●韓国併合

韓国総監府の設置

 日露戦争さなかの明治37年1904年8月、日本は韓国と第一次日韓協約を結び、韓国政府に日本が推薦する外交・財政顧問を採用することを認めさせました。

 日露戦争に勝利した日本は、韓国からロシアの影響力を排除することに成功。明治38年1905年7月、桂太郎首相はアメリカ陸軍長官タフトと会談し、韓国を日本の保護国とすることを認めさせ(桂・タフト協定)、イギリスとは第一次日英同盟を結んで、米英の暗黙の了解のもと、韓国の植民地化を進めます。

 同年11月に結ばれた第二次日韓条約では、韓国の外交権を剥奪し、ソウルに党監府を設置して、伊藤博文が初代総監に就任します。

ハーグ事件

 明治40年1907年6月、オランダのハーグで開催された万国平和会議に、韓国皇帝・高宗は密使を派遣し、日本の横暴を国際社会に訴えようと試みます。しかし日本の植民地支配は列強が黙認するところだったため、密使は会議に出席することを認められませんでした。逆に韓国総監・伊藤博文は、外交権のない高宗が国際会議に密使を送ったことを責め、高宗を退位に追い込みます。

 同年7月、日本はハーグ事件をきっかけに第三次日韓条約を結び、司法権など内政に関する権限を韓国から剥奪、軍隊を強制的に解散させてしまいました。韓国内には日本に対する不満が充満し、各地で武力による抵抗が起こりましたが、日本は軍隊を投入してこれに対抗します。

伊藤博文暗殺

 明治42年1909年10月、韓国の独立運動化・安重根がハルビン駅で伊藤博文を射殺するという事件が起こりました。これを機に日本は一気に韓国への圧力を強め、翌年8月、韓国併合条約を調印。朝鮮総督府が設置され、韓国併合が完了します。

 同じ頃、清では明治44年1911年に辛亥革命が起こり、革命の理論的指導者であった孫文が翌年1月1日、南京で中華民国を打ち立てました。孫文は臨時大総督に就任しますが、皇帝の退位を条件に、清朝政府を掌握する袁世凱に政権を譲渡。約300年続いた清朝は滅亡します。

 袁は軍閥の武力を背景に、次第に独裁色を強めていったため、国民党を結成した孫文らは大正2年1913年に再び武力蜂起(第二革命)しますが、政府に弾圧されて失敗に終わりました。

 列強各国は袁を支援し中国における利権獲得に走りましたが、山本権兵衛内閣は中国進出に消極的だったため、軍部を中心に政府批判が起こります。