〇葦原色許男神と葦原醜男
☆読み
古事記には「亦名謂葦原色許男神(色許二字以音)」
と指定されています。
呉音:しきこ(表外)、漢音:しょくきょ
上記から「呉音」の「しきこ(表外)」が近いように思われます。
これにより、「葦原色許男神」は「あしはらしきこお」と
読まれていたと考えられます。
呉音でも細かく分れているようなので「しこお」と
読む音があったかも知れませんが予測の域を出ません。
☆意味
「葦原」がどこを指すのかまでは不明ですが、
「葦原中國」でも「日本全域」でもなく、
ただ単に周りに「葦」が生育するような湿地帯に囲まれていたか、
もしくは周りに多くの湿地帯が存在したから冠したと考えられます。
そもそも、なぜ、「葦原中國」が
列島全域を指すように考えられているのか?
「葦原中國」の呼称も
國が「葦原」のある湿地帯に囲まれた「中」にあり、
攻めるに難しく、守るに容易いと言う立地条件から
付けられたのだと推測出来ます。
記紀などのの話をフィクションとし、「高天原」を「天上」、
「黄泉の国」を「死者の国」と考えるから可笑しな発想になるのです。
九州にしたって今よりは湿地帯が残っていたかも知れませんが、
それでも「葦原」を冠する名を付けたと言う事は、
多くの場所に存在したのではなく群生地が少々あるだけだった。
もし、多くの有力勢力が葦原を有していたら、
葦原は国の特徴にならないので違う国名になった筈です。
記紀の国名などの名付けを見ると、
地形や周りの環境から名付けている例が多い様に思えます。
その事からも、「葦原」を冠した名を付けると言う事は、
列島内にいる諸外国に「葦原」を所有している事を
アピールするためだと考える事が出来ます。
次に「色許(しきこ)」は単純に「色を許す」とするならば、
古来より「英雄、色を好む」と言う言葉があるので、
妻子が多くいると言う意味ではないだろうか。
日本書紀は「色許」を「醜」に変更していますが、
「一夫多妻」派を「一夫一婦」派から見ると
「醜く」映ったのかも知れません。
ヒントになりそうな単語もないので真相は闇の中となります。
☆検証
この二つの名で異なるのは「色許」→「醜」に変更、
そして、葦原醜男に「神」が付いていない事の二点です。
記紀では「葦原醜男」以外には「神」、「命」が付いているが、
この名のみ付いていない。
なぜ、「命」や「神」の地位に昇格できなかったのか?
何かとんでもない事をしたから「醜」になってしまったのか?
しかし、古事記では「葦原色許男神」と「神」が付いています。
もし、「葦原色許男神」を三代目と考えるなら、
「葦原醜男」や播磨国風土記にある「葦原志許乎」は
「葦原色許男神」の子孫なのかも知れません。
特に、「葦原醜男」と「葦原志許乎」は「神」も「命」もないので、
「葦原醜男」の一族は地位向上は叶わなかっただと思われます。
系図にすると「葦原色許男神」ー「葦原醜男」ー「葦原志許乎」と
なりそうですが、時代のヒントが少ないので判断は難しそうです。
〇八千矛神と八千戈神
まず、「矛」と「戈」の違いから考えて行きます。
「矛」:長い柄の先に両刃の剣を付けて、突き刺す。
「戈」:片方に枝の出た鳶口状で、引掻けて使う。
参照1:「戈」「矛」「鉾」・・・どう違うのでしょう? - 日本語・現代文・国語 解決済み| 【OKWAVE】
https://okwave.jp/qa/q5614582.html
二つの武器は形状や使い方が異なるようです。
しかし、参照2のサイトで歴史を見ると、
登場時期は大差ないようですが、
九州では「矛」が多く使われていた可能性が高そうです。
参照2:矛盾と干戈 | ミリタリーショップ レプマート
http://repmart.jp/blog/history/shield/
次に八千矛神と八千戈神の関係性についてですが、
同一人物なのか、それとも名を継承したのか判断が難しいです。
ただ、古事記では神名を書き分けている事から考えて、
「大国主神」と同一人物ではない事は確かだと思われます。
〇宇都志國玉神
読みは古事記に「亦名謂宇都志國玉神(宇都志三字以音)」
と指定されています。
呉音:うつし、漢音:うとし
上記の様に「呉音」で「うつし」の可能性が高いです。
日本書紀では読みに関する注記が無い為、
「顯國玉神」の「顯」が「うつし」と読むのかは不明。
次に日本書紀には「宇都志國玉神」に類する神名がありませんが、
「大國玉神」、「顯國玉神」の神名が登場します。
三つの神名はいずれも「國玉神」と書かれています。
「玉」を「魂」と書くサイトもありますが、正しくは「玉」です。
「八千矛神」の様に、「武力」メインで國を発展させる王がいれば、
「宇都志國玉神」の様に、「外交」メインで國を発展させる王がいます。
古事記に記載される「亦の名」が歴代の「大国主神」かは不明ですが、
関連性がある為に書かれたのではないだろうか?
