日本人は捕虜になっても、米軍の「助命」に対し「お返し」をしていた…米軍が研究した「日本人の心理」
敵という〈鏡〉に映しだされた赤裸々な真実。 日本軍というと、空疎な精神論ばかりを振り回したり、兵士たちを「玉砕」させた組織というイメージがあります。しかし日本軍=玉砕というイメージにとらわれると、なぜ戦争があれだけ長引いたのかという問いへの答えはむしろ見えづらくなってしまうおそれがあります。
【写真】話し方から下着まで…米兵捕虜が分析した「日本人」の驚きの姿
本記事では、〈 日本兵捕虜がほしい米軍、捕虜は恥辱とされていた日本軍…日本兵捕虜獲得のため米軍が行った「作戦」〉にひきつづき、対米戦争下の 日本兵の士気・心理状態についてくわしくみていきます。 ※本記事は一ノ瀬俊也『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』から抜粋・編集したものです。
捕虜は米兵の命を救う
IB(Intelligence Bulletin『情報公報』米陸軍軍事情報部が1942~46年まで部内向けに毎月出していた戦訓広報誌)「日本軍の士気──亀裂拡がる」によると、米軍対日心理戦担当者たちの最大の仕事の一つは、実は味方の「第一線将兵たちに捕虜獲得の必要性を納得させること」であった。担当者たちは味方に次のように呼びかけねばならなかった。捕虜から得た情報は戦術上も戦略上も大変役立つし、「我々のビラを書くのを手伝い、拡声器で話し、野外へ出て他の捕虜を連れてくる。 加えて、戦友に生きて捕まったところをみられた捕虜は、米軍が捕虜を虐待しないことの生きた証である」と。こう言わねばならなかったのは、逆の事態が多発していたからに他ならない。 そうして投降者を一人でも殺してしまえばどうなるだろうか。「日本兵の間に生きている、捕まれば殺されるとの確信を深めてしまう。日本陸軍における噂の伝達が我が方のそれと同じくらい速いのは間違いない。捕虜一人は何千枚ものビラを上回る価値がある。そして、潜在的捕虜を一人殺せばそれ以上の破壊的効果が生じるだろう」。 米軍がここまで捕虜獲得にこだわったのは、いったん捕らえた日本兵捕虜は実に御しやすく、有用だったからである。「日本軍の司令官が出した膨大な命令は、彼ら自身が、陸軍の大部分を占める単純な田舎者(Simple-Countrymen)は連合軍の尋問官がうまく乗せれば喜んで何でも喋ってしまう、と十分認識していることの証である」。何でも、というのは捕虜たちが「日本軍の築城計画を図に描き、我が方の地図を修正し、日本軍の戦術的弱点を論じ、味方の陣地占領のため用いる戦術までも示唆」したことを指す。 日本兵捕虜たちがかくも協力的だった理由を、米軍は次のように理解していた。 捕まった日本兵は通常虐待された後で殺されると思っているが、「命が救われたと知ると、彼は好意を受けたと感じる。日本人は誰かの好意や贈り物を受けたら最低でも同等のお返しをしなければ顔(face)──自尊心、自信の同義語──がつぶれてしまう。捕虜たちにとって命という贈り物にお返しをする唯一の方法は、我々が彼に求めている物、特に情報を与えることであるようだ」。日本人は貸し借りに生真面目な性向だから、まずは「助命」という恩を着せよ、というのである。 よって、捕虜への乱暴な扱いはその面子をつぶして情報価値を失わせる最短の道であり、「彼の上官がしばしば耳に吹き込んでいるところの、白人は野蛮人であり、捕虜を虐待した後でためらいなく殺すという宣伝を裏書きする」。しかし「親切、公正な扱いは白人の威信を高め、捕虜にその捕獲者への新たな敬意とともに、自らの顔を取り戻したいという欲求をもたらす」。つまり米軍という他者に自分は役に立つ、有用な存在だと認められたい日本人の心理をうまく利用せよ、とのアドバイスである。 今日、日本兵捕虜が米軍の尋問に対し戦艦大和や零式戦闘機の性能などの最高機密をいとも簡単に喋ってしまった事実が知られている(中田整一『トレイシー 日本兵捕虜秘密尋問所』2010年)。その背景には、米軍側が日本人の心理をかくも詳細に分析し、しかもIBなどの閲覧容易媒体を通じて末端まで周知させていたことがあろう。もちろん、こうした啓発記事の存在は、捕虜をとりたがらない米兵が最後までいたことの証拠でもある。 戦後に書かれたもと日本軍捕虜の体験記を読むと、米兵が非常に親切であったとの記述を目にすることがあるが、その背後に実はこうした冷徹なる「計算」が隠れていたと言わざるを得ない。実際、IB「日本軍の士気──亀裂拡がる」は自軍将兵に対し、次のような損得勘定そのものと言うべき呼びかけをしていたのだ。 ---------- 前線将兵は捕虜にしうる日本兵に対し、私情を交えぬ態度をつちかうべきである。捕虜に対する侮蔑と嫌悪という自然な感情を許せば、それは必要のない嫌がらせにつながり、我々の得られる情報は減ってしまう。一方、正しい扱いは、連合軍将兵の命を救い作戦の完了を早めるであろう、時宜にかなった価値ある情報をもたらす。 ----------
日本軍の尋問は腕力
