元日本人傭兵が語る】ウクライナの最強組織「アゾフ連隊」からオファーもあった…!知られざる「傭兵たちの給与と報酬事情」
アフガニスタン、
ボスニア・ヘルツェゴビナ、
ミャンマー
の過酷な戦場を駆け抜けた元日本人傭兵で、
現在軍事評論家として活動する高部正樹氏。
前編記事『札束を鷲掴みにして…アフガニスタン、ボスニア、ミャンマーの戦場を生き抜いた元日本人傭兵が明かす「知られざる戦場の給与事情」』に続き、
今回も知られざる「戦場の給与事情」についてリポートする。
無給の戦場も
1990年代になって参加したミャンマーのカレン民族解放軍は、完全に無給だった。ここには数多くの国から外国人が兵士として参戦していたが、例外なく全員である。
無報酬で戦争に参加?
と多くの人が疑問に思うだろうが、当時はそういうところは珍しくなかった。
その頃は冷戦終結直後の民族紛争宗教紛争の時代で、舞台は発展途上国が殆ど。
つまり外国人を、報酬を払って雇えるほど余裕のある国や組織は殆どなかったからだ。
1990年代半ばになると、
私はボスニア・ヘルツェゴビナに渡り、
HVO(ボスニア国内のクロアチア勢力の軍事組織)に参加した。
ここでは、軍からもらう明細を現地の銀行に持ち込み、
そこに開設した口座に振り込まれるというスタイルだった。
ミリオネア気分になれるが…
当時の現地通貨はディナール。
私の明細には、
180万ディナール(月収)を越える金額が書き込まれていた。
桁数だけ見ると大金だが、
日本円にすると3万円を切る程度の金額でしかない。
我々はそれを揶揄するかのように、
給料日の度に「見ろよ! これで俺も夢のミリオネアーだぜ!」
と皮肉な自虐ネタを口にするのがルーティーンだった。
そこにいた外国人の多くは、世界各地で戦ってきた経験豊富な兵士だった。
戦時中の国の銀行など信用していない。
そのため口座にお金が振り込まれると同時に、
その場で全額をおろして現金で持ち歩くのが常だった。
ちょっと面白いのだが、
ここでは当時現金をおろすときにディナールか、
ドイツマルクの選択が可能だった。
みんなマルクで欲しいのはやまやまだが、
戦場近くの田舎ではディナールのほうが圧倒的に使いやすい。
そのため泣く泣くディナールで貰う事が殆どだった
全財産が紙くずになった
しかし、それが後に大事件を生む事になる。1994年春、クロアチアがそれまでのディナールを廃止し、新しい通貨クーナに切り替えたのだ。 手持ちのディナールをクーナに両替できる期間は、僅かに1ヶ月と知らされた。殆ど全財産をディナールで持っていた我々にとっては死活問題である。 速やかに両替する必要があったが、しかし、タイミング悪く、部隊は直後に最前線行きを命じられる。そして最前線配置は長引き、遂にリミットの日を迎えてしまったのだ。手持ちの紙幣が一瞬で紙くずになる。そんな嘘のような出来事が、現実に起きたのだ。やけくそになったみんなが手持ちの紙幣を放り投げ、それが窓からひらひら舞い落ちた。私は戦場で20年近く過ごしてきたが、こんな漫画のような光景を見たのは、後にも先にもこの時だけである。 ちなみにレートは1000ディナールで1クーナ。よって翌月から、報酬の額面は1800クーナちょっとになった。ここに、我々は束の間の「夢のミリオネアー」気分さえ味わう事ができなくなったのである。
相場が跳ね上がるケースも
ここまで読むと、傭兵は安月給だと思われてしまうかもしれないが、それはそれで誤解である。傭兵の報酬は時代や場所で大きく変わるからだ。それはスポンサーの違いである。90年代は不遇の時代だったが、2000年代に入ってイラクが始まると、アメリカという裕福なスポンサーが現れて、相場は跳ね上がった。 例えば、私と一緒にボスニアで月3万円に満たない額でやっていた兵士が、後にPMC(民間軍事会社)に雇われてイラクで日給5~10万以上得る事ができたし、私自身も7万強でオファーを受けている。よく報酬の額で傭兵のレベルを語る人がいるが、少なくともそれは、時代と場所が同じくしないと意味はないのである。 ちなみに、ウクライナのマリウポリの戦いで有名になったアゾフ連隊だが、2014年の創設時に私もオファーをいただいている。内容はキーフまで自腹で来れば、その後は部隊がすべてもつ。しかし、報酬に関しては「nobody gets paid」とはっきり書かれていた。 今でも無報酬のところはたくさんあるようだ。
高部 正樹(元傭兵
【元日本人傭兵が語る】ウクライナの最強組織「アゾフ連隊」からオファーもあった…!知られざる「傭兵たちの給与と報酬事情」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース