寺社建築の被害
総持寺祖院で甚大な被害、40億円投じて復興したばかり
能登半島地震共同取材班
石川県輪島市門前町の門前地区では、
大本山総持寺祖院(以下、総持寺)の
被害が顕著だ。
法堂(大祖堂)や
仏殿といった主要な建物は
倒壊を免れたものの、
山門につながる回廊が
倒壊するなど境内にある建物の多くが
被害に見舞われた
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總持寺祖院(そうじじそいん)は、
山号は諸嶽山。
通称は能山(のうざん)
あるいは岳山(がくざん)。
かつての曹洞宗の大本山「總持寺」。
本山の機能が
移転先が「大本山總持寺」となり、
能登の「總持寺」は
「總持寺祖院」と改称され別院扱いとなる
元は諸岳寺(もろおかじ)と呼ばれた行基創建と伝えられる密教系寺院(一説には真言宗[1])。
1321年(元亨元年)に当時の住持である定賢が霊夢を見て、越中国永光寺にいた瑩山紹瑾に寺を譲った。瑩山紹瑾はこれを禅林として改め、総持寺と命名して開山となった。
翌年、瑩山紹瑾は後醍醐天皇よりの勅問10問に答えた褒賞として、同寺に「日本曹洞賜紫出世之道場」の寺額が授けられたとするが、伝説の域を出ないと言われている。
1324年(正中元年)、瑩山紹瑾は「諸岳山十条之亀鏡」を定めて寺制を整えた。その後、寺を継承した峨山韶碩によって整備され、五哲と呼ばれた門人によって5か所の子院が設けられた。曹洞宗の多くの寺院が同寺の系統をひき、本山の地位や諸権利を巡って越前国永平寺と論争を行うこともあったものの、「能登国の大本山」すなわち能山として親しまれた。
1570年(元亀元年)の戦乱で焼失したものの、新領主の前田氏のもとで再興される。
1657年(明暦3年)には寺領400石が与えられるなど、加賀藩時代を通じて手厚い保護を受けた。
また、江戸幕府は1615年(元和元年)永平寺・總持寺をともに大本山として認めるとともに徳川家康の意向で1,000両が寄付されて幕府祈願所に指定された。住持の地位は5つの塔頭(普蔵院、妙高庵、洞川庵、伝法庵、如意庵)による輪番制が採られたが、1870年(明治3年)の栴崖奕堂以後独住の住持が置かれた。
1898年(明治31年)4月13日の大火で開山廟所である伝燈院経蔵といくつかの小施設を除いた全山を焼失した[2]。
1905年(明治38年)再建されたものの、これを機により大本山に相応しい場所への移転を求める声が高まる[3]。
1911年(明治44年)11月5日、横浜鶴見への移転遷祖の儀式が行われ、以降能登の總持寺は「總持寺祖院」と呼ばれるようになった。
2007年(平成19年)3月に能登半島地震が発生。伽藍が傾くなど境内の建物30棟すべてが被害を受けた[4]。その後は修復工事が進められ、開創700年目の2021年(令和3年)4月に落慶法要が営まれた[5]。なお、2008年(平成20年)3月に仏殿・法堂などが国の登録有形文化財となっている[6]。
2024年(令和6年)1月1日、令和6年能登半島地震が発生し、国の登録有形文化財17棟を含む七堂伽藍や回廊などが倒壊[7][8]。前述の2007年の地震による被害箇所が修復され、總持寺開祖・瑩山の700回忌法要に向けた記念行事などを控える矢先での被災となった[7][8]。
伽藍[編集]
- 経蔵 - 石川県指定有形文化財(建造物)[9][10]。
- 山門 - 「三門」とも。昭和7年(1932年)再建[11]。登録有形文化財(建造物)[12]。
- 香積台 - 庫裏。総受付など總持寺祖院を運営する中枢部[13]。登録有形文化財(建造物)[14]。
- 仏殿 - 本尊である釈迦牟尼仏を正面に安置し、左に達磨大師を、右に大権修理菩薩を安置する書院風仏堂[15]。登録有形文化財(建造物)[16]。
- 法堂 - 「大祖堂」と通称される[17]。登録有形文化財(建造物)[18]。
- 放光堂 - 納骨堂[19]。
- 伝燈院 - 瑩山紹瑾の霊廟。元禄6年建立[20]。
- 僧堂 - 禅修行の中心の場。昭和5年(1930年)再建[21]。
- 慈雲閣 - 観世音菩薩が安置されている。毎年7月17日の観音祭りの時のみ開帳する。[22]」
- 山門回廊 - 山門と僧堂をつなぐ回廊。登録有形文化財(建造物)[23]。
- 玄風廊(げんふうろう) - 法堂と僧堂をつなぐ廊下。登録有形文化財(建造物)[24]。
- 慧心廊(けいしんろう) - 法堂と仏殿をつなぐ廊下。登録有形文化財(建造物)[25]。
- 三樹松関 -