んにちは、ノブです。



どうせロクな人生を送れないさ、
せいぜい今のうち楽しめよ。


何で俺がセンス皆無の奴らと
同じ空間に居なければいないんだ。


あんな馬鹿共なんか
こちらから話しかける必要も無い。


お前らと楽しくやるなんて、
こっちから願い下げだよ。




って思ってました。



しっかりコミュ障拗らせて
孤立の道に突き進んでいた僕は


「本当は価値のある自分」


少数の友人を除くの周囲の人間を


「話す価値の無い下等な生き物」


決めつける事で、
自尊心を守っていました。




それは
ナルシズムと自己嫌悪の間で
激しく揺れ動く苦しい日々です。



教室という人気取り社会に
嫌気がさしていたと言えば


聞こえは良いのですが、


実情は
ただの爪弾きにされた
一匹狼()コミュ障完全体です。



本当に情けなく矮小な存在でしたね。



偏見に固執する事でしか
息が出来なかった自分自身を
今思い出すと恥ずかしいです。


でも、少し可愛らしいですね。



「本当は仲良くなりたかったのに、
出来ないから嫌いになってやる」

という幼い理屈が拗ねた子供のようです。



他人を見下してしまえばそこで
コミュニケーションは断絶されます。




同じ立場に立たないと決意する事は
相手の気持ちを考えないという宣言
のようなものです。




もし
僕と似たような考え方に陥っているなら


今すぐに変えた方が良いです。



本気で
相手を見下しているので無ければ、
それは自分の首を絞める事になります。


もしも
僕がその時の自分に言葉をかけるなら



「無理するな、
寂しいなら寂しいと思っていいんだよ。」
と、



言うでしょう。



自分の気持ちを素直に認める事、


そして


他人を見下す事で
自分を守るのはやめにしよう。




そう決意したのは
もうすっかり孤立ポジションを極めた時でした。



僕の場合、
その日から徐々に
相手の立場に立って考える事が可能になり、
全くわからなかった他人の気持ちを
推察する事も出来るようになりました。



当初は
あんまり気が乗りませんでしたけどね。



でも今は、
その段階を抜け出せて事に
満足しています。


今まで徹底的に嫌い抜いていた相手と
話すことが出来て、


ある事に気が付いたからです。



「意外と良い人達だった。」



というわけではありません。


見栄っ張りで、
底が浅いのは相変わらずで、
空気ばかり読むことに全神経を使う
いけ好かない連中です。



ですが、
それぞれに興味関心があっ
て悩みがあって泣いたり怒ったりする、




僕と同じ人間でした。




僕が「価値の無いあいつら」と
漠然と括った人々は
実は同じ血の通った人間で、



それに気が付いた時。



僕は
自分が本当に嫌いだったのは
その人達自身ではなく、


「教室の空気」


そのものだった事がわかったのです。




まとめ




人を見下すという事は、
自分を守る上では時に必要なのも事実です。



ですが
それはあくまで緊急避難的に使うべきで、


自分の状況を変えようと
本気で願う人がするべきことではありません。



弊害が多すぎます。



自分の怒りや憎しみや
コンプレックスの陰に隠した
本当の気持ちを理解して、
自然体で人には接しましょう。




打算や裏の目的を持ちながら
コミュニケーションする時でも、


必ず相手は自分と同じ人間である
という意識を持ち続けてください。




例えどんなに嫌いでも良いんです。



コミュニケーションの窓が開いてさえいれば。