ザ・ブルーハーツのチェルノブイリは反原発ソングか?
結論から言うと、私はそうではないと強く思っているし、
これを反原発ソングとして扱う人間のデリカシーの無さと読解力のなさを軽蔑しさえする。
好きな歌であるから、そこに大きな憤りもあるのだ。
3.11以降、過去に埋もれていたこの曲があるところでまた注目されている。
反原発ソングだとキャプションをつけられyoutubeにアップロードされてしまっていたりするのだ。
でも、本当にそうか?これは反原発ソングなのだろうか? 違うと言えるそのわけを書いてみたいと思う。
★まず、私の立場
ブルーハーツが好きである。
ブルーハーツに出会った時私は15歳で、既にヒロトとマーシーはハイロウズで活動していたのだが、それは知らなかった。
ネットで知り合った人に教えてもらい、バイト代でCDアルバムをすべて揃え、ブルーハーツとハイロウズのファンとなった。
原発については反対派であるが、今すぐに無くすことは難しいだろうという立場である。
反対の理由はモラルのない発電方法だと思うからだ。
さて、本題に入る。
このチェルノブイリという歌は反原発ソングなのかどうか。
その根拠として提示されるいくつかの理由について私なりに考えてみたいと思う。
1.歌詞の内容
反原発を窺わせる部分は大きくこの二つの部分だろう。
何度もうたわれる「チェルノブイリには行きたくねぇ」
そして曲の最後のほうで歌われる「まあるい地球は誰のもの?」
(1)何故チェルノブイリに行きたくないのか
誰でも分かることだが、悲惨な原発事故が起こったからである。
そしてそこで被曝による健康被害を受けたくないからだろう、ここまでは表面的かつ単純な解釈だ。
歌詞を掘り下げてみよう。
誰かが線を引きやがる
騒ぎのドサクサにまぎれ
誰かが俺を見張ってる
遠い空の彼方から
チェルノブイリにはいきたくねえ
あの子を抱きしめていたい
どこへいっても同じことなのか?
読解すれば、意図することが反原発ではなく、あくまでも「私」の心の葛藤の問題であると理解することが出来る。
気持ちの動きは下から上へと流れているということにまず着眼すべきだ。
まず遠くで大変な事故が起きて苦しんでいる人々が居ても、それでも自分はこれまでの幸福な日常を続けたい、あの子を抱きしめていたいという「私」が居る。
その私はチェルノブイリには行きたくないなと正直な気持ちを持ってしまっている。
そんな私を遠くで苦しんでる人たちが、見張っているように感じる。つまり罪の意識を感じてしまっていると悩む。
この騒ぎのドサクサに紛れ、私たちの罪の意識を紛らわすためにちょっとしたことをすればいいと誰かが線引きをしてくれる。
だが、それでいいのだろうか?
私はこう読み解く。意訳的な部分こそあれ、おおまかな解釈は変わらないはずだ。
重要なのは「チェルノブイリに行きたくないこと」ではなく、「行きたくないと思ってしまっている私」が主題となっていること。
あくまでも「私の心の問題、葛藤」これが主題であると私は思う。
だからこそ何度もあの子を抱きしめていたい、あの子とキスをしたいだけなんだと繰り返すのだろう。
この部分は百パーセント反原発ではなく、個人の心の葛藤を歌ったものだ。
(2)まあるい地球は誰のもの?
さて、チェルノブイリは反原発ソングではないと言うのが私の主張であるが、この部分に関しては反原発と解釈は可能だと思う。
歌詞をみてみよう。
まあるい地球は誰のもの?
砕け散る波は誰のもの?
吹き付ける風は誰のもの?
美しい朝は誰のもの?
誰もがそれを当たり前に感じ、益を受け取ることが出来るはずの地球の環境。
その環境は誰のものなのか、誰がなんの権限でそれを破壊することが出来るのか?