〇大己貴命と國作大己貴命
日本書紀の「大己貴命」がどの時期に分類されるか判断に困ります。
しかし、日本書紀に「大己貴命與少彥名命」とは書くが、
古事記に書かれる「大穴牟遲神」と重複する話がないので、
「大穴牟遲神」=「大己貴命」とするのは無理がありそうです。
となると、「大己貴命」は古事記にある「大国主神」の時代よりも
数代後の時代と言う事も考えられる。
あと、気になるのが「大己貴命」→「大己貴神」に変更されているが、
その間に何があったのだろうか?
☆読み
日本書紀第八段一書第二に「大己貴、此云於褒婀娜武智」と
書かれていて、普通に読めば「おほあなむち」と読めます。
しかし、万葉仮名で読むと「おほなむち」となります。
歴史的仮名遣いの「おほあなむち」と万葉仮名の「おほなむち」の
どちらが正しいかは分かりませんが、
日本書紀には「大己貴命與少彥名命」と書く事により、
「大穴牟遲神」=「大己貴命」のイメージになっていますが、
万葉仮名が正しいとすると「イコールでない」事の傍証となりそうです。
参照:『万葉集』を訓(よ)む(その540): 河童老「万葉集を訓む」
http://kiyokagen.seesaa.net/article/395920267.html
☆何世孫?
日本書紀第八段本文:
「乃ち相と與(とも)に合い遘(まみ)えて
而(すなわ)ち兒の大己貴神を生む」
一書第一:
「乃ち奇御戸(くみど:格子戸)に於いて起ちて為す
而(すなわ)ち兒が生まれて
號(よびな)淸之湯山主三名狹漏彦八嶋篠という
一つに淸之繋名坂輕彦八嶋手命と云う
又 淸之湯山主三名狹漏彦八嶋野と云う
此の神の五世孫、即ち大國主神という」
一書第二:
「而(なんじ)長く養い然る後、素戔嗚尊、
妃の所而(に)生まれた兒を以て之(これ)六世孫と為す
是(これ)大己貴命と曰(い)う
大己貴、此れ於褒婀娜武智(おほあなむち)と云う」
まず、日本書紀第八段本文から考えて行きます。
本文には「櫛名田比賣」が「大己貴神」を産んだとは書いていません。
それに、「武素戔嗚尊」と書かれているので、
「速須佐之男命」ではなく「建速須佐之男命」と考えると、
「大己貴神」と言う名は結構前から使われていたのではないか?
他にも、「スサノオ」とは言っても継承名である可能性があり、
何代の事か分からないので謎が多い本文です。
次に一書第一ですが、「此の神」とは誰を指すのだろうか?
「淸之湯山主三名狹漏彦八嶋篠」を指すのだとすると、
「神」ではないので「此の神」とするのは間違っている様に思えます。
また、古事記の「八嶋士奴美神」と「淸之湯山主三名狹漏彦八嶋篠」
が同一人物かどうかも不明です。
なので、「此の神」の指す人物は
「八嶋士奴美神」ではないか?と考えています。
次の一書第二の疑問点は「妃」は誰か?という点です。
「八嶋士奴美神」であるのなら、
母親は「櫛名田比賣」でないとおかしいです。
また、「八嶋士奴美神」の「六世孫」とするならば、
古事記の「大国主神」の子の世代となります。
七世孫ともなれば、一世代下がるので色々と変わって来ます。
これらをまとめて考えると、
「大己貴命」は「大国主神」の子であったが地位を受け継がず、
別の土地で國を造り親と同じような仕事をしていたのではないか?