【前回までのあらすじ】
働く組織が公式的なものと認められたことが、人々を協力の組織化へ大量に誘ったことになる。つまりインフォーマルだった協力をフォーマルにすることで働く動機の位置付けをすることが重要であることを紹介しました。

協力活動の一つの典型例は「交換モデル」と言われている。何かをしてあげたら、何かをしてもらうという二つの行為がセットになっている状態をいう。両者の間で取引関係があると言い換えてもいい。給付に対して、反対給付が必ずある。これ以外のモデルには、一方的な贈与や、協力が循環する互酬、自給自足などがあるが、現代経済社会において優勢なのは、交換モデルが特別である。それはなぜなのか。英国経済学者アダムスミスは次のように指摘する。「私の欲しいものをください」「そうすればあなたの望むものをあげましょう」「われわれが自分たちの食事をとるのは、パン屋の博愛心ではなくて、かれら自身の利害に対するかれらの関心による。われわれが呼びかけるのは、かれらの博愛的な感情に対してではなく、かれらの自愛心に対してである。」

果たしてわれわれが交換によって協力活動をするのは、自己利益のためなのか、それとも社会利益のためなのでしょうか?

さて、Aスミスの指摘は、個人の欲望充足という主観的価値レベルに、交換という協力活動の利点を見出しており、この考えに従えば、個人主義的な還元の方法だと言われる。

この交換は「双方有利的」でなければ成立せず、古代ギリシアのアリストテレスは「交換の正義」と呼びました。そして、経済学においては、自己中心的なプレイヤーが登場するゲーム論的な交換モデルではこの点がとりわけ強調されます。

一見、双方利益が確保されるのであれば、それでいいじゃないかと思ってしまいますが、この交換の正義は常に双方に利益をもたらすわけでもなさそうなんです。

皆さんは、「バットマンシリーズ」の「ダークナイト」をご覧になったことがありますでしょうか。ここで、爆弾の仕掛けられた二隻のフェリーが登場するシーンがあります。片方は囚人の乗った船で、もう片方は一般客の乗った船です。ここで悪者ジョーカーは、双方の非協力的な悪を引き出すために巧妙な罠を仕掛けます。どちらの船にも、相手の船を爆発させる起爆装置を与えます。果たして、どちらが先にスイッチを押すかというものです。

先にスイッチを押せば、相手の起爆装置ごと破壊できるので、自分だけ助かりたいと思うならば、相手よりも先にスイッチを押す必要がある。相手を思いやってスイッチを押すのをためらえば、相手が先にスイッチを押す可能性が高くなるという、絶えず不安を感じることになってしまう。だから、双方が先を争って爆弾のスイッチを押すことは合理性を追求するならば、理論上絶対確実の「合理的判断」とジョーカーは考えたのである。

さて、囚人のジレンマとは、双方協力すれば、双方の利益になるはずなのに、個人の利益を追求するために、双方全体としての利益が少なくなってしまう判断をしてしまうことを言います。果たして私たちは、常に個人主義的な「合理的な判断」してしまっているのでしょうか。

1970年代後半になって、アクセルロッドは、どのような協力理論が優れているかを競うコンピューター上で協力理論を募ったトーナメント戦を開催しました。集まったプログラム同士を戦わせたのですが、常に勝ち抜くプログラムが登場したのです。

それは「しっぺ返し」プログラムと呼ばれるものです。このプログラムは、最初は相手に協力を行い、そのあとは相手と同じことをお返しする、つまりは「しっぺ返し」をする戦略です。なぜ常勝するのかというと、このモデルは相手に「親切」で協力を誘引するインセンティブを与える、一方非協力には報復的で裏切り行為を防止する機能を備えていたからだと言われています。



「囚人のジレンマ」のように、人は常に自分の中心の合理的な判断をするか。



これはしっぺ返し戦略にもみるように、これが一回限りの協力か、複数回にわたる協力かで変わります。私たちは、常に個人主義的な合理的判断をするわけではなく、時に自己利益を超えて社会利益を考えた判断をすることもあることを示唆しているのです。

参考文献
坂井素思、2014、「社会的協力論」放送大学教育振興会、p66-86