70年代のおぼろげな記憶をたどったら…

ジョン・レノンがアジア人女性を連れて私の学校にやってきた日のこと

 

 

 

ジョン・レノンがアジア人女性を連れて私の学校にやってきた日のこと | クーリエ・ジャポン

 

 

 

 

1974年10月、ニューヨークを歩くジョン・レノンとメイ・パン Photo: Peter Simins / Getty

 

 

 

 

 

ニューヨーク・タイムズ(米国)

 

Text by Laurie Gwen Shapiro

 

筆者は子供のころ、自分が通っていた学校にジョン・レノンが来たことを憶えている。だが、それは正確にはいつだったのか? 1970年代のこの出来事を記録する資料はほとんど残っておらず、筆者は独自に調査を進める。その日レノンに同行していたメイ・パンもこの件に興味を示し、それが彼女たちにとって重要な1日であったことが明らかとなる──。

 

ジョン・レノンがやってきた!


1970年代半ばのある朝、フレンズ・セミナリーの校内放送で厳かなアナウンスが流れた。「著名なジョン・レノンさんが礼拝堂にお見えになっています。走らず、歩いて移動してください」

私たちは走らなかった。でも、走りたくてたまらなかった。

ようやく礼拝堂に到着すると、私は2年生のクラスメイトと一緒に、バルコニーの固い木製の長椅子に腰を下ろした。
 

マンハッタンの東16丁目にあるキリスト教クエーカー系の学校であるフレンズ・セミナリーの礼拝堂は、1860年建造の古びた堂々たる建物で、ギシギシと軋むような音がする。これまで奴隷制廃止論者の熱い議論や、婦人参政権活動家たちの集会、そして落ち着きのない子供たちのざわめきを吸収してきた場所だ。

その朝は、私もじっと座ってはいられなかった。子供ながらに、私たちはビートルズのことをよく知っていた。そして次の瞬間、いきなり彼が姿を現した。ジョン・レノンその人だ。

礼拝堂は静まり返り、全員が息を呑んだ。やがて小さなささやき声が広がった。たしかジョン・レノンは黒い服を身にまとっていたはずだ。私の記憶のなかでは、いつもその姿をしている。彼はすぐに壇上に上がった──細いフレームの眼鏡をかけ、アルバムジャケットで見覚えのある顔付きをして。たしかに彼はそこにいたのだ。

会場に笑いの波が広がり、緊張が解けていった。彼の声、皮肉の効いたジョーク、ある男子生徒が同伴の美しい女性(オノ・ヨーコではなかった)について尋ねたときの彼の苦笑いをいまでも覚えている。

でも、肝心の話の内容は? 忘れてしまった。音楽について語ったのだろうか? それとも政治について? 歌ってくれたのだろうか? そもそも、なぜ私たちの学校を訪れたのだろう?
 

子供たちがジョンにした質問


何年もの間、私はその記憶を宝物のように扱ってきた。それは、空想の産物ではないかと疑うような、非現実的な子供時代の出来事だった。そして私の定番の自慢話になった──「私が小学2年生のとき、ジョン・レノンが学校に来たのよ!」

22歳になる私の娘は耳にタコができるほど聞かされて、空で繰り返せるほどだ。でも最近、その話を持ち出したとき、娘は疑わしそうな目で私を見た。

「それって本当の話なの?」

私は唖然とした。もちろん本当に起きたことだ──そのはずだが。いまなら山のように証拠が残るだろう。TikTokの映像や、タグ付けされたインスタの投稿、動画などなど。でも1970年代半ばには、こうした出来事は実際に記憶から薄れ、消え去ってしまうことがあった。

私はフレンズ・セミナリーの同窓会事務局に電話で問い合わせた。彼らはその出来事について聞いたことはあったが、それを裏付ける写真や記録は残っていないという。不思議なことに、その年の卒業アルバムにも記載がなかった。「それっていつの出来事でしたっけ?」と、受付担当者から問い返される始末だった。
 

「1974年です」と私は答えた。だがそう言いながらも、完全には確信が持てないことに気がついた。「たしか、そのはずですが」

次にフェイスブックの「フレンズ・セミナリー同窓会」グループに投稿すると、状況が一変した。わずか数時間のうちに、元生徒や教師たちが次々とコメントを寄せ、それぞれが薄れゆく記憶の断片を持ち寄った。少しずつ全体像が浮かび上がってきたものの、確証は得られなかった。

65歳の元図書館司書のアリス・スターンは、校長が壇上でレノンの経歴を読み上げたことを記憶していた。それからレノンは、わざとリバプール訛りを強調しながら「オーケー」と答え、「質問をどうぞ」 と呼びかけた。私たちはそれに応じたらしい。

