高校入学し、真っ先に英語のクラス分けテストが始まった。

3段階のクラス分け。上級、中級、初級どこに振り分けられるのか。

 

塾教師の恐怖政治で鍛えられた英語が得意科目だと思っていたので、

上級に入れるだろうと思っていた。

 

結果は

 

見事

 

 

 

 

中級からのスタートだった。

 

淡い自信は脆くも崩れ去った。

 

 

 

そんな状況だったので、勉強を頑張ろうと思い、

授業中に疑問があれば質問するようにしていた。

 

 

 

そんなことを続けているとある日、

 

同級生からメールが入った

 

「カルロスってウザいよなー、質問とか授業後にやれよ。

マジ点数稼ぎウゼー。」

 

というような別の同級生に送ったことを装うメールを送ってきたのだ。

 

非常にショックだったし、怒りも覚えた。

それ以降、私が授業中に質問することは無くなった。

 

その瞬間から、このクラスの人と仲良くなれる気がしないと思った。

自分を出したら叩かれると思い、クラスは生きづらいものにだった。

 

 

学業以外について、バイトは地元の生協でのレジ打ちで決まった。

コンビニを希望していたが、母から反対にあったからだ。

 

コンビニは強盗とかが入ったりして危ない

 

というのが反対理由だった。

(ニュース番組の見過ぎなのでは?と思ったが納得してもらえず。。。)

 

母が選択肢として出してきたのは、

 

 

生協のレジ打ち

 

 

マクドナルド

 

 

の2択だった。

 

 

マクドナルドはキツイイメージがあった為、レジ打ちになることがすぐに決まった。

(数年後に自分がマクドナルドの仕事をするとは、この時知る由もない笑)

 

 

 

そんなある日、学校が終わりバイトの為に帰宅すると

母がこんなことを言ってきた

 

 

 

母「あんた部活は?」

 

私「いや、バイトあるし」

 

母「そう・・・」

 

私  (あれ!?これは部活の為にバイトはやっぱりやらなくていいってことか!?ワクワク♪)

 

母「バイトはやらないとだけど、部活もやったら?」

 

私「あー、なるほど。。。」

 

 

という流れで部活動を探し始めた。

 

「何か誇れるものが欲しい」という想いと「バイトをしないといけない」という現実から選択基準は2つだった。

 

・自分が活躍できる可能性がある(先行者利益が少ないもの)

・活動時間に柔軟性がある

 

それらに当てはまりそうな卓球部、水球部、少林寺拳法部、ギター部、英語会と話を聞いてみた結果、

 

英語会を選択した。

 

・勘違いしていた英語が出来るようになったらカッコイイ

・ディベートとか口喧嘩ならできそう

・活動時間が週1

 (紹介冊子にそう書いてあったが、1学期だけで、夏休み以降は週7という詐欺でした笑)

・サウジアラビア行けるのでは?

(実際に当時の3年生はサウジアラビアの王族に招待されてサウジアラビアへ行っていた笑)

 

あたりが理由。

 

だから、女子高と提携していて恋人が出来るかもとか、

そんなことは、1ミクロンも期待していない。

そう、ぜ、絶対にしていない。。。

 

 

なんだかんだで英語会に所属が決まると、

 

これがピタっとはまった。

 

英語会では英語でのスピーチ、ディベート、演劇を行なっていた。

 

スピーチは発音重視で点数が稼げないことがわかったので早々に諦めた。

 

しかし、

 

ディベートと演劇は好きになれた。

 

自分が自分らしく振舞えた。好き放題やって、それが受け入れられた。

好き放題やるとなぜか期待された。

 

好きだから頑張る。

 

頑張ると成果が出る。

 

成果が出るから好きになる。

 

好きだから、練習も楽しくなる。

 

楽しいからより活躍できる。

 

活躍するから周りからの尊敬の念も得られる。

 

先輩からも可愛がられる。

 

 

高校時代の思い出はこの部活動が全てだったと言えるぐらい、部活動が楽しかった。遂に居場所を見つけたのだ。

 

