国生み~大国の存在の記紀総括100-スサノオへの記述2- | 記紀以前の日本史を探す

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古事記や日本書紀、俗に偽書とされる歴史書、古代アジア各国の歴史書などから古代(紀元前1000年頃~)日本列島の真実の歴史を考えて行くブログです。

□スサノオへの記述について

 

日本書紀第七段一書第三:

 

「汝所行甚無頼 故不可住於天上 亦不可居於葦原中國

 宜急適於底根之國 乃共逐降去 于時 霖也 素戔嗚尊

 結束青草 以爲笠蓑 而乞宿於衆神 衆神曰 汝是躬行濁惡

 而見逐謫者 如何乞宿於我 遂同距之 是以 風雨雖甚

 不得留休 而辛苦降矣 自爾以來 世諱著笠蓑

 以入他人屋内 又諱負束草 以入他人家内 有犯此者

 必債解除 此太古之遺法也」

 

(汝の甚だ無頼の所行故に天上に於いて住む不可(べから)ず

 亦、葦原中國に於いても住む不可(べから)ず

 底根之國に於いて急ぎ適するが宜しい

 乃ち降りて去るのを共に逐(お)う時于(よ)り霖(ながあめ)也

 素戔嗚尊は青草の束を結んで笠と蓑を以て為す

 衆(もろもろ)の神而(に)宿於(お)乞う

 衆(もろもろ)の神曰く

 汝 躬(みずから)是(この)濁(きたな)き行いを惡(にく)む

 而(しか)も逐(お)うのを見て謫(とが)める者(は:短語)

 我、宿於(お)乞うは如何(いかん)

 遂に之(これ)同じく距(へだ)てる

 是(これ)を以て甚だ風雨と雖(いえど)も
 休み留まりを不得(え)ず而(に)辛苦により降る

 爾(なんじ)自ら笠と蓑を以って来て世の諱(いみな)著し
 他人の屋内に入るを以て、又 草の束を諱(いみな)に負う

 他人の家の内に入るを以て、
 此の者、犯が有りて必ず債の解除す

 此れ太古から遺る法也)

 

▽無頼の所行

 

「無頼の所行」とあるが「無頼」とは何だろうか?

 

「定職を持たず無法な行いをすること」や

「頼みにするところがないこと」と書かれている事が多いです。

 

しかし、「頼る人や場所がない事」と、「無法の行いをする事」は

イコールで結びつく事ではありません。

 

スサノオが「頼る人や場所がない事」で断罪されるのは不可解ですし、

「状(かたち)の無き行い」と書いているのに「無法の行い」での

断罪もやはり筋が通っていないと思われます。

 

▽底根之國

 

今まで日本書紀では「根の國」と表記されていましたが、

今回に限り「底根の國」と表記されています。

 

と言う事は「根の國」と「底根の國」は別の國ではないか?

と受け取る事が出来ると考えています。

 

日本書紀の「神代上巻」では「底根の國」は一箇所で、

その他は「根の國」と表記されています。

 

逆に「神代下巻」には「根の國」も「底根の國」も登場しません。

 

「素戔嗚」で検索しても検出できない事から、

「根の國」と「底根の國」は「スサノオ」関係の國と言えそうです。

 

では、存在した場所はどこだろうか?と考えても

國の状況等の情報が少なく判断する事は困難です。

 

なので、「根の國」や「底根の國」の表現からしか推測出来ませんが、

木や植物の「根」が特徴的な國と考えると、

「緑豊かな國」を想像する事が出来そうです。

 

「緑豊かな國」と仮定すると「森林」が多い地域と考えると、

「天(あま)なる國」や「葦原中國」に近い、

現在の佐賀県近域に存在した可能性が高そうです。

 

ただ、「底根の國」は「根が底に付く所」に由来したとするならば、

「底」とは何を指すのか?を考える事により色々と推測出来そうです。

 

「底」と言うと「海の底」や「土の底」を思い出しますが、

紀元前8世紀頃において「海や土」の底まで

たどり着くのは難しい様に思われます。

 

その事から、「大八嶋國」の周りの水位が

第一次弥生小氷期の終り頃から上がり始めて土が侵食された。

 

土が水位の上がった水によって浸食されて削られた為に、

木の根が奥深く(底)まで達しているのが確認する事が出来た。

 

その後、「底根の國」と改名したのではないか?と推測しました。

 

「底根の國」が「根の國」の一部だったのかどうかは分りませんが、

全くの無関係ではないと考えています。

 

△「死者の國」とする間違い

 

「根の國」や「底根の國」を「死者の國」と考える人も

多いと思いますが、不可解でしかありません。

 

そもそも、なぜに「死者の國」なのだろうか?

 

普通に考えて「死者」が「蘇る」事はあり得ません。

 

それに、「根」は地下に伸びますが、地上の太陽の光が無ければ、

成長する事が出来ないのに「死者の國」や「地下の國」の様に

考えられるのは、きちんとした解釈をしていないためだと思います。

 

その一番の原因は「伊邪那美」等の同一名を同一人物と

思い込んでいる事が大きな要因です。

 

音や漢字が同じだからと言って必ずしも同一人物とは限りません。

 

例えば田中一郎、鈴木一郎など探せば簡単に見つかります。

 

これからも同一名(継承名?)が使われているケースが登場しますが、

漢字や音、継承された名かどうかを判別するべきでしょう。

 

△「緑豊かな國」の理由

 

最初の方で「根の國」や「底根の國」は「緑豊かな國」と推測しました。

 

「根」は地下に根を張りますが、地下に根づいて大きく成長するほど

「安定感」が増し、果実や材木等に利用しやすくなるように思えます。

 

根づく事により木が安定して栄養分を地下から摂取出来れば、

果実の木になる実も大きくなり、食料を採取する事が出来ます。

 

食料を安定して採取出来れば、飢える心配もなくなります。

 

このように、「根」を特徴とする國と言う事は、

「森林地帯」を容易に想像出来、「緑豊かな國」と推測に至ります。

 

あながち間違いではないだろうと考えています。

 

▽「諸の神」と「衆の神」

 

日本書紀原文では今まで解析して来た内容では「諸神」を

使っていましたが、今回は「衆神」に変更されています。

 

なぜ、今までが「諸」で今回は「衆」なのだろうか?

 

「諸」は「薪を集めて煮炊きをするの意。

薪を集めるように人が集まり、ざわざわとする様。」とある。

 

「衆」は「古くは、「日」又は「口」で「日の下に」又は「ある区域で」を

意味したものではないかとされる」とある。

 

両方、WIKIに記載されている事ですが、

「衆」の「ある区域」が気になります。

 

この事から「諸」と「衆」を考察すると、「諸」は制限が無く、

「衆」は「区域」と言う場所が限定されると受け取る事が出来ます。

 

今回、「衆神」を使用した理由として「底根之國」に移動している

「スサノオ」が立ち寄った地域の住民を指しているように思えます。

 

ただ、この地域がどこなのかは情報が無く不明です。