今日、わかったことがある。
 
私自身も、長く関わってきた「スポーツ」のこと。
 
今週、私の任地では市内スポーツ大会がくり広げられていて、幼稚園児も、小学生も、中学生も、高校もかな?みんな授業しないでスポーツ大会。
 
私もせっかくなので、ちょこっとのぞきにいってきた。
 
会場の雰囲気が、昔の記憶を呼び起こした。
 
コートの外から、激励と喝を飛ばす、先生。
 
体を前のめりで応援する保護者。
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そして、子どもの、その、まっすぐな瞳。
 
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子どもたちの、その一生懸命な表情、
 
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目の前のボールにだけすべての集中を注ぐ姿。
 
心が、
 
なんか、心がふるえた。

 

 

 

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そして、わかった。
 
なぜ人は、スポーツにこんなに心躍るのか。
 
見ている人も、
 
やっている人も、
 
どうして、こんなに熱くなるのか。
 
 
勝ちたいから?
 
かっこいいから?
 
気持ちがいいから??
 
 
いろんな人が、それぞれの意味付けをするんだろう。
 
でも、私はわかった。
 
スポーツで心が動くのは、
 
「今を生きている」
 
姿がそこにあるから
 
だ。
 
 
最近、
 
「今在る」
 
ということをよく考えている。
 
過去でもない、未来でもない、今この瞬間に自分が何を感じ、何を考え、どう行動するか。
 
 
今日、見た子どもたちの目は、とてもきれいだった。
 
それは、過去でもない、未来でもない、今この瞬間に最大限の力を注いで生きている姿がその目にあらわれていたからだ。
 
 
そう、スポーツって、そうなんだ。

 
本来人間は、過去にも、未来にもしばられるものではない。
 
「今」に在ること、これが人の命のすべてなのだと思う。
 
そう、
だから、スポーツは
人間が本来あるべき、
 
「今在る」
 
ということが、究極にできる場所なんだ。
 
 
その中で、人の輝きが手にとるように見えるのだ。
 
そこに、人は感動するんだと思う。
 
 
 
それがわかったら、涙がにじんだ。
 
思い出したから。
 
私が、どんな言葉や態度を自分の部活の生徒に投げかけていたかを。
 
最近、日本大学アメフト部の件で、日本でスポーツ界の闇が話題になっていたらしい。
 
その件もあって、スポーツの意義について考えていた。
 
程度は違うにしても、私も顧問として生徒に自分のエゴや間違った愛の形を押し付けてきたことがあっただろう。
 
「そんなんで、勝てると思うの?」
 
「本気じゃないでしょ。」
 
「お前のせいで負けた。」
 
そんな言葉をかけていた。
それは、彼らがより力を出せるように、彼らが秘めている力を信じたからこそ、投げかけた愛の言葉のつもりだった。
 
 
でも、今はもうそんな言葉はいらない。


本当に突き詰めるところは、そこじゃない。


選手に問うべきは、

「今、きみはどう在るか」

だったんだ。



「今」という瞬間に、どれだけ命を吹きこめるかを、問う。


自分の心が何を感じているか、

そして、その心を今自分がもっているすべての力で表現する。


それだけ、問えばいいんだ。




 
 
3年前、部活の生徒の引退試合となった試合がある。
 
彼らは入部から例年より能力も高く、いい心意気をもった子らだった。
 
人数は多く、仲が良く、私は彼らに出会った時から
 
(これは、絶対にいいチームになる。上の地区大会に出る器のある子たち。もし、この選手たちが、勝ち抜けなかったとしたら、それは私の責任だ。)
 
出会った時に、そう思った。
 
 
そして、引退の夏、たくさんの濃い時間を過ごしてきた彼らとの最後の大会。
 
まさかの、市内での敗退。
 
1点差での敗北。
 
 
私のせいだ。
 
私の力がなくて、こんなに頑張ってきた子たちを上の大会へと導くことができなかった。
 
(ごめんなさい。)
 
心から、そう思った。
 
そこから、数日間、試合のことを考えると涙が止まらなかった。
 
どうして、あと一点をとらせてあげられなかったのか・・・。
 
自分への反省しかなかった。
 
試合が終わってからの選手への言葉も
 
「私の責任だ。ごめん。」
 
だった。
 
 
後悔と反省とやりきれない気持ちが私の心を支配していて、過去にしばられていた。


 
でも、今日子どもたちのスポーツ大会をじっくり見ておもった。
 
あのときかける言葉は「ごめん。」ではなかった。
 
もし私が、「今」を生きることができていたら、きっと違う言葉をかけていた。

私が、好きだったのは、生徒がいつも楽しそうにバスケをする姿、本気でボールを追いかける姿、
 
その瞬間に「生きる」彼らの姿だったんだ。
 
その一点差で負けた試合の中で、見せてくれた選手たちの、


今を生きる姿。


その姿が、何よりも尊いことなのだとわかっていたならば…

 
命が輝く瞬間を、
 
何度も何度も、見せてくれた、彼らに私は、心から
 
「ありがとう」
 
というべきだったんだ。
 

 
今日は、そのことをスポーツ大会を観戦する中で、一人で考えていて、
 
涙がでたのだった。


 
 
今、スポーツをしている人、

顧問をしている人、

に願うこと。


なぜスポーツをするのか?

を問うてみてほしい。



なぜ厳しい練習をするのか?

なぜ追い込むのか?



選手の答えが、

顧問に認められたい
ほめられたい
できないやつと思われたくない
叱られたくない、
罰を与えられたくない、


になっていないか?


コーチがいないところで、手を抜いて練習するチームがあるとしたら、それはチームが求めているものがスポーツの真髄とはずれている証拠。


そういうチームをもつ顧問は、選手を叱る前に、自分自身に中にあるスポーツへの意味を考える必要があるはず。


選手は、コーチのために練習するんじゃない。

選手は、叱られないように頑張るんじゃない。


スポーツを純粋に楽しむこと、
「今」に命を吹き込むことで未知なる自分に出会うこと

そんな命の躍動を感じる瞬間を求めて、日々練習に向かうんだ。


そういう経験を通して、スポーツの外の世界でも、「今」を生きることができ、一瞬一瞬に生命を感じられるようになるんじゃないかな。



 
なぜスポーツをするの?


私は、今日、自分の答えを見つけた。
 
 
 

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 気づいたら任地去るまであと2週間ちょっと。
 当たり前が愛おしく感じる。

「もう疲れたー」と私の部屋に入ってくる、お家のお手伝いちゃん。妹みたいな存在。
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 私の部屋に無断で入ってくる犬パトリシオ。(普段は入ってはいけないことになっている)


ブログを書くのもあと少しかな。