授業を受けている時と部活動の最中でテンションが10倍ぐらい違うとも言われていた笑

 

そんなにも楽しかったのは、自分がありのまま存在して、それが許される環境で、

組織に貢献もできている実感を得られたからだと思う。

 

結果的に本当に幸せな高校生活だったが、大学では絶頂と絶望を味わうことになる。。。

自分に得意なものが見つからず「無理だ、できない」という思考のまま中学校へ入学。

 

中学へ入学したこともあり、母の方針で姉が既に通っている学習塾へ行く事になった。

 

入塾テストを受けると、2クラスあるうちの下のクラスへ配属。
(姉は当然最初から上のクラスに配属だったと聞いていた)

小学校時代に不真面目だったから、仕方がないかとも思ったが結構ショックだった。

 

ショックを拭う為に最初の授業を真面目に受けた。

結果、なぜか上のクラスへ転籍に。

 

「上のクラスでもやっていけるでしょう」

 

という評価。地味に嬉しかった。

 

 

 

上のクラスでもふざけながら1年が過ぎると、先生が変わった。

超絶怖いH先生が英語の担当になった。

 

どれぐらい怖いかと言うと

 

怖すぎて質問ができないぐらい 笑

 

質問が出来ないからこそ、ものすごく集中して授業を受けていた笑

一瞬でも分からなくなったらオワリだという恐怖訴求で頑張った結果、

1年間で英語だけ偏差値が大きく上がった。

 

H先生の恐怖政治がなければ、今の自分はなく恩師の1人だと思っている。

(いまだに怖いから報告とか出来ないけども笑)

 

一方で学校でも恩師に出会った。こちらもH先生だ。

分かりづらいんで以下HR先生とする。

 

HR先生は部活の顧問であり、2年生時の担任であった。

 

自分が役職を引き受けるか悩んでいる時

「やってみたら、意外と出来ると思うからやってみたら?」

と言ってくれた。

 

ほぼ初めて期待されたことが何よりも嬉しかった。

 

その一言で、色々挑戦するようになった。

体育祭での応援団、合唱コンクールの指揮者、文化祭の演出、卒業式の指揮.etc

HR先生が挑戦する精神をくれたと思う。

 

 

中学3年生になり、塾では国立早慶付属校を目指すコースが隣駅の塾に新設された。

新設だから基準が少し甘くて、入れてもらえることに。

チャレンジする意味合いで加入すると偏差値が少しずつ上がっていった。

 

早慶なんて無理過ぎて考えた事さえなかったが、

もしかしたら可能性があるかもしれないと意識するようになっていた

 

もし、早慶に受かったら父みたいにならないで済むかもしれない。。。

(早慶行ってたらモテるかもしれないとも考えていた。現実そんなに甘くないのだが笑)

 

そんなことを思って受験を決意。

しかし、母親は経済的負担の少ない公立トップ校を勧めたかった模様。

 

その為受験の条件があった。

 

早慶受験費用約10万円は早慶不合格の場合には自己負担しなさい

 

ということだった。

 

中学3年生に10万円は結構大きい。

しかし、その条件を引き受けた。自分の力を試してみたかった。

合格したら有能であることを証明できるかもしれないと。

 

そこからは更に勉強に力を入れた。

 

その結果…

 

 

慶應義塾志木高等学校  不合格

 

早大学院  合格

 

慶應高校  合格

 

となった。

「勉強は得意だ」と言えそうな気がしてすごい感動したのを覚えている。

 

 

ところで、合格したのは良かったのだが、家族は合格すると思っていなかったようだ。

 

その為、進学するためには更に条件が追加された。それは

 

「高校3年間バイトをして、大学初年度の入学金と学費を貯めること」

 

だった。

 

大学受験する大変さに比べたらそんなに大変ではないだろうと考え、

その条件を呑むことにした。

 

世の中的にはお坊ちゃん学校と呼ばれている学校に苦学生が進学することが決まったのだ。

 

 

