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玉砕の島は「宝の島」 硫黄島への「違憲施策に終止符を」
朝日新聞
土地が隆起し、海岸線とともにせり上がった廃船越しに摺鉢山をのぞむ=2015年、硫黄島、川村直子撮影© 朝日新聞社
太平洋戦争末期の苛烈(かれつ)な地上戦で「玉砕の島」として知られる東京都小笠原村の硫黄島(いおうとう)。日本軍約2万1900人、米軍約7千人が戦死した。米軍が上陸してから80年になる19日、戦時中の強制疎開後に帰れないままとなっている旧島民らでつくる一般社団法人「硫黄島帰島促進協議会」(麻生憲司会長)が、国土交通省に「帰島を認めない違憲施策に終止符を」と訴える要望書を提出し、記者会見をした。
【写真】1931年ごろの硫黄島の尋常高等小学校。子どもが多くにぎわいがあった=全国硫黄島島民3世の会提供
小笠原諸島は1968年に米国から返還された。だが国は、火山活動や不発弾処理などを理由に、硫黄島を復興計画の対象から除外。84年、国土庁(当時)の審議会は「一般住民の定住は困難」とする首相宛ての意見具申をまとめ、事実上、帰島を認めない方針を示した。返還後の島には自衛隊基地が置かれ、基地関係者以外の上陸が厳しく制限されている
旧島民ら向けに、都と村はそれぞれ、墓参、訪島の事業を行っているが、自衛隊機を使った輸送で、事前に決められたコースをたどり、参加人数も限られる。
終戦から80年たっても帰島を認めないのは憲法第22条の「居住の自由」に反する、という会の訴えに対し、国交省の担当者は「帰島を禁止する法律はない」とする一方で「定住が困難な状況は変わっていない。都や村、防衛省とも連携し、訪島・墓参の拡充など、何ができるかを考えていきたい」と回答した。
1歳半で疎開した土屋時子さん(82)は、硫黄島で生まれた14人きょうだいの末っ子で、母から「硫黄島は宝の島」だと聞いて育った。強制疎開から50年にあたる94年の墓参時、土屋さんは姉たちと、屋根のトタン片が残る実家跡を訪ねたが、現在はコースから外れて行くことができず「自由な訪島をさせてほしい」と願いを語る。多くの犠牲者を出した戦いの前に、島には日常の暮らしがあった。土屋さんは「両親たちがどんな思いで、開拓した島を離れたか。小さな声だけど、帰りたい、と叫んでいきたい」と話した。
(川村直子
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島民生活の歴史
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第二次世界大戦前
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島北部には元山部落、東部落、西部落、南部落、北部落、千鳥部落の6つの集落があり、元山部落には硫黄島尋常小学校と硫黄島神社が置かれ、島の中心となっていた。また、島には父島から派遣された警察官1名が駐在していた。島南部は海軍省によって要塞地帯に指定され、一般島民の立ち入りが制限されていた。元山の台地は土丹岩と呼ばれる凝灰岩からできており、貴重な現地調達石材であった。
当時の島内の産業は、硫黄採取鉱業、サトウキビ、コカ、レモングラス等の栽培農業、近海沿岸漁業等で、これらの産業は「硫黄島産業株式会社」が取り仕切っており、島民の大半は同社に直接、間接的につながっていた。島内での穀物生産は困難のため、米は日本列島本土からの移入に頼っていた。医療用コカイン利用目的としてのコカ栽培は、アジアでは、硫黄島、沖縄本島と当時の日本統治下の台湾だけであった。
当時の島民の証言によれば、「きちんと稼げていた」とのことであり、絶海の孤島ではあったが、島民の経済状態は悪くなかったようである。
島外との交通手段は、月1回の郵便船で母島へ渡り、そこから船で東京港へ向かうルートと、2か月に1度の日本郵船[35]の定期船「芝園丸」で、東京港へ直行するルートがあった。
太平洋戦争の重要防衛地として認識され、日本軍が駐留するが、島民の疎開は当初行われず、アメリカ軍による1944年(昭和19年)6月の空襲で村落は壊滅、ようやく疎開が実施され、廃村となった(詳細は#沿革を参照)