9.11跡地を任された建築家・槇文彦氏が死去、晩年は「新国立競技場」に異論
星野 拓美日経クロステック/日経アーキテクチュア
近年は、「横浜市役所」(20年)や
東京・芝浦で進行中の再開発事業「BLUE FRONT SHIBAURA(ブルーフロント芝浦)」のデザインなどを担当していたが、
21年3月に槇総合計画事務所の代表を退任し、自宅で静養していた。
写真は日経アーキテクチュア創刊40周年の特別企画でインタビューに答える槇氏。2016年に撮影(写真:山田 愼二)
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空から見た「幕張メッセ」。大屋根の部分が国際展示場、おわん形の屋根が幕張イベントホール(写真:三島 叡)
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2020年に竣工した「横浜市役所」ではデザイン監修を担当した。横浜市役所は地下2階・地上32階建て。低層部のアトリウムは休日も開放され、市民の憩いの場になっている(写真:安川 千秋)
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槇氏は1928年、東京都生まれ。
52年に東京大学工学部建築学科を卒業後、
米国のクランブルック美術学院と
ハーバード大学大学院の修士課程を修了した。
東京大学では丹下健三(1913~2005年)、
ハーバード大学大学院では
都市計画を得意とするスペインの建築家ホセ・ルイ・セルト(1902~83年)に学んだ。
建築にとどまらず、都市の在り方にも思考を巡らせる槇氏の活動の原点となった。
設計活動を開始するとすぐさま頭角を現し、
「名古屋大学豊田講堂」(1960年)で日本建築学会作品賞を初受賞した。
65年に槇総合計画事務所を設立。
「立正大学熊谷キャンパス」(68年)で毎日芸術賞、
東京・代官山の複合施設「ヒルサイドテラス」(69~92年)で
芸術選奨文部大臣賞、
「京都国立近代美術館」(86年)でBCS賞、
大分県中津市の火葬施設「風の丘葬斎場」(97年)で村野藤吾賞など、
受賞は数知れない。
代表作には上記の他、
東京・南青山の複合施設「SPIRAL(スパイラル)」(85年)や
「東京体育館」(90年)などがある。
「ヒルサイドテラス」を南側から見下ろす。
1992年に6期が竣工するまで、約25年かけて街並みを形成していった(写真:三島 叡)
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大分県中津市にある火葬施設「風の丘葬斎場」。
建物は葬斎場ホール、
葬斎場の待合棟、
炉室のある火葬棟
の3つから成る。
ランドスケープと一体になった建物だ(写真:吉田 誠)
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国立競技場に隣接する「東京体育館」。
地下2階・地上3階建てで、
延べ面積は約4万4000m2。
折り紙を連想させる大屋根が特徴だ
(写真:日経クロステック)
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93年のプリツカー賞受賞は、師である丹下健三に次いで日本人2人目の快挙だった。同年、国際建築家連合(UIA)ゴールドメダルも受賞し、世界的建築家としての地位を不動のものにした。
槇氏が手掛けたプロジェクトの中で、世界で最もよく知られるのは4WTCだろう。2001年9月11日の米国同時多発テロ事件で崩壊した世界貿易センタービル(WTC)跡地に立つ。高さ約300mの超高層ビルだ。
外観上の特徴は、特殊加工を施したガラスカーテンウオール。ステンレスやアルミのように反射し、空や風景を映し出す加工とした。槇氏は設計の意図を、「いかにデザインを静かにできるか考えた」と説明している。歴史的な事件の現場である「グラウンド・ゼロ」にふさわしい建築デザインとは何か。都市が歩んだ歴史を踏まえて、その地にたたずむ建築の姿を模索した末に、導き出した答えだった。
米ニューヨークの超高層ビル「4ワールド・トレード・センター」。外装のガラスが空や風景を映し出す。天気や季節、時間帯などによって建物の表情が大きく変わる(写真:Tectonic、Maki and Associates
9.11跡地を任された建築家・槇文彦氏が死去、晩年は「新国立競技場」に異論 | 日経クロステック(xTECH) (nikkei.com)
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