当時10年生だったある生徒は、「夢の夢」という曲の逆再生に何かメッセージが隠されているか尋ねたことを覚えていた。答えはイエスだった。また、別の生徒は思いつきで、「『アイ・アム・ザ・ウォルラス』の歌詞に出てくる『goo-goo g’joob』はどういう意味ですか?」と質問したことを思い出した。この質問は複数の生徒が記憶していたが、レノンの答えを覚えている人は誰もいなかった

 

 

 

 

長い歳月を経て、最も平凡な質問への答えが人々の記憶に残っていた。「ペットは飼っていますか?」という問いに、レノンはイエスと答えた。「猫を2匹、黒い斑点のある白猫のメジャーと、タキシード柄の黒猫のマイナーを飼っているよ」

小学生の男子が、どれくらいお金を持っているのかと尋ねると、レノンはニヤリと笑って答えた。「すごくたくさんさ」

集会が終わり、レノンが講堂を後にして生徒記者たちとのインタビューに向かおうとしたとき、デイビッド・ラウクという6年生の男子が行動を起こした。

教職員が止めるのを振り切って、デイビッドは破ったノートのページを手にレノンに駆け寄り、サインを求めた。現在60歳になる彼は、ウェルズ・ファーゴ銀行の副法務責任者としてカリフォルニア州ハモサビーチに暮らしているが、50年経ったいまでも、そのページを持っている。

「まずレノンにサインをもらって、それからヨーコだと思っていた女性にも同じページにサインをお願いしたんです」。それはヨーコではなく、当時レノンの恋人だったメイ・パンだったが、ともあれ彼女もサインに応じた

 

 

 

 

メイ・パンに電話してみたら


私たち生徒は知る由もなかったが、当時はレノンとヨーコが別居していた、いわゆる「失われた週末」の終盤だった。

レノンはヨーコと暮らしていたアッパーウエストサイドのマンション「ダコタ・ハウス」から追い出され、キース・ムーンやハリー・ニルソンといったミュージシャンたちと18ヵ月にわたってロサンゼルスで酒浸りの日々を送っていた。学校訪問から間もなくレノンはヨーコの元に戻り、そのおよそ9ヵ月後にショーン・レノンが誕生した。

当時20代前半だったパンは、もともとジョンとヨーコの個人秘書だったが、ヨーコの勧め(「画策」だと言う人もいる)で、二人の別居期間中にレノンの恋人となった。

真相を確かめようと、私は現在クイーンズのフォレストヒルズに住む元音楽業界重役のパンに電話をかけた。彼女は学校訪問のことをよく覚えていたが、1973年は早すぎると否定した。レノンと過ごした時期を振り返りながら、学校訪問は1974年だったとほぼ確信していた。

「正確な日付がわかったら教えてください」とパンは言った。「私も興味が湧いてきました

 

 

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アシスタントから愛人になった本当の理由とは

ジョン・レノンの元愛人が明かす「二人の仲をオノ・ヨーコはむしろ歓迎していた

 
 
 
 
 
つき合った男性からよく、普通の女性よりも強いと言われました。自分を持っているって」ジョン・レノンとメイ・パン Photo by Art Zelin/Getty
 
 
 

 

ガーディアン(英国)

 

Text by Jim Farber

 

ジョン・レノン、オノ・ヨーコ、アシスタントから彼の愛人になったメイ・パン。3人の関係を取り上げた新作ドキュメンタリー映画が公開された。パンは誤解を解くべく、真実を明かしている。

失われた週末とは何を意味するのか


ジョン・レノンにとっての1970年代半ばは、本人の言葉を借りれば「失われた週末」だった。アルコール中毒の作家を描いた1945年の名作映画『失われた週末』にちなんでそう呼んだようだ。「週末」とはいえ、実際は18ヵ月間に及ぶ。

オノ・ヨーコと別居していた時期でもあり、放埓(ほうらつ)な日々を深く悔いていた。しかし、その時期にレノンと同棲していた愛人メイ・パン(当時22歳)によれば、事実は異なるという。

「ジョンは友だちとよく会っていて、とても楽しそうでした」とパンは振り返る。「それに、私はジョンの10歳下でしたから、若いカップルらしい日々を送っていました」
 

レノンがそのころを「失われた週末」と称したのは、ロサンゼルスで起こした騒動を巡ってマスコミに追いかけ回されることにうんざりしていたからだ、とパンは言い張る。レノンは1974年に2度、ロサンゼルスのクラブで酩酊して悪態をついた末に追い出されていた

 
 

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