あまりに暇だったので図書館で3冊ほど本を借りてきた。

この部屋にはテレビがないので本を読むのが適当である。


いつも本を読んでいて思うのだが、本を読む事自体は楽しんでいないように思う。

常に残りページを気にしながら読み進めてしまう。


こんな読み方をしていて本を読む意味があるのか。


1冊の本を読みきったという達成感を得たいだけのような気がする。

そういう考えがあるからかどうかはわからないが

借りてきた本は、どれもそれほど厚くない。




両肩が慢性的に痛い。

原因はわかっているのだが、これは治るのであろうか。


祖母がよく通っている接骨院がある。

そこへは私も行ったことがあるがそこは地獄だ・・・。


むちゃくちゃ痛い。


痛いから行ってるのに効果があるのか疑問でならない。


どうも、接骨院というのは信用できないような気がする。

接骨院にいくのなら整形外科へまず行くだろう。

まず、接骨院は当然レントゲンを扱うことができない。


そのことを祖母にいっても聞き入れてくれない。


むちゃくちゃ痛いにも関わらず、毎日多くのご老人方が通院してくるという。


治療としてその症状をこえる痛さを与えることによって

相対的に痛さが緩和されたり、あるいは麻痺のような感じで

治ったように錯覚させる効果があるのかもしれない。


あるいは「痛さ」を代償として、回復するという思考があるのかもしれない。

そういう意味では痛ければ痛いほどよいのかもしれない。


これは一種の宗教にも似た感覚があるように思う。


下宿しているのだが、そこのアパートのフローリングを

カビを生やしてしまい、どうしようもなく管理会社へ電話をかけた。

ちょうど、そのアパートの補修工事の都合のいい日も

告げる必要もあったため、それとあわせて連絡した。


文句みたいなことをいわれながらも

業者をよんでくれることになり、その補修工事にあわせて

その状況をみてくれるということとなった。


1週間後、補修工事の日程の都合が悪くなったために

一方的に1週間の延期をされ、工事日は3日あり、

その3日のうちで都合のいい日の再度伝えてほしいとの旨と

1階に住んでいる住人に関しては留守でもベランダから入って

工事が可能ということが郵送で送られてきた紙に書かれていた。

また、その工事日は洗濯物をベランダに干さないようにとも記載されていた。


私は1階にすんでいるのだが、常識的に考えて何の承諾もなしに

ベランダとはいえ勝手に入って工事をされるようなことはないだろうと考え

1階の住人だけはその3日のうちにすべて都合がつかなくても

工事ができるとのことだと解釈した。そして、一応日程を連絡することにした。


電話をかけてみると前と同じ応対態度の悪い社員が電話にでて

あの用紙に書かれていた内容は、1階の人は工事日の連絡は不要であり

勝手に工事し、洗濯物をあの3日間、干さないでほしいとのことであった。


また、フローリングの修繕については業者が違うのでまた連絡するという。

前に電話をかけたときは一緒にみてくれるとのことだったが話が違う。


そんなふざけた話があるか?

