トルコ地震、シリア要塞にも被害
2月7日 AFP】トルコ南部で6日に発生したマグニチュード(M)7.8の地震で、隣国シリア北部アレッポ(Aleppo)にある有名な要塞(ようさい)など複数の遺跡が被害を受けた。シリア文化財博物館総局(DGAM)が明らかにした。
シリア・アレッポで、地震で損壊した古代の要塞(2023年2月6日撮影)。(c)AFP
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DGAMはフェイスブック(Facebook)に現地の写真を投稿。要塞内のオスマン帝国時代の風車の一部が倒壊し、北東部の防壁の一部が崩落したと発表した。さらに、アイユーブ朝時代のモスク(イスラム礼拝所)のドーム部分の一部にひび割れが入ったり崩落したりしたほか、城塞の入り口も損壊したと説明している。
シリア・アレッポで、地震で損壊した古代の要塞(2023年2月6日撮影)。(c)AFP
マルカブ城内の複数の建造物が損壊
当局によれば、タルトゥース(Tartus)県バニヤース(Baniyas)ではマルカブ城(Al-Marqab Castle)内の複数の建造物が損壊し、要塞と塔の一部が崩落。カドムス城(Qadmus Castle)城付近でも岩壁の一部が崩落し、複数の家屋が倒壊した。
シリア・アレッポで、地震で損壊した古代の要塞(2023年2月6日撮影)。(c)AFP
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シリア・アレッポで、地震で損壊した古代の要塞(2023年2月6日撮影)。(c)AFP
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また、古代都市パルミラ(Palmyra)などに被害がないかを専門家チームが調べているという。
シリア・アレッポで、地震でひび割れたアイユーブ朝時代のモスク(2023年2月6日撮影)。(c)AFP
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シリア・アレッポで、地震で損壊した古代の要塞(2023年2月6日撮影)。(c)AFP
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シリア・アレッポで、地震で損壊した古代の要塞(2023年2月6日撮影)。(c)AFP
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(c)AFP 【翻訳編集】 AFPBB News
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Wiki
マルガット城またはマルカブ城(Marqab、フランス語: le Margat, 「見張り塔の城」)は、シリアに築かれた十字軍時代の代表的な城。クラック・デ・シュヴァリエとならぶ聖ヨハネ騎士団の本拠の一つであった。
マルガット城は、地中海に面した海抜500mほどの山の上にそびえる。この山は遠い昔に活動を停止した火山であり、南のトリポリと北のラタキアの間の街道沿いにある。海岸からは2km、バニヤースの町の約6km南にあたる。
おそらくフェニキアや東ローマ帝国の頃より砦があったと思われるが、現存する最古の遺構は1062年にアラブ人領主が作ったものであり、第1回十字軍を経て十字軍国家アンティオキア公国が周囲に建設された後もアラブ人領主が持ち続けた。1104年、ハッラーンの戦いでアンティオキアがムスリムに敗北を喫すると、東ローマ帝国は弱みに付け込みアンティオキアとその周囲に対する影響を強め、その際にこの砦をアラブ人から奪った。数年後、アンティオキアの摂政タンクレードがこの砦を奪いアンティオキア公国に編入した。
1170年代、アンティオキアのルノー2世マゾワール(Reynald II Mazoir)がトリポリ伯国の封臣としてマルガット城を支配した。この城は非常に巨大だったため、宮廷のさまざまな係や役人、下位の封臣団を独自に持っていた。彼の息子ベルトランは1186年、マゾワール家の力では城の維持費を賄いきれなくなったため聖ヨハネ騎士団に城を売った。聖ヨハネ騎士団は補修や増築を施して、これをシリアにおける拠点のひとつとした。騎士団の守る14の塔はどれも難攻不落と思え、1188年にサラーフッディーン(サラディン)がマルガット城に対する攻囲戦を行ったときも結局落せなかった。マルガット城は、サラーフッディーンによるシリア遠征の後に西洋人の手に残る数少ない領地のひとつとして、その後100年近く持ちこたえた。
13世紀はじめには、聖ヨハネ騎士団は城の周囲の土地や道路を支配下に置き、そこを通行する旅人、商人、巡礼らから大きな利益を得た。東ローマ帝国下のキプロス太守だったイサキオス・コムネノス(Isaakios Komnēnos、Isaac Komnenos)は、第3回十字軍の際にイングランド王リチャード1世に捕らえられキプロスを奪われた後、聖ヨハネ騎士団に引き渡され1194年までマルガット城に幽閉された。近くの町ヴァレニア(Valenia、現在のバニヤース)の司教も、1240年ごろ以降は守りの堅いマルガット城に拠点を移した。マルガット城は聖ヨハネ騎士団の砦や城の中でも格段に大きく、これより大きな城は南の内陸部にあるクラック・デ・シュヴァリエしかなかった。
エジプトのマムルーク朝のスルタン・カラーウーンは1285年4月25日からマルガット城の包囲に取り掛かった。工兵が北の城壁に穴を掘り、1ヵ月後に城は陥落した。カラーウーンは城の巨大さと騎士団の勇気に感心し、騎士団に対し、持てる物を全て持って安全に撤退できるよう取り計らった。カラーウーンは落とした砦は取り壊してきたが、この城に関してはマムルークの駐屯地として使い続けた