久々に、本当に、どうしようもない類のニュースだった。

 

大阪19区の皆さん、貝塚市、泉佐野市、泉南市、阪南市、泉南郡の皆さんです。

 

皆さんの代表が起こした行動が、いろんな波紋を広げています。

 

声を上げてください。

 

そして、二度と彼を選出しないでください。

 

ちょうど、きょう、ロシアは北方領土における経済特区を拡大し、日ロ共同開発に優先して、独自の事業を進めると発表した。

 

世の中に関係ないものなどない。何らかの関係は必ずある。

 

丸山議員が議員を辞めないと言っているのは、迷惑はかけたが、自分の発言は間違っていないと思っている、ということだ。

「法律違反をしたわけではない」と言っている。なぜ、こんなに問題になっているのか、彼は分かっていないのだ。

彼にとって、歴史はただの知識に過ぎず、本に書いてあることに過ぎない。彼とは何の関係もない。つまり、彼は籍は日本人かもしれないが、日本の歴史の中に位置づけられた存在ではない。日本の歴史を引き継ぐ意識のないやつが、日本を代表するな。国会議員は日本を代表している。やめてくれ。

 

本当に迷惑だ。

 

 

『流言のメディア史』 佐藤卓己 著

岩波新書

 

フェイクニュースなんていうことを言わずもがな、

世の中、うそ、間違い、思い込み、そりゃいっぱいだ。

 

表現の自由、誰でも発信できる、メディアツールは無料、

そりゃ、好き勝手なことを書く人はたくさんいる。

 

発信を仕事とするいわゆるメディア、この中にも、いろいろあるな。

発信できる、と、発信しなければならない、と、

これは大違い。

しなければならなければ、、何かを書かねばならない。

 

仕事じゃなきゃ、放っておきゃいいのだが、仕事ともなるとそうもいかない。

本当にどれだけの文章が、出回っているのか。

そう言っているこの文章だってそうだ。

 

誰が読むのか、知らないが、書けば、それなりに面白い。

でも、内容は?

面白ければいい?

間違っていても?

 

人を見る目を養うためには、経験が必要だ。

これは当たり前。

じゃあ、情報を見る目を養うためには?

同じことだろう。

 

<目次>

第1章 メディア・パニック神話―「火星人来襲」から始まった? 

第2章 活字的理性の限界―関東大震災と災害デモクラシー 

第3章 怪文書の効果論―「キャッスル事件」の呪縛 

第4章 擬史の民主主義―二・二六事件の流言蜚語と太古秘史 

第5章 言論統制の民意―造言飛語と防諜戦 

第6章 記憶紙の誤報―「歴史のメディア化」に抗して 

第7章 戦後の半体制メディア―情報闇市の「真相」 

第8章 汚染情報のフレーミング―「原子マグロ」の風評被害 

第9章 情報過剰社会の歴史改変―「ヒトラー神話」の戦後史から

 

参照1

参照2

『ネオナチの少女』という本が評判を呼んでいるようだ。

ドイツのナチス信奉者の両親のもとに生まれた少女が、思想教育を受けながら、育ち、最終的に、そこから抜け出すという話。

これは、ハイディ・ベネケンシュタインという著者の手記である。

 

ドイツの現状という意味で、大変興味深い。

この中で著者が入っていた組織が「ドイツ愛国青年団」という。

昔のヒトラー・ユーゲントの正統な後継団体ということらしいのだが、この団体のことがよく分からない。

誰か、知っている人はいないかな?

 

今もあるのだろうか。それとももうないのだろうか。

 

イメージとしてはオウムと似たようなところもあるが、背負っているものが、桁違いだ。

ナチスは、ワイマール共和国の中で、選挙を通じて、つまり国民の支持を得て、躍進していったということを忘れてはならない。

ナチスの根は社会に根差しているのだ。

その点で、オウムとは全く違う。一過性のものではないのだ。

 

ヨーロッパ人は恐らくそのことをよく知っている。

だから、ナチスを想起させるものは、法律で禁止されている。

 

ドイツ愛国青年団、何だろう?

