[編集] 題名
現在では一般に『源氏物語』と呼ばれている、この物語が作られた当時の題名が何であったのかは明らかではない。古写本には題名の記されていないものも多く、また記されている場合であっても内容はさまざまである。『源氏物語』の古写本の場合、冊子の標題には「源氏物語」ないしはそれに相当する物語全体の標題が記されている場合よりも、それぞれの帖名が記されていることが少なくない。古い時代の写本や注釈書などの文献に記されている名称は大きく以下の系統に分かれる。
- 「源氏の物語」、「光源氏の物語」、「光る源氏の物語」、「光源氏」、「源氏」、「源氏の君」などとする系統。
- 「紫の物語」、「紫のゆかりの物語」などとする系統。
これらはいずれも源氏(光源氏)または紫の上という主人公の名前をそのまま物語の題名としたものであって、物語の固有の名称であるとは言い難いことや、もし作者が命名した題名があるのならこのようにさまざまな題名が生まれるとは考えにくいため、これらの題名は作者が命名した題名ではない可能性が高いと考えられている[1]。
『紫式部日記』、『更級日記』、『水鏡』などのこの物語の成立時期に近い主要な文献に「源氏の物語」とあることなどから、物語の成立当初からこの名前で呼ばれていたと考えられているが、作者を「紫式部」と呼ぶことが『源氏物語』(=『紫の物語』)の作者であることに由来するならば、その通称のもとになった「紫の物語」や「紫のゆかりの物語」という名称はかなり早い時期から存在したと見られることなどから、源氏を主人公とした名称よりも古いとする見解もある。なお、「紫の物語」といった呼び方をする場合には現在の源氏物語54帖全体を指しているのではなく「若紫」を始めとする紫の上が登場する巻々(いわゆる「紫の上物語」)のみを指しているとする説もある。
なお、『河海抄』などの古伝承には、「源氏の物語」と呼ばれる物語が複数存在し、その中で最も優れているのが「光源氏の物語」であるとするものがあるが、現在「源氏物語」と呼ばれている物語以外の「源氏の物語」の存在を確認することは出来ない。そのため池田亀鑑などはこの伝承を「とりあげるに足りない奇怪な説」に過ぎないとして事実ではないとしている[2]が、和辻哲郎は、「現在の源氏物語には読者が現在知られていない光源氏についての何らかの周知の物語が存在することを前提として初めて理解できる部分が存在する。」として「これはいきなり斥くべき説ではなかろうと思う」と述べている[3]。
なおこのほかに「源語(げんご)」、「紫文(しぶん)」、「紫史(しし)」などという漢語風の名称で呼ばれていることもあるが、漢籍の影響を受けたものでありそれほど古いものはないと考えられており、池田亀鑑によればその使用は江戸時代を遡らないとされる[4]。
[編集] 概要
詳細は「源氏物語各帖のあらすじ」を参照
54帖より成り、写本・版本により多少の違いはあるもののおおむね100万文字に及ぶ[5]長篇で、800首弱の和歌を含む典型的な王朝物語。物語としての虚構の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧緻、あるいはその文章の美と美意識の鋭さから日本文学史上最高の傑作とされる。ただし、しばしば喧伝されている「世界最古の長篇小説」という評価は、2008年現在でも源氏物語千年紀委員会による「源氏物語千年紀事業の基本理念」において源氏物語を「世界最古の長編小説」としているなど[6]一般的な評価であるとはいえるものの、中村真一郎の説のアプレイウスの『黄金の驢馬』やペトロニウスの『サチュリコン』につづく「古代世界最後の(そして最高の)長篇小説」とする主張[7]もあり、学者の間でも論争がある。20世紀に入って英訳、仏訳などにより欧米社会にも紹介され、『失われた時を求めて』など、20世紀文学との類似から高く評価されるようになった。