という疑問と憤りが表現された部分だ。
当然、その当時起きた原発とその事故のことを言っていると解釈できる。
しかし、ヒロトとマーシーの書く詩をつぶさに見てきた私にはこれが明確に反原発とは考えられない。
彼らの書く詩にはある思想や立場の明確な押し付けというものがないからだ。
常に、聴く者の心にボールを投げてそれを打つかどうかは聴く者に任せるというような印象をもたせる。
発言からもやはり同じ印象を抱く。
ライブ時に客が一体感をもって同じ動きをしているのが嫌いだ、好きに楽しめよと言っているし、
この歌が発表される時にも「自分なりの意見と考えをもってください」とだけ言っている。
この部分については、地球環境のことについて原発について考えてみてくださいよというボールであると私は解釈する。
明確な反原発的な意図を感じない。(もちろん、反原発だとの解釈は可能な部分だとも思っている)
次に、発売当時の状況だ。
2.原発産業に関わる東芝からリリースすることが出来ず、インディーズでリリースされたこと
反原発ソングだから東芝からリリース出来なかったんだ、だからこれは原発ソングだ、ということを言う人もいるようだが、
短絡的な結びつけ方だと思う。
そして一般大衆のこの愚かな短絡思考がそのまま、メジャーでリリースできなかったことの理由に直結すると思う。
東芝側がこれを反原発ソングと受け取ってリリースを見送ったということもあるだろうが、
もう一つの大きな要因として、これを反原発ソングと受け取ってしまう短絡的な層が一定数居ることを想定したため見送ったのではないだろうか。
だからメジャーでリリースすることは危険だ、見送ろうと。結局、アホに合わせるということだ。
つまり東芝がメジャーリリースしなかったから反原発ソングだということにはならないと考える。
★まとめ
この歌の主題は、チェルノブイリ事故を受けて生じた「私の葛藤」である。
同じような気持ちの動きは3.11のあと少しは自粛ムードもあったが、
遠くで悲惨な目にあっている人たちが居ても、すぐに自分の生活や友人や恋人たちとの人生の謳歌に戻った多くの我々も感じたところではなかったか。
その、我々が感じる普遍的な悩みについて歌っている。だからこそ心を打つのではないか。
チェルノブイリは反原発ソングではなく、心の葛藤の歌である。
★その後のブルーハーツ
さて、チェルノブイリで悩んだ二人はその後原発関連を思わせる歌をいくつか作っている。
イメージ、そして旅人だ。
四枚目のアルバムに収録されているイメージでは「治療法のない新しい痛みが走る」としながらも、
「どっかのぼうずが原発はいらねえってよ どうやらそれが新しい流行りなんだな」と反原発派に対して冷めた視点をもっていることを窺わせる。
この歌詞からしても、反対派にはどう考えても思えない。どちらかというと容認しているように思える。
治療法のない新しい痛みが走る発電方法と認めながらも、脱原発活動を新しい流行りとまともにとりあっていないのだから。
その次のアルバムに収録されている旅人では「プルトニウムの風に吹かれていこう」と歌う。これ以降原発関連を思わせる歌はない。
プルトニウムとはすなわち原発の象徴といえるだろう。原発のある世の中を認めながら生きていくしかないじゃんという彼らなりの結論と私は見る。
これ以降原発を思わせる歌はないと言ったが、ハイロウズになってから「地球に優しくだと 余計なお世話だババア」が出てくるのだ。
これの解釈もやはり注意が必要で、同じ歌の中に「第三次世界大戦だ ワクワクするぜ突撃だ」という歌詞も出てくる。
つまり、額面通りに受け取っていい歌詞ではないということだ。
第三次のくだりについては諦念と虚無的なやけくそを感じ取れる。つまり実際にそうなれとは思っていないということ。
では地球に優しくだとのくだりはどうか?これも本当に余計なお世話だと思っているわけではないだろう。
ビートたけしがこう語っている。地球環境をよくしようと思ったら人間全部殺さないと。と。
原発をやめることも我々人類が消えてなくなることもできない。そこにやはり諦観がある。
諦めて風に吹かれるように現状を容認していきていくしか術がないだろう、というのが現在の彼らのスタンスなのではないだろうか?
その後の彼らの道筋を見てもやはり、半原発から出発しているようにはやはり私には思えないのだ。
結論、やはりチェルノブイリは半原発ソングではない。個人の葛藤の歌である。
