8月8日の「お気持ち」に対する「違和感」が一番気になる。
この「違和感」は立憲君主制の根幹に関わるものだと思うからだ。
日本の政治体制の根底にあるのはもちろん憲法であるが、その憲法は機能しているのか、またその憲法を本当に信じているのか。
法を運用するのは人であり、いくら決めても法をきっちり運用しないと意味はない。
法に支配され過ぎてもいけないが、法は変えられる。
だから法が望ましくないのであれば、変えればいい。
しかし、一国の中で意見が全会一致となることは滅多にないので、そう簡単には変えられない。
そうしてバランスが取られていく。
従って、法は変えるまではいかに不都合があっても守られなければならない。
そういう意味では私は保守主義者である。
今回の「違和感」はまさにこの点に関わる。
「天皇に私なし」という言葉がある。
これはこの制度がいかに無理の上に成り立っているかということの証拠みたいなものだが、しかし憲法4条には「天皇はこの憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」と書かれており、天皇の「私」については何も規定がない。
従って、天皇が天皇として、仕事に関すること、今後の天皇制に関わることを、公式にそして個人的に意志表明するということはあり得ないことだろう。
それを政府が許可したとすると、なぜだということが重要だ。
今回、結論から言うと、天皇の発言は個人的と前置きしようがしまいが、政治への関与であり、違憲であると思う。
さらに、最初にNHKがスクープした時に、宮内庁はそういう事実はないと否定している。
しかし、その後政府として天皇に「お気持ち」を発表してもらうということになったわけである。
つまり少なくとも、最初宮内庁が否定した段階で、あってはならないことという認識、判断が働いたんだろうと思う。
ではそれを覆したものは一体何だろうか。出てしまった以上、仕方がない、あるいはこれを利用しよう、など何らかの意図が働いている。
天皇を表に引っ張り出した時点で、今度は天皇の政治的利用に当たると思う。
そうしたことが「違和感」の内容である。
私は、人として今上天皇を尊敬している。このような天皇を戴くことができたのは、日本にとって幸せなことであると思う。対外的にも、国内的にも、今上天皇の努力は確実に実を結んでいるのではないだろうか。
でも、今回の問題はそうした個人的努力とは無関係であり、制度的なものである。ついに現制度の矛盾が噴き出してきたかという気もするし、法的な枠組みとして機能していない面を見てしまったということも言えるかもしれない。
こうしたことに対して、違和感を訴えたマスコミの少なさも気になる。
日経新聞は社説で「検証が必要だ」と少なくとも述べたが、後はあまり目に付かなかった。
個人的に違法だとはっきり言っている人もいたが、全体としての論調は遠慮しがちなもので、ほとんど聞こえてこない。聞こえてしまったものは仕方がないと言う人さえいる。
安保法制のほうがまだ議会で多数決を経ている分、まともだ。
今回の手法はなし崩し的に行なわれ、なし崩し的にマスコミも含め、進めようとしているように見える。
違和感の正体はこうした現象そのものだろうか。
生前退位を認めるかどうかとか、どのような手法を取るかとか、そんな問題よりも、ずっと重要な問題があるのではと思う。