物語は、母系制が色濃い平安朝中期を舞台にして、天皇の皇子として生まれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏が数多の恋愛遍歴をくりひろげながら人臣最高の栄誉を極め(第1部)、晩年にさしかかって愛情生活の破綻による無常を覚えるさままでを描く(第2部)。さらに老年の光源氏をとりまく子女の恋愛模様や(同じく第2部)、或いは源氏死後の孫たちの恋(第3部)がつづられ、長篇恋愛小説として間然とするところのない首尾を整えている。
文学史では、平安時代に書かれた物語は『源氏物語』の前か後かで「前期物語」と「後期物語」とに分けられる[8]。後続して作られた王朝物語の大半は『源氏物語』の影響を受けており、後に「源氏、狭衣」として二大物語と称されるようになった『狭衣物語』などはその人物設定や筋立てに多くの類似点が見受けられる。また文学に限らず、絵巻(『源氏物語絵巻』)、香道など、他分野の文化にも影響を与えた点も特筆される。
[編集] 構成
『源氏物語』は長大な物語であるため、通常はいくつかの部分に分けて取り扱われている。
[編集] 二部構成説、三部構成説
『白造紙』、『紫明抄』あるいは『花鳥余情』といった古い時代の文献には宇治十帖の巻数を「宇治一」、「宇治二」というようにそれ以外の巻とは別立てで数えているものがあり、この頃すでにこの部分をその他の部分とは分けて取り扱う考え方が存在したと見られる。
その後『源氏物語』全体を光源氏を主人公にしている「幻」(「雲隠」)までの『光源氏物語』とそれ以降の『宇治大将物語』(または『薫大将物語』)の2つに分けて「前編」、「後編」(または「正編」(「本編」とも)、「続編」)と呼ぶことは古くから行われてきた。
与謝野晶子は、それまでと同様に『源氏物語』全体を2つに分けたが、光源氏の成功・栄達を描くことが中心の陽の性格を持った「桐壺」から「藤裏葉」までを前半とし、源氏やその子孫たちの苦悩を描くことが中心の陰の性格を持った「若菜」から「夢浮橋」までを後半とする二分法を提唱した[9]。
その後の何人かの学者はこのはこの2つの二分法をともに評価し、玉上琢弥は第一部を「桐壺」から「藤裏葉」までの前半部と、「若菜」から「幻」までの後半部に分け、池田亀鑑は、この2つを組み合わせて『源氏物語』を「桐壺」から「藤裏葉」までの第一部、「若菜」から「幻」までの第二部、「匂兵部卿」から「夢浮橋」までの第三部の3つに分ける三部構成説を唱えた。この三部構成説はその後広く受け入れられるようになった。
この他に、重松信弘による「桐壺」から「明石」を第一部、「澪標」から「藤裏葉」までを第二部、「若菜」から「竹河」までを第三部、宇治十帖を第四部とする四部構成説や、実方清による「桐壺」から「明石」を第一部、「澪標」から「藤裏葉」までを第二部、「若菜」から「幻」までを第三部、「匂宮」から「夢浮橋」までを第四部とする四部構成説も存在する。
このうち第一部は武田宗俊によって成立論(いわゆる玉鬘系後記挿入説)と絡めて「紫の上系」の諸巻と「玉鬘系」の諸巻に分けることが唱えられた。この区分は武田の成立論に賛同する者はもちろん、成立論自体には賛同しない論者にもしばしば受け入れられて使われている。(「紫の上系」と「玉鬘系」はそれぞれ「a系」と「b系」、「本系」と「傍系」あるいはそれぞれの筆頭に来る巻の巻名から「桐壺系」と「帚木系」といった呼び方をされることもある。)
また第三部は「匂兵部卿」から「竹河」までのいわゆる匂宮三帖と「橋姫」から「夢浮橋」までの宇治十帖に分けられることが多い。
上記にもすでに一部出ているが、これらとは別に連続したいくつかの巻々をまとめて