 

参照1

参照2

クリスマスが近くなって、またもや、絵本を探し出した。

 

クリスマスは僕にとって、何の意味もないんだが、この季節は絵本が楽しい。

 

クリスマスほど、絵本にふさわしい季節はない。

 

クリスマスほど、絵本を読みたくなる季節はない。

 

すべて、僕にとってはだが。

 


 

ひゃくおくまんのサンタクロース  

もたいひろこ文 マリカ・マイヤラ絵 ¥1,500+税  アノニマ・スタジオ(2014/11)

 

これは、親にとって、とても都合のいい絵本です。子どもが大きくなってきたら、読ませるといい。

 

 

100にんのサンタクロース

谷口智則著 ¥1,500+税 文渓堂(2013/11)

 

サンタクロースってこんなんかー?とは思うんですが・・・。

 

 

おおきいサンタとちいさいサンタ

谷口智則著 ¥1,500+税 文渓堂(2015/11)

 

谷口さんの絵本は、どれもサンタクロースの都合を書いている。そこが面白い。

 

 

サンタクロースと小人たち 

マウリ・クンナス著 稲垣美晴訳 ¥1,800+税 偕成社

 

サンタクロースが小人と一緒に暮らしている!?サンタの1年を追う。

 

 

 

さむがりやのサンタ (世界傑作絵本シリーズ―イギリスの絵本)

レイモンド・ブリッグス著 ¥1,200+税 福音館書店

 

『サンタのなつやすみ』『雪だるま』『スノーマン』など、この人の絵本は外せない。

 

 

ぐりとぐらのおきゃくさま [ぐりとぐらの絵本] (こどものとも傑作集 (1))

なかがわりえこ著 やまわきゆりこ絵 ¥900+税 福音館書店

 

おきゃくさまは誰かって? そりゃあ、分かりますよね。

 

まだまだあるけど、この季節の絵本は心が和むものばかり。

 

天皇の生前退位に関する有識者会議が招集され、そのメンバーが発表された。

 

全部で6人。

 

「国民の総意に基づいた」天皇の地位について、

「国民の幅広い意見を反映した」提言にまとめる。

 

これが有識者会議に求められるもののようだ。

 

いつものやり方であるが、こうしてまとめられた有識者会議の提言は

「国民の幅広い意見を反映した」と見なされるがために、

無視できないものになる。

 

最終的にはもちろん国会議員が決めるわけだし、

それ自体は議会制民主主義のルールであるわけだから、

問題はない。

 

だが、その前にこうした有識者会議は必要なんだろうか?

 

この6人の意見がどのようにして「国民の幅広い意見を反映」できるのか?

 

国民投票をするなんていう人もいるが、

国民投票の結果は、少なくとも議会制民主主義における国民の総意ではない。

 

国民の総意とは、あるとすれば選挙で選ばれた議員の多数決だ。

 

それが議会制民主主義の国民の総意だと思う。

 

それに影響を与えるために作られた有識者会議と呼ばれる6人の意見とは

一体何なのか?

 

私にはよく分からない。

 

ある程度の人数の専門家を集めて、専門知識をバランスよく整理して、

議員による議論の参考にするというなら分かる。

 

何でこの6人の意見が必要なのか?

 

もちろん、専門家からのヒアリングも行うというが、

それだけでいいのではないか。

 

それ以上は個人的意見なのか、それともそれぞれが何かを代表しているのか?

それが国民の大多数の意見を集約したものになるのか?

 

どうもよく分からないのだが・・・。

 

きょうの「そこまで言って委員会」は菅直人氏も出てきて、民進党大特集だったが、印象に残ったのは、2つ。

 

➀ 菅氏が熱弁をふるって、未だに東電は隠していると言っていたが、元首相がこんなことを言っているぐらいなんだから、首相の権限ではどうにもならないということだ。非常事態でもできないっていうことは、それだけ権力の一極集中が防がれているということだ。法治国家である以上、すべて法の裏付けがなければならない。

しかし、そろそろ国会議員は全容を解明してほしい。

 

② 天皇の生前退位について、今上天皇が自分で言わなければならなかったというのは政治の怠慢ではないかという点について、民進党の議員さんは、この問題について議員から言い出すことはできないと言っていた。現在もそういうものであるということだ。であれば、システムを変える必要がある。

この問題、戦争に突入するときとか、戦争を終わらせることができなかったときとか、問題は違うにせよ、同様のシチュエーションのようだ。

「空気」と呼んだ人もいる。タブーを作ってはいけない。またかという思いを覚えた瞬間だった。

 

きょうのウーゴ・ルイスを破った試合。

 

帰ってきたのが遅かったので、スイッチをいれたらちょうどK.O.シーンの前だった。

 

穂積選手の顔を見た瞬間、その傷が目に入り、これはやはり駄目か、と思った。

 

その直後、ルイスの左フックが穂積選手の顔面を捉えた。

 

一瞬、穂積選手がよろけ、ルイスがたたみかけようと迫ってくる。

 

だが、ロープ際で穂積選手が見せた打ち合いは想像を絶したものだった。

 