受験で培った淡い自信も高校生活に入ると無残にも崩れ去ることになるのだが、

それはまた次回のお話。

私は4人家族の末っ子長男としてカルロス家に産まれた。

我が家初の男の子なので、さぞ親族は喜んだそう。

 

父親は伊豆諸島の出身で、伊豆大島の高校を出て上京し、郵便局員勤務。

ちなみに結構抜けている。

世間的に言うと「おドジ」なのだ。

 

一方の母親は専業主婦だが、元々商業高校を優秀な成績で卒業。

中部電力で勤務していたこともあり、非常にしっかりしている。

だから、母親は父親のドジが許せなかったりする。

 

2歳上の姉は母の血を強く引いたのか、幼少の頃からしっかりしている。

家族イベントの記憶力は随一で、今でも家族は彼女の記憶力に驚かされる。

 

 

そんな家庭に産まれたカルロスは非常に可愛がられていたが、

自分という存在を承認できずに苦しんでいた。

 

1つ目の理由は現状を否定されていた為だ。

 

家庭内では、できる姉と比較されて育った。

姉はすぐできることが私にはできないのだ。

出来ない事に対して、意識が集中してしまっていた。

 

さらに家庭外でも活躍の場がなかった。

幼少期の遊びはナントカ鬼が中心。

基本は鬼ごっこであり、足の速さが非常に重要な世界。

 

そんな中、カルロス少年はびっくりするぐらい足が遅かった。

両親ともに運動神経は皆無だったと聞いている。

 

家庭内にも家庭外にも活躍の場が無いのは子供ながらに苦しかった。

 

ただ、未来に希望が持てれば人は頑張れる。

映画「ショーシャンクの空に」の主人公はでも未来に希望を持っていたから腐らなかった。

 

我が家では、父親が母親からよく叱責を受けていた。

おドジな為、色々と仕事や家事でミスしてしまう父。

それを怒らずにはいられない母。

 

母は父親がいないところでも父親のことを悪く言っていた。

 

 

そのような状況で、私は母親から

 

「あんたは本当に父親にそっくりだ、このままじゃ将来お父さんみたいになっちゃうよ」

 

と言われた。

 

 

実際に父親の実家に行くと100%どこの家の子なのか当てられた。

父親にそっくりな私は、将来父親のようになるであろうことは子供ながらに容易に想像できた。

 

その瞬間に小さい私は誓った

 

「お父さんみたいにだけはならない!」

 

存在しているだけではダメで、有能で無ければ生きていてはいけないと感じていた。

だからこそ、何か得意になれることを探し続けた。

 

人を笑わせることならできるんじゃないか?

水泳ならできるんじゃないか?

勉強なら少しはできるんじゃないか?

 

そうやって自分は得意なものを探し続け、結果的に能力が備わっていった。

 

しかし、この考えが、またこの後大きな影響を与えるとはその時は知るよしもなかった。。。

 

第3話に続く

はじめまして、Carlos です。閲覧頂きありがとうございます。

まずは、私の簡単な略歴を・・・


====略歴====

横浜市の公立小中学校を卒業後、慶應義塾大学の付属高校へ入学。

(同じ苗字の先輩からカルロスというあだ名を授けられる。)

 

慶應義塾大学法律学科へ進学後、ディベートの全国大会で優勝(英語で)。

 

同大学を卒業後、某外資系ファストフードチェーン最大手の会社へ就職。

 

新卒として初めて経営企画に配属。

==========

 

「順風満帆ですね♪」とよく言われます(あだ名以外)。

 

でも、あまり心は満たされていませんでした。。。(あだ名が理由ではありません、むしろ気に入ってます笑)

 

このストーリーは、一見順風満帆に見えるのに、何がそうさせていたのかを紐解いていくストーリーです。

 

何事も比較して自分を評価してしまったり、自分の事を好きになれなかったり、人からはスゴイと言われるが自信がなかったりする方々に何か一つでも気づきがあればいいと想い、この文章を書いています。

 

初めて公に文章を書きますので読みづらいかもしれませんが、お付き合い頂けますと幸いです。