認知心理学者が懸念「社会悪を正すためにも、人の先天的な性格の研究を止めてはならない」

クーリエ・ジャポン

イーリス・ベレント 認知心理学者、米ノースイースタン大学教授 Photo: Sri Thumati Photography / SusanneB / Getty Images

 

 

 

 

性格、素質、才能は生得的なものである──そうした考え方が、差別や抑圧に利用されることは確かにある。そのような不正義に対する恐れから、最近では、先天的な心理的特性に関する研究そのものを抑制しようという動きも一部で見られる。 

 

 

 

【画像】一般の人には、「身体と精神の二元論」という誤解が浸透していると指摘するイーリス・ベレント 

 

 

 

 

しかし、先天的な心理的特性を研究するイーリス・ベレントは、科学研究そのものを抑制しても社会悪がなくなるわけではないと考える。精神の先天的要素も、身体の先天的要素と同等に科学的に扱うべきだと論じるベレントは、なぜ人々が「精神」と聞くと身構えてしまうのかについても、鋭い分析をおこなっている。 子育てをしていると、人間の素質についていろいろと考えさせられることがある。何人かの子供がいる人は、子供たちひとりひとりの違いに早い段階で気づくかもしれない。私の息子は幼い頃、初めて音楽を聴いたとき、目を大きく見開いて真剣な眼差しになった。私の娘は幼い頃から、明らかに社交的な性格だった。生後3ヵ月になると、