ルイスのパンチをかわしながら、逆襲のパンチがルイスを襲う。

 

直後の穂積選手の目は標的を追い詰める恐るべき目だった。

 

そして、打ち合いの前と後とで、ルイスの顔面は全く違うものだった。

 

次のラウンド、ルイスは立ち上ってこなかった。

 

今まで見たどの試合よりも、脳裏に刻み込まれる打ち合いだった。

 

まさに彼の魂を見た思いだった。

 

長谷川穂積。

 

偉大な名前だ。

 

おめでとう。

 

文藝春秋10月号に「皇太子ご夫妻への期待と不安」と題する一文が載っている。

 

著者は朝日新聞皇室記者を務めた岩井克己氏。

 

著者は皇太子と行動を共にしたことも多く、親しく接してこられたそうで、「筆者にとっては今も『ナルちゃん』なのである」と書かれている。

 

そういう方であるから、敢えて厳しい目で見られているのであろう。

 

皇太子の今までの行動に対して、敢えていくつも注文を付けておられる。

 

非常に興味を持って読ませていただいた。

 

著者の書かれている内容がどうだということではなく、これを読ませていただいて、改めて皇太子の地位というものの重さを感じた。

 

私は皇太子と歳が近く、非常に親近感を持って今まで生きてきた。従ってどことなく他人事に思えないのである。

 

皇太子が実際に何を考え、現在の自分のポジションに対してどのような思いを持っておられるのかは全く知らない。

 

ただ勝手に一方的に思いを寄せているだけであり、皇太子から見れば逆に迷惑かもしれない。

 

だが、皇太子がもっとこうあるべきだとか、皇太子であるからにはこういうことが求められるとか、その地位からして仕方がないかもしれないいろいろな事柄を指摘されることが非常に辛いのである。

 

皇太子は当然今の地位を自分の責務として受け入れておられると思う。しかし、皇太子が自ら選んで進んだ道ではないかもしれない。ひょっとすると今でも迷いを持ちながら、自ら受け入れようと日々悩んでおられるかもしれない。そんなことを思ってしまう。

 

こんなことを言うことは非常に失礼であるとは重々承知している。しかし、今のこの体制は「国民の総意に基づき」天皇家に対して押しつけたものである。歴史的経緯から天皇家はもちろんそれを拒むことはできないし、拒むおつもりもないであろうが、戦後生まれた皇太子は象徴天皇という矛盾をはらんだ存在になるべく定められた運命を背負っている。

 

そして、昭和天皇への特別の思いを持ち、その果たせなかったことを穴埋めするかのような公務を続けられてきた今上天皇、象徴天皇とは何かという問いに答えを自ら出すという困難な作業を一人で引き受けてこられた今上天皇という、歴代天皇の中でも特別な存在である今上天皇と常に比べられながら、自らのアイデンティティを作っていかなければならない皇太子は、誤解を恐れずに言えば、非常に気の毒に、そして申し訳なく思うのである。

 

天皇制は歴史的に存在する。今の日本にとって簡単に廃止できるようなものではない。われわれもまたこれを引き受けていかなければならないものだと思っている。

 

であれば、われわれはもっとこの天皇制をしっかり考えていかなければならないと思う。単に皇族にどうのこうのと要求、または期待するだけではなく、ちゃんとありのままの人として扱うことが必要であろう。現在はそのことに背を向けているようにしか見えない。それは単に公務を軽くしようとかではなく、人であるなら人として扱うべきだということ。

 

そして人権も認め、憲法に保証された権利を国民同様に行使できるような体制を考えていかなければならないと思うのである。でなければこれはやはり天皇家の幽閉ではないかと思うのである。

 

文藝春秋 2016年 10 月号 

 

文藝春秋の10月号に「皇后は退位に反対した」という記事が載っている。

 

編集部の書いた記事であるが、天皇の「お気持ち」表明に至るまでの経緯が取材されている。

 

それによると、天皇が最初に譲位を表明したのは2010年7月22日。

参与会議の席上だったそうだ。

同席したのは、羽毛田宮内庁長官、川島侍従長、それに3人の参与。

 

最初は上記の5人と皇后の全員が退位に反対し、必要であれば摂政をということで議論が交わされ、終わったのは12時だったそうだ。

 

天皇は「摂政では駄目なんだ」と最後まで折れなかったそうだ。

 

その後も議論は続けられ、皇后もいつしか天皇に同調するようになり、最終的に2011年頃には退位を前提とした議論に移っていったとのこと。

 

つまり、後継体制をどうするか、いつ表明するかといったことだったそうだ。

 

