大村益次郎には、藤村文恭(文政10年~明治22年)という二歳下の実弟がいます。この人が、明治13年に書いた

 

「大村家ノ始末並親族両派二分レ相続ノ差縺レ出来候事故詳細ニ相認差出候様御達相来候ニ付演舌書ヲ以上申」

 

という長い前書きの文書があります。

 平たく言えば、大村の死後、大村夫人琴と文恭が、まあ色々と揉めたわけで・・・。

 

それはともかく、この文書が、大村と琴の小伝にもなっているわけです。いわば、大村益次郎最古の伝記ともいえるのです。

大村死後の琴と文恭の確執部分が長いのですが、そこはカットして、少しご紹介いたしましょう。

 

大村家ノ発端並益次郎身上ノ事件

大村益次郎事初名村田宗太郎、十五六才ヨリ医学ニ志シ候而、亡祖父ノ名号ヲ取良庵ト改名。

廿五六才ヨリ蔵六ト改名、其後旧知事公ヨリ御意ヲ受、大村益次郎ト改名セシモノナリ。

元来大村家ハ鋳銭司村之内字大村居住ノ医師村田良庵ト申者一人ノ娘アリ。

父孝益ヲ彼方江聟養子ト為シ、彼ノ娘ト妻合セ程無ク養父良庵死去致シ、其後一子出生宗太郎ト号ス。

然ルニ、村田家何分逼迫ニ而渡世方も難相成、且ツ父孝益も元来藤村家ノ一子故、壱人シテ二戸ヲ兼候而ハ世話方モ不行届ニ候故、村田家ノ世話人末広孫助其外親類組合共示談ノ上、一ト先村田家ヲ畳ミ置、秋穂藤村家江引取宗太郎成長ノ上再興為致度ト議決候由ニ而、村田家ヲ売払ヒ其代價並二少シ之所有地等迄世話人二相頼ミ撫育致サセ置妻子ヲ引連五十二三年前二秋穂藤村家江帰り其後二男並女子弐人出生。

藤村家二而妻子ヲ養育致シ、兄宗太郎ヲ仮成之者ニ取立度ト藤村家ヨリ学費ヲ支出シ十年間も学業致サセ種々心配致居り處、兄二十七才ニも相成候故、村田家ノ相續為致度由ニ而大坂緒方ノ塾ヨリ招キ帰シ、鋳銭司村四辻二開業。

其節、鷹ノ子村高実半衛門ノ娘ことナル者ヲ蔵六妻ニ貰ヒ受、其後一年計リモ経候而蔵六事志處ノ筋アリ之由ニ而、親子示談之上豫州宇和嶋江罷越候折柄幸ヒニシテ宇和嶋侯江被召抱、暫ク彼地江滞留ノ積りニ候故、妻ノ引越も致度趣父ニ相談致シ候故、父並舅方ノ親類中一同ニ連レ越致シ、其後宇和嶋侯江戸御番ニ付御供被仰付候故妻ハ実家預ケ置度トノ由ニ而差帰シ、其後江戸滞留ノ様子ニ付妻ヲ當地江呼寄度此報婦人身元江相談致シ・・・

 

と延々と続きます。

琴さんの実家は「高樹」と書かれている本がありますが、元は「高実(たかざね)」でした。明治後に「高樹」と改姓したのです。

大村益次郎といえば、国民の多くは「花神」のイメージをお持ちだと思います。

ネットでは、司馬氏の創作があたかも史実のように書かれています。

(夫人琴がヒステリーとか・・・)

かつて坂本龍馬も「竜馬がゆく」の創作がまかり通っていましたが、龍馬ファンの研究の結果、実像が見えてきました。

(肝心のところが、まだ拭いきれていないようですが)

 

大村益次郎は龍馬のように人気がありませんので、だれも研究しないので、いつまでたっても「花神」のままです。

 

ひとつには、大村益次郎の伝記がないことが理由です。

勉強しようにも、教科書も参考書もないというところでしょうか。

大村の伝記は、昭和19年のものが最後です。

戦時中にかつての軍神を讃え、国民に奮起を促すという意図があったのでしょう。

900ページ超えの大部のものですが、正直中身は伴っていません。

大村のことだけが書けばよいのに、大村以外の余計な記述が多すぎて、かえってスカスカに思えてしまいます。

 

戦後、一度も読むに値すべき伝記が書かれていないのは、やはり、本人の書簡集がないことが原因です。

だれもできないのなら、私がやるしかないと思います(^^;

大村益次郎伝、出来ました。

タイトルは、『幕末維新の仕事師・村田蔵六―大村益次郎』。(A5 148P)

 

お問い合わせは、

 大村益次郎没後百五十年事業実行異委員会

 ☎050-5207-1118

6月26日(日)。山口情報芸術センタースタジオA。
演題「坂本龍馬-薩長同盟仲介人の虚実-」
242名ご来場、ありがとうございました(^^


2萩市が刊行しているブックレット「萩ものがたり」シリーズ45で、「吉田松陰の妹・文(美和)」を書かせていただきました。
 文さん単体では、はじめての小伝と思います。

 ■仕様 : A5版 65ページ
■価格 : 510円(本体473円+税)
お問い合わせ先
有限責任中間法人 萩ものがたり事務局
〒758-8555 山口県萩市江向510番地 萩市広報課内
電話番号0838-25-3233 Fax 0838-26-5458