最近とくに思う事



情報の取り扱いは注意しなければならないという事




情報じたいは、善でも悪でもない

それを取り扱う人の価値観によって、善や悪が見え隠れする

私なりに表現すると、色が付くって感じだろうか




私が、情報のすべてを自分フィルターに通したら非常に疲れるという事を感じたのは

9.11テロの時

他国のことではあったけれど、リアルタイムで流れたあのビルに突っ込む映像は

言葉にできないほどショックだった



311の地震も、たぶんみんなに同じような影響を与えたと思う

真実は、時としてあまりにも残酷で、凶器にすらなると思う事さえある




私は、もっとテレビを見た方がいいとか、情報を集めた方がいいって言われることがよくある


情報は、今の時代は特に、知ろうと思えばいくらでも知ることができるけれど

その情報は、本当にその人にとって必要なものなのだろうか?

そう思う事もよくある



あるとき気付いたことだけれど

不安を抱いているときには、不安をかきたてる情報がたくさん集まってくる

自分が立てているアンテナに反応するかのように

情報は、世の中いったいどうなっているんだ?何も信用できない・・・と思わせるほど

不安材料になるような情報を集めてしまう



そう・・集めてしまっているのだ



自分が、自分のフィルターを通して、すべての物事を見ているのだから

だから情報だって、自分の心の状態によって、集める情報

フックしてくる情報が変わってくる




そう気づいてからは、情報は必要最低限でいいと思うし

その情報が絶対だとは思わないわようにしている

情報には必ず、表も裏もあるというか・・・

情報じたいが、氷山の一角というか、ある側面にすぎないのだからだ




それに

本当に自分自身に必要な情報は、必ず集まってくるという体験が、私の場合は多いので

そういう、まるでサインのようなものを、見逃さない自分でいる事の方が

情報を見張り続ける事よりも、私にはずっとずっと重要だと思える



だいたい、クリアな状態にいないと

情報によって相手を裁いたり、自分自身の中で必要のない物差しを作りかねないから

ただただ、情報を情報として受けとれる自分自身であることができるかどうか

そっちの方がよほど見張ってる必要がある部分に思える



情報をどのように扱うのかは、その人の自由だ

だから、その情報を発信するのも、やはり自由だ




どうせ情報を受信するなら、楽しくてうれしくて、生きているって素晴らしいって思える情報がいい

どうせ情報を発信するなら、楽しくてうれしくて、私らしくあなたらしく、愛があるじゃん~っていうものがいい




情報によって、自分の人生を右左と決めながら歩いていくのではなく

自分の生き方があって、その先々で、情報に出会っていくこともあるっていう方がいいなと思う




ん~

書いてみると、むずかしいなぁ・・・


情報に流されるのではなくて

自分の生き方をまず見て、必要なら受け入れる、そうじゃなければいらない

それでいいんじゃないかな