対する日本軍部内の情報漏洩防止策はどうなっていたのだろうか。以下に掲げるのは米軍が掴んだ日本側の対策である(IB1945年9月号「日本軍、防諜を強化」)。 日本軍も敵に情報をとられていることは気づいており、防諜に敏感になっていたが「防諜の機運は最初にレイテで起こり、沖縄で高まった」というから対応は後手後手である。 具体的な防諜策は各部隊の将校、下士官兵が相互に、あるいは民間人と接する際の規則を定めること、部隊が作成した機密書類は高い格付けを与えて地名・部隊名は記号で表示し、役割を終え次第処分すること、暗号化された文を電話で平文に置き換えたり、部隊の移動・装備・組織などに関する事項を電話で話すのを禁止することなどである。 兵たちの郵便についても「我が方のそれと同じくらい厳重な検閲が行われ」「葉書は抜き取り検査だが、封書やその他封筒入りのものはすべて、中隊長か高位の将校により開封、検閲される」という。注目すべきは「沖縄戦の終わりに至るまで、日本兵の死体から個人を特定できる物が何一つ見つからなかったとの報告が多数なされている」ことだ。 前出のIB1945年9月号「日本軍の士気──亀裂拡がる」も「最近の日本軍の命令は、もし兵が不運にも連合軍の手に落ちたとき、その親切な扱いに騙されてはならぬと強調している」と述べている。これらの報告をみるに、日本側も戦争の最終段階では自軍将兵が捕虜となる可能性を否定できず、一定の対策は講じていたようだ。 ところで、逆に日本軍が捕らえた連合軍捕虜から情報を引き出す際の手法はどうだったのか。「日本軍、防諜を強化」の一年ほど前に出た、IB1944年6月号「日本軍の諜報と防諜の手段」は「敵〔日本軍〕のある海軍少尉が捕虜を扱う際の観点」として、次の心得を挙げている。この少尉はおそらく捕虜で、記事はその尋問結果であろう。 ---------- a.捕虜は可能な限り個別に分けるべきだ。 b.捕虜間の会話、意思の疎通は制限すべきだ。 c.捕獲した文書、メッセージなどの情報価値を持つ物は、捕虜からの聴取と組み合わせて用いるべきだ。それらは調査に便利な手法で分析、整理されねばならない。肝心なのは捕虜を得て文書を可能な限り完全に分析することだ。 d.尋問にあたっては腕力が指針とならねばならない。敵の言葉は我々とは違うからだ。口をすべらせて詳細な分析を引き出したり、遠回しな尋問法〔特に尋問者が語彙に乏しい場合〕を用いて成果を挙げるのは困難である。だから〔特に尋問側にとっては〕正式な聴取のほうが容易である。尋問中は勝者は優れていて敗者は劣るという空気をみなぎらせるべきだ。必要があれば質疑に筆談を用いてもよい。 e.尋問の目標が定まるまでは、捕虜に将来の不安を覚えさせ、精神的に疲弊させるのがよい。その宿舎、食べ物、飲み物、監視についてしかるべく考慮せよ。 ---------- 私は、日本軍の捕虜尋問は言語の壁もあってか力に頼った強引さ、拙速さが目立ち、先にみた米軍の柔軟で手の込んだ尋問手法にはとうてい及ばないとみる(ただしこの日本軍少尉は「米兵〔捕虜〕の話し好きな性向に気付いて」いるとIB同記事は付記、注意喚起している
金銭的待遇
日本兵の士気・心理状態を考えるうえで、実は給料や留守家族への生活援助といった物質的待遇も見逃せない。 『日本軍と日本兵』でたびたび引用しているIB1945年1月号「日本のG.I.」に出てくる米軍軍曹は、戦地の日本兵の金銭事情について「民間人に売れると思った物は何でも盗む。彼らの賃金は世界中の陸軍でおそらく一番低い。最下級の兵は日本では月に三円もらう。戦地に出ると月に約三ドル相当の金をもらう。しかし占領地では物価が2000パーセント値上がりしているため、ほとんど何も買えはしない」と書いている。 葉書一枚が三銭だから小遣い程度の額に過ぎず、これではあまり士気も振るわなかったろうと私は思う。 かくも給料が安いのに、兵士たちの留守家族はどうやって生活していたのか。米陸軍省軍事情報局が1943年3月に出したパンフレット『諸外国陸軍の士気向上活動(Special Series No.11 Morale-building Activities in Foreign Armies)』は、日本軍兵士の留守宅に行われた生活援助について、次のようにかなり的確な解説をしている。 ---------- 日本兵の「出征」にあたってはそれぞれ厳粛な行事を行って敬意を払い、国のみならず村の大切さ、ありがたみを深く感じさせる。留守宅に関する兵士の安心感は、隣人たちが家族の農作業を手伝うことにより高められる。婦人、在郷軍人など多様な団体もまた留守宅の面倒をみる。 ---------- これをみるに、日本兵が留守家族の生活困窮について抱いていた心配の解消は政府ではなく「村」すなわち近隣社会の手に委ねられていたといえる。万一兵士たちが敵の捕虜となり、卑怯にも自分だけ生き残ったとすれば「村」は家族への農作業援助を打ち切るだろう。私は、これこそが彼らが投降を忌避した最大の理由のひとつとみるし、米軍もそれを知っていた。 そのような日本兵家族に対する物質的待遇の低さは、『諸外国陸軍の士気向上活動』がドイツ軍について「徴兵兵士の妻に夫が民間人だったときの収入の30~40パーセントを保証し、将校、下士官兵の子育てのため21歳未満の子どもには一人月額10ライヒスマルク(約4ドル)、二人20マルク、三、四人25マルク、四人以上30マルクの手当を支払っている」と解説しているのとは対照的である。
一ノ瀬 俊也(歴史学者
日本人は捕虜になっても、米軍の「助命」に対し「お返し」をしていた…米軍が研究した「日本人の心理」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース