私も、2度目か3度目くらいの、パリで、

 

(多分、”ケツの蒼い” 17~18歳くらいだった?)

 

年の離れた彼女に、”ポン・ヌフ”

(パリで、大昔に、ジョークのごとく、名付けられた、一番古い橋ですが、

そのことを、当時、現地在住日本人、仲間では、直訳で、「新橋」と、----そう呼んでいました)(同じころ、片や、、キャリフォルニアの、日系の、1っ世、2世、などの、おじさんたちは、お金を数えるのに、$と言わず、¥といっておりました)

 

の近所の、

 

こぎれいな、おしゃれなバー・クラブに、連れていかれました。

 

彼女と、チークダンスを踊った後、しばらくして、

 

彼女が、「あの、ブロンド美女と、ダンスしてみたら!」

 

と、強制的に言われ、

 

”いや否ながら/恥ずかし乍”

 

ダンスをしました。

 

勿論、立派な胸もあります。

 

超・ブロンド美人です。

 

そのご、お店を出たら、あの美女は、”男よ!”

 

って、言われました。

 

パリジェンヌのジョークは、清純な、私には、相当、きつかったです。

 

 

 

 

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カルーセル麻紀、女性になってもうすぐ“二十歳”を語る「男は鼻の形で選んできた」

配信

 

 

週刊女性PRIME

カルーセル麻紀

 

 

 

 元祖LGBTQタレント、ニューハーフ界のビッグボス……さまざまな異名をとるレジェンド・カルーセル麻紀(80)。彼女は30歳のときにモロッコで性転換手術を受け、『性同一性障害者特例法』が施行された2004年7月10日に、戸籍上も「平原麻紀」と、女性として生まれ変わった。目まぐるしく変化する彼女の日々は、まるで高速で回る回転木馬(カルーゼル)のよう……! 

 

 

 

【写真】ゲイバーで働き始めた15歳のカルーセル麻紀、源氏名は「マメコ」だった  

 

 

 

そこで今回は、戸籍上の女性として“ハタチ”を迎える彼女に、女性になってからの19年や美と健康の秘訣、そしてカルーセル麻紀のこれからの生き方について、たっぷり話を聞いた。

カルーセル麻紀のこれまでとこれから

「戸籍を変えたメリットは、気兼ねなく海外に行けるようになったことね。19歳のときに初めてハワイに行ったときは、パスポートの性別は男のままでワンピースを着て、女優帽をかぶっていたんだけど、入国審査で止められたんです。そのまま病院の精神科に連れていかれて真っ裸にされたのは、本当に屈辱だったわ」  その後「私は男です」と書かれた札を身につけるように指導され、一週間のみの滞在が許された。 「まあ、私はそんな札を下げなかったけどね! でも、現地のゲイバーに行くと私と同じような子たちが『私たちはこれを下げずに外を歩くと捕まるのよ』と嘆いていました。今のアメリカの状況からは考えられないほど、性的マイノリティーに厳しい国でしたね」  そのほかの国でも、パスポートの性別が「Male」であるために、入国審査で何度ももめたという。 「私の愛するフランスは、当時からトラベスティ(異性装者)に寛容な国だったので、まったく問題なく入国できていたの。だから、性別なんてどっちでもよかったけど、ほかの国にも行きたいし、いろいろな国の殿方と出会いたいでしょ。戸籍の性別を変えるのは本当に大変だったけど、自由に世界を飛び回れるようになってよかったと思っています」  実は以前、週刊女性に登場した際に“飛行機内でも殿方と睦言を交わした”と大暴露してくれたカルーセル。空の上も重要な社交場なのだ

 

 

 

あげまんならぬヒットマンだ!