第一、こんな感じの悪い奴を管理部におく会社もどうかしている。


そして、今日で約1ヵ月連絡してから経過している。

そんなに業者を呼ぶに時間がかかるのか。

えらそうな口調で連絡するといっておきながらこの対応か。


この会社のことだから、業者と共謀して不当料金を請求されそうなので

自分で修繕業者をみつけ、とりあえず見積もりだけはしてもらうつもりである。

見積もりがでたところで、このアパート管理会社に電話を再度かけて

もう自分で業者を頼んで修繕してもらってよいのかきいてみて

それで許可がおりたら、そうするつもりだ。

拒否をされ、管理会社がよんだ業者で修繕をすることになったとしても

見積もりだけは先に出してもらって、自分でよんだ業者の見積もりと

照らし合わせてみて不当であったなら、そのことで対応ができる。


このアパート管理会社とは今すぐにでも契約をきって

違うところに移りたいが、それをする確実に損なのでそうもできない。

感情だけで動いてしまうと、損をしてしまうことが多い。

何事にも忍耐が必要だと思ってしまう。


はっきりいってこの会社には潰れてほしい。


京都でアパートを見つけようとしている方がいらっしゃいましたら

この業者名を教えますので気軽にコメントなどをください。


ちょっと考えたのはやはり大学の生協などで物件を

みつけるのが無難かもしれないということだ。

先輩がもしかしたら終電がいってしまうとかもしれないと心配していた。

そこで良かれと思って、そうなったら私の家に来ていいですよと言った。

その先輩が私の家をでるときに私も目的地の途中まで同行しますと。


そういうと周りの人間が

「あ、ただ寂しいから一緒に帰りたいだけでしょー?」

などと冷やかしにくる。


馬鹿らしい。

そんな程度のことで先輩を泊めるなんてめんどくさいことをするものか。

善意以外に何がある。


もう、こういう提案はこいつらにはしない。

9時集合で、11時半に来た奴がいる。

もうこなくていいよ。


遅刻によくある理由の最も多いのは


「寝ていた」


だろう。


そこまで寝ているものか。


私は、いつも寝るとしても5~6時間程度で普通だと思う。

よく友人が泊まりにきたり、また行ったときは昼くらいまで寝ている。

これが苦痛でたまらない。そんなによく寝れるものだと感心する。


時間の守らない奴は、はっきりって腹がたつ。

何回遅刻しても学習しない。きっと起きる気がないのだろう。


何もせずにただ「待つ」というのは苦痛の他にない。

ただの時間の無駄だ。


私は時間をきちんと守る人でありたい。

飲み会にいってきた。

人数は15名ほど。

大抵、これだけ人数がいると一人くらい空気を悪くする奴が出現する。


今日も例外でなく現れた。

いつもからそのような気をもってるような奴だ。

以前にも今回のようなことがあった。


雰囲気良くみんな飲んでいるといきなり


ガーン!


コップを机に強く置いたようだ。

誰かが嫌なことを言ったなどというのではないらしい。

先輩たちがお店の方や他のお客さんに謝罪する。


落ち込んだり、何かに苛立つのは仕方のないことだが

そのほとんどの場合は周りにいる人には関係のないことだと早く悟ってほしい。


結局、最後にはそういう目でみられ自分に跳ね返ってくることを

気づいていないのだろう。

少年たちは嫌いな奴と偶然に出会ってしまい

本音をいえるわけもなくそのまま遊んでしまうこととなった。

学校へ遊びにいこうということになり途中でその嫌な奴が先頭を自転車で走っているので

何もいわず急に曲がってやりまくことに成功する。


目的地につき、話をしていると運が悪く、奴がきて

首謀者は誰かときき、殴ろうとする。

Aに疑いがかけられ、本当はそうなのだが違うと嘘とつく。

次の者(B)に尋問していく。

奴は気が短く、Aに的をしぼり、お前じゃないのならBについて本当かきく。

彼は拒否する。

自分ではないが、Aが首謀者かどうかは教えられない。

埒があかなくなり、Bが首謀者だと断定し、Bをしばくことにし

ひと気のいないところに連れていこうとする。


最終的にひたすらその場所へ行くのを拒むことによって

殴られずに済んだのだが、もう一つの問題が残る。


本当にBはそこまでしてAをかばう必要があったのか。

自分の身がかわいいために、かばってくれている人間を捨てる奴を。

ちなみに、このことに関してAからのお礼や謝罪はない。


まぁ人間こんなもんだろう。



アニメか何かはわかないけど

「ロウソクの灯は消える寸前が一番きれい」

このような言葉をよくきいたことがある。


本当にそうなのか。

今度、実際にじっくりとみてみることにしよう。


話はかわり人間はきれいということはないよう。

私の祖父の弟は癌であり、それが原因で亡くなったが、

本当に最期はみている方がもう殺して楽にしてあげたかったほど苦しがっていたらしい。


今頃、天国で元気にやってるかな?

私もいつかはあとを追います。天国にいけたなら・・・


宗教はやはり、人とは切り離せないものだろうか。


死と恐怖から、その場しのぎとしてでも回避するために一役かっている天国という概念。


困った時の神頼み。


普段は全く何もしないくせに困ったときにだけくる現代人。

私が神ならばこういう人間こそ、助けてやりたくないと感じる。


「~してください」という、諦観にも似た他力本願的な意識ではなく、

「~するから、みていてください」という、前進するという意思を心の中で表明するのが筋ではないか。

これからお世話になります。

実はもう一つ、blogをもっているのですが、あまりにイメージが固まっているようで

好き勝手にかけないという状況になってしまっています。

そこで、無駄に10月まで休みということなのでこちらで好き勝手書かせてもらいます。


誰のためにblogを書くか。それが問題です。

自分しかありませんよね、自己満足です。