中で『死』を身近に感じる瞬間も多々あった。生き物と暮らす以上、この宿命からは逃れる事は出来ない。

ほんの1秒前まで生きていた動物が、一瞬を境にぐにゃりと力なくなり、目の光も失われる瞬間。一縷の希望も打ち砕く、絶望しかない時が来る。

もう、取り返しがつかない。
2度と戻らない。
時は巻き戻せない。

悪い夢であってほしいと願っても残酷な現実があるだけで、力無くそこに佇むしかないのだ。

だけど彼らはそれぞれの種として、一生を全うした。うさぎならうさぎの一生を、小鳥なら小鳥の一生を立派に生き抜いた。早死にだから可哀想、とは違う。彼らなりに【長い】一生を生き抜いたのだ。

毎日が今この瞬間に精一杯愛情を注いであげる事の繰り返しで、その先に彼らの旅立ちがある感覚。いわば『人生』の先輩は動物達なのでは?と思う瞬間さえある。身を持つて『死』を教えてくれるのだ。

とは言え、突然やってくる別れの時は本当に辛い。自分の残りの寿命を分けてあげられるなら喜んでそうしたいと毎回思う。1分でも1秒でも、共に行きたいと願ってやまない。

人間に比べればごく短い一生だけど、どの子も精一杯『死ぬまで生きて』くれたのだ。精一杯愛情を注いで過ごした時間が自分が死ぬ瞬間まで持っていける一生の宝物だ。

『たられば』に囚われてくよくよしても時は戻らない。精一杯生きてくれた幸せな記憶を大切に、心の中で共に生きる方を選んだ方が良いのかもしれない。その子が教えてくれた沢山の事と愛情は、次の世代の子達に注いであげたら良いのではないだろうか。

去年の11月、ミニレッキスの稲葉を失ったわたしは最近まで(今も)思い出すと胸が痛むし悲しくなる。もっとああしていればとか、こうしていれば、とか。後悔と懺悔の感情がまだ胸の奥をチクチクと刺す。いつもやんちゃで人間の周りを嬉しそうに跳ねたり寄り添ったりしてくれた、温かくやわらかなあの子はもう居ない。





だけど稲葉を知っている心友から、『彼は幸せだったと思う。こんなにも愛されて。愛された幸せな記憶のまま天国にいったからもう悲しまないで』と言われてハッとした。


動物は不思議なもので、わたしが人間関係で悩んだり辛い時はそっと寄り添ってくれたり、酷い時は彼らも体調を崩してしまう。飼い主の心のコンディションを敏感に写し取る。

だから、わたしが悲しみや後悔の念で沈んでしまうと今いる子達にもネガティブな念が移ってしまう。

稲葉への一番の供養は、くよくよと悲しみの記憶を引きずる事ではなく、沢山の幸せの記憶に感謝しつつ、今いる子達を彼以上にしあわせにしてあげる事なのかもしれない。

何をどんなふうに考えても、所詮は人間サイドの都合の良いエゴだとは理解している。

だけどやっぱり、一緒に過ごしてくれた子達はいつも何者にも代え難いかけがえのない存在で、唯一無二の尊いいのちなのだ。それだけは間違いない。わたしの人生の宝物だ。