昨年の天皇誕生日にビデオメッセージを発表するという案さえあったそうだ。

 

5年ほど前から退位の意向を表明していたということは以前から報道されていたが、今回の記事で実に具体的に経緯が語られた。

 

これだけ具体的な実名入りの記事であるからには、すべて事実であろう。

 

今回のことに限らず、天皇の意向というのはこのようにして伝えられるのかということがよく分かった。

 

ただ、記事によると、今回天皇の「お気持ち」があのような形で表明されることになったのは、宮内庁から内閣に対してこの意向を伝えることができず、そのため内閣を裏切るような形でNHKに情報が意図的に流されたということのようである。

 

ただその辺りの経緯はもう一つよく分からない。

 

NHKへのリークに宮内庁長官がどのような形で関わっているのか、いないのか。

 

いずれにしても、これは天皇が内閣と直接対話ができないという制度上の欠点によるものであり、天皇という身分そのものは象徴であるが、それを担っているのは生身の人間であるという無理が露呈したものである。

 

そして天皇は元気な姿を国民にみせているが、実は幽閉されているんだということを実感させられる記事だった。

 

そう。私には天皇は幽閉されており、政治的に利用されている存在に過ぎないとしか見えない。それが現在の天皇家の運命なのか。

 

 

文藝春秋 2016年 10 月号 

 

8月8日の「お気持ち」に対する「違和感」が一番気になる。

 

この「違和感」は立憲君主制の根幹に関わるものだと思うからだ。

日本の政治体制の根底にあるのはもちろん憲法であるが、その憲法は機能しているのか、またその憲法を本当に信じているのか。

法を運用するのは人であり、いくら決めても法をきっちり運用しないと意味はない。

法に支配され過ぎてもいけないが、法は変えられる。

だから法が望ましくないのであれば、変えればいい。

しかし、一国の中で意見が全会一致となることは滅多にないので、そう簡単には変えられない。

そうしてバランスが取られていく。

従って、法は変えるまではいかに不都合があっても守られなければならない。

そういう意味では私は保守主義者である。

 

今回の「違和感」はまさにこの点に関わる。

「天皇に私なし」という言葉がある。

これはこの制度がいかに無理の上に成り立っているかということの証拠みたいなものだが、しかし憲法4条には「天皇はこの憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」と書かれており、天皇の「私」については何も規定がない。

 

従って、天皇が天皇として、仕事に関すること、今後の天皇制に関わることを、公式にそして個人的に意志表明するということはあり得ないことだろう。

 

それを政府が許可したとすると、なぜだということが重要だ。

 

今回、結論から言うと、天皇の発言は個人的と前置きしようがしまいが、政治への関与であり、違憲であると思う。

 

さらに、最初にNHKがスクープした時に、宮内庁はそういう事実はないと否定している。

しかし、その後政府として天皇に「お気持ち」を発表してもらうということになったわけである。

 

つまり少なくとも、最初宮内庁が否定した段階で、あってはならないことという認識、判断が働いたんだろうと思う。

 

ではそれを覆したものは一体何だろうか。出てしまった以上、仕方がない、あるいはこれを利用しよう、など何らかの意図が働いている。

 

天皇を表に引っ張り出した時点で、今度は天皇の政治的利用に当たると思う。

 

そうしたことが「違和感」の内容である。

 

私は、人として今上天皇を尊敬している。このような天皇を戴くことができたのは、日本にとって幸せなことであると思う。対外的にも、国内的にも、今上天皇の努力は確実に実を結んでいるのではないだろうか。

 

でも、今回の問題はそうした個人的努力とは無関係であり、制度的なものである。ついに現制度の矛盾が噴き出してきたかという気もするし、法的な枠組みとして機能していない面を見てしまったということも言えるかもしれない。

 

こうしたことに対して、違和感を訴えたマスコミの少なさも気になる。

 

日経新聞は社説で「検証が必要だ」と少なくとも述べたが、後はあまり目に付かなかった。

個人的に違法だとはっきり言っている人もいたが、全体としての論調は遠慮しがちなもので、ほとんど聞こえてこない。聞こえてしまったものは仕方がないと言う人さえいる。

 

安保法制のほうがまだ議会で多数決を経ている分、まともだ。

今回の手法はなし崩し的に行なわれ、なし崩し的にマスコミも含め、進めようとしているように見える。

 

違和感の正体はこうした現象そのものだろうか。

 

生前退位を認めるかどうかとか、どのような手法を取るかとか、そんな問題よりも、ずっと重要な問題があるのではと思う。