現在はスタンフォード大卒の弁護士
4歳で小児性愛者に誘拐され「性奴隷」にされた男性が壮絶人生を告白
ガーディアン(英国)
Text by Annie Kelly
幼少期に誘拐されたメキシコ系米国人のアントニオ・サラサール=ホブソン(69)はその後、小児性愛者の餌食となり、悪夢のような少年時代を送る。現在は著名な人権弁護士として活躍する彼が、60年以上前に我が身に起きたおぞましい経験と、逆境を克服して成功をつかむまでの軌跡を英紙「ガーディアン」に語った。
いまも消えない「恐怖の記憶」
アントニオ・サラサール=ホブソン(69)は、4歳で誘拐された日のことをいまでも克明に覚えている。
1960年のあの暑い日曜日の午後、彼は米アリゾナ州フェニックスの郊外にある自宅で、きょうだいたちと一緒に赤い土ぼこりの舞う裏庭に立っていた。
家の前の道路には、エンジンをかけたままの車が1台停まっていた。白人の男が窓から身を乗り出し、アイスクリームを食べにこないかと誘う。アントニオは、その男と助手席にいる女が怖かった。
きょうだいたちも身構えた。農場に働きに出ている両親から、この夫婦がアントニオを迎えに来たら絶対に追い払うようにと言われていたからだ。きょうだいたちは、怯えながらも声を張り上げる。
「どうもありがとうございます、ホブソンさん。でも、アントニオは出かけられないんです」
すると男は突然車から降りて驚くほどの速さでアントニオに走り寄ると、あっという間に彼を抱き上げて後部座席に投げ込んだ。車はそのまま急発進し、砂ぼこりのなか姿を消した。後に残されたきょうだいたちの金切り声が、アントニオの耳に残った。
数時間後、車はカリフォルニア州との州境を越えた。アントニオはその後、性奴隷にされ、残りの幼少期を恐怖と苦痛と孤独のなかで過ごした。彼が家族に再会したのは、誘拐から24年後のことだった。
メキシコ移民の両親を持つアントニオは、14人きょうだいの11番目として生まれた。父母はアリゾナ州の果樹園や野菜畑で働き、何とか生活をやりくりしていた。
アントニオの父親は母ペトラにも子供たちにも暴力を振るうので、家族全員から恐れられていた。一方、ペトラは優しく寛大で、50年間夫の暴力に苦しみながらも、子供たち全員を深く愛してくれたとアントニオは言う。
「私は3歳まで話すことができませんでしたが、母はそんな私を特に可愛がり、たっぷりと愛情を注いでくれました」
誘拐後の絶望の日々を耐えることができたのは、母に再会したいという強い思いがあったからだ。
「母のもとに帰るという願いが、私にとって唯一の生きる支えでした。優しい母は、私に自分自身を愛することを教えてくれました。家族と生き別れた後も、私は母の愛を信じ、それにすがっていたのです」
小児性愛者が暮らす農場での「悪夢」
アントニオが4歳のとき、家から100メートルほど離れた一軒家にジョン・ホブソンとサラ夫妻が引っ越してきた。サラサール家にとって、2人は初めて交流を持った白人だった。スペイン語が堪能なホブソン夫妻とサラサール家は、家族ぐるみの付き合いをするようになった
ホブソン夫妻は、サラサール家のきょうだい全員に新品の靴を買ってくれた。家に招かれてテレビを見せてもらったり、クッキーをごちそうになったりしたこともあった。「白人の彼らを、悪人かもしれないと疑う人は家族のなかにはいませんでした」とアントニオは言う
しばらくしてホブソン夫妻は、週末にアントニオを家に招待した。誘いに応じたアントニオは、夫妻の家に到着するやいなやレイプされた。数週間後、アントニオは再びホブソンの家に連れて行かれた。今度はそこで、夫妻が招待した3人の男から性暴力を受けた。
このときの出来事を彼は次のように語る。
「当時の私は、まだほとんど話すことができませんでした。だから狙われたんだと思います。ホブソン家での最初の経験のせいで、私はまったく口をきけなくなりました。ショックと恥ずかしさで深く落ち込み、食事ものどを通りませんでした」