 上空でも地上でも、多くの男性と浮名を流してきた彼女は、先ごろ日本代表が感動的な優勝を遂げたWBCで戦う男たちにも夢中だったという。 「孫ほども若い男の子たちにときめくわけじゃないけれど、私は昔から、男性は“鼻”の大きさと形で選んできたのよ。鼻の穴が横に広がった、ワイルドな形の鼻の男性が好きなので、試合中は各国選手の鼻をチェックしていたわ。『あら、いいわね~』なんて。  昔はプロ野球選手のお友達もたくさんいて、特定の球団を応援できなかったんですよ。もちろん、夜のお相手もたくさんしました。ある人気選手は、不調続きで2軍落ちしそうだった時期に私と夜を共に過ごしたんだけど、その翌日の試合でヒットとホームランを2本も打ってスランプ脱出! それを聞きつけたほかの選手が『カルーセル麻紀はあげまんならぬヒットマンだ!』なんて言い出して、私の夜の試合数も増えちゃったわ」  そのほかにも、名だたる有名俳優や文化人と枕を共にし、彼女は有名人たちの“夜”の生き証人となっていったのだ。  しなやかに年を重ねて80年。取材当日も、彼女はカルーセル麻紀の代名詞・13センチのピンヒールをバッチリ履きこなし、バレリーナのように足を高く上げるなど、われわれの度肝を抜いた。そんな彼女の美と健康の秘訣は“スマホの歩数計”にあるという。 「おととしからスマホに変えたんです。スマホには歩いた距離や歩数を測る機能があるので、それを見ながら毎日5000歩以上歩くように決めているの。基本的に家の中を縦横無尽に歩くだけだから、傍から見るとすごく滑稽なんだけどね(笑)。でも毎日続けたら足腰も強くなったし、お腹まわりも締まってきて、今日初めてはいたレザーのパンツもピッタリ! 全部スマホのおかげですよ」  性別だけでなく、加齢の壁すらも乗り越えてしまったようだ。しかし、以前は脚の血管が狭くなり、血流が悪くなる「下肢閉塞性動脈硬化症」に悩み、まったく運動をしていなかった。 「身体を動かすようになったきっかけは、3年前に発症した脳梗塞。幸い後遺症もなく退院したけれど、それからすぐにコロナ禍になって外出を控えたら、ますます太っちゃった。このままじゃマズいと思って、家の中で運動をするようになったんです。2年前には下肢閉塞性動脈硬化症の6回目の手術もして、またピンヒールが履けるようになってうれしいわ」  また、脳梗塞の発症を機に長い髪をばっさり切り、白髪染めも卒業。手入れもラクになり“今の自分に似合う髪色”が気に入っているという。 「女優の草笛光子さん(89)もグレイヘアがとても素敵ですよね。昔、草笛さんと映画で共演したときに、とても気さくに接していただいたのはいい思い出。それに、あのお年でバリバリ働く彼女を見ていると、私も頑張ろう!って思えるんです。今は年を取ってトイレが近くなったのが悩みだけど、元気に100歳まで生きなくっちゃね!

 

 

 

 

 

バカにされたら殴りかかった

 その一方で「まさかこんなに長く生きるとは思わなかった」と、感慨深く語る。 「私がこの世界に入ったころは『オカマ』と呼ばれて、化け物扱いなんて当たり前。本当にひどい状況だったけど、いちいち傷ついていたら生きていけなかった。嫌なヤツには『なんだこの野郎!』って殴りかかってましたよ(笑)。ちなみに私は、トイレもお風呂もずっと女性用を使っているけど、何も言われたことがないわ。私にとってそれが自然な選択だから、周りの人も気にならなかったのかもしれないですね。そもそも、去勢をして胸もある私が男湯に入るほうがおかしいわよね」  どんなときもどこの国でも“自分らしさ”を貫いてきた。それでも、男性時代の「平原徹男」という本名は、長らくひた隠しにしていたという。 「もしも、平原家の次男がカルーセル麻紀だなんて地元で知られたら、家族が苦労するかもしれない。親、きょうだいには迷惑をかけたくなかったから、妹が結婚するまで本名は口が裂けても言えなかった。それが今では、たくさんのゲイタレントが活躍して、多くの人が私たちのようなLGBTQについて知り、考えてくれている。私たちの時代ではありえないことがどんどん起きてる。長生きはしてみるものね」  性転換手術に戸籍の性別変更──。彼女がカルーセル麻紀でいるために戦う姿は、今も多くの人に勇気を与えている。  そして彼女は現在、新たな仕事にも挑戦中とのこと。 「今はまだ詳しくはお伝えできないけど、5月ごろにはご報告できそう。みなさん、期待して待っててね♪」  女盛りの“19歳”。今年も私たちを楽しませてくれそうだ。 カルーセル麻紀(かるーせる・まき)

 

 

 

 

●1942年、北海道生まれ。

15歳でゲイボーイになる決意をして、

札幌のゲイバー「ベラミ」で働き始め、

その後、大阪「カルーゼル」などの有名クラブで名をはせ、

映画やラジオ・テレビでも活躍。

 

1972年にモロッコで性転換手術を受け、

2004年には戸籍上も女性に。

ゲイ界のパイオニアのひとり。 

 

 

 

取材・文/大貫未来(清談社

 

 

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