3回目に招かれたときは、小児性愛者の集団にひどい虐待を受けた。アントニオが帰宅すると、何かとても悪いことが息子に起きたのだとようやく両親も悟った。
「『もう二度とあの家に行ってはいけない』と両親に言われました。だからこそホブソンは、私を誘拐したのでしょう
目をつぶると、いまでも誘拐された日のことがすぐに頭に思い浮かぶという。その日もアントニオは、数ヵ月前に誘拐犯から買い与えられた靴を履いていた。
「私を強引に車に乗せた後、ホブソン夫妻はいっさい私に話しかけませんでした。これから恐ろしいことが起こるのだろうと、私は恐怖に震えていました」
苦しみはそれから5年間続いた。薬物を投与されたアントニオは、ホブソン夫妻の性奴隷にされた。夏になると小児性愛者たちが暮らす農場へ連れて行かれて、そこに軟禁された。
3年目の夏に農場でひどい性暴力を受けたアントニオは、ついに自殺を決意する。それしか家族のもとへ帰る方法はないと思ったが、未遂に終わった。その後、ホブソン家に戻った彼が再び農場に送られることはなかった。
年齢が10歳に近づく頃、状況が変わった。ホブソン夫妻やその仲間たちにとって、成長しすぎたアントニオはもはや性的関心の対象ではなくなっていた。だがホブソン夫妻は、「アントニオは養子だ」と周囲に嘘をつき、彼を手放さなかったという
「ホブソン夫妻は警察を恐れていましたし、私に対して見当違いでゆがんだ責任感を抱いていました。貧しい農場労働者になるはずだった私を救ったんだと思い込もうとしていたのです。『本当は養子ではないと誰かに言ったら、お前を養護施設に入れる。そうなれば家族に再会する望みはなくなる』と脅されました
「2番目の夢」を与えてくれた男性
アントニオは12歳になると、ホブソン夫妻と安モーテルの狭い一室で暮らすようになった。夫妻がアントニオに話しかけることはなかったが、酒に溺れると暴力を振るったという。
「その頃、ここから出ていくには後5年は我慢しなければならないと思っていました。いつも孤独でしたが、家族のもとに帰るためには耐えなければいけないと自分に言い聞かせていました。そして、この状況から逃れる唯一の方法は、勉強することだと気づいたのです」
近隣の学校に入学したアントニオは勉学に励み、その甲斐あって、高校生になるとトップクラスの成績優秀者になった。「子供の頃うまく話せなかった時期に、記憶力が磨かれました。何でも微細に覚えることができる能力を勉学に向けたのです。何かにとりつかれたかのように、常に成績上位を目指していました」。毎晩モーテルの洗濯室の電球の下で、何時間も勉強したという。
その一方で、アントニオは13歳の頃からモーテルの近くにある農場で働きはじめた。ホブソン夫妻に誘拐されてからの自分の人生は偽物で、子供の頃に住んでいたコミュニティに戻りたいと感じていたからだ。彼は農場で最低賃金の仕事に従事し、15歳になると地元の労働組合でボランティア活動を始めた
このとき、農場労働者の権利擁護のために活動するセサル・チャベスと知り合ったことが、アントニオの人生の転機となった。
チャベスは、「ここから出て勉強しなさい。そして学校を卒業したら、労働者の権利のために私と共に働き、社会のシステムによって虐げられ、搾取されている人たちのために闘いなさい」と、アントニオを鼓舞したという。
「彼にそう言われて、ようやく自分が生きる意味を見出すことができました。もう一度家族に会うためだけに生きてきた私に、彼は2番目の夢を与えてくれたのです」
チャベスは、アントニオに初めて手本となる男性像を示してもくれた。「パワフルで思いやりのあるチャベス氏が深く私を理解してくれたおかげで、私も彼を信じることができました。彼が描く私の未来の姿に忠実であろうと思いました」
アントニオはメキシコ人農場労働者の権利のために戦うチャベスを手伝い、将来のためにさらに勉強に力を注いだ。
高校卒業と同時にホブソン夫妻に別れを告げると、アントニオはカリフォルニア大学サンタクルーズ校で学び、その後スタンフォード大学に入学した。どちらの大学でも奨学金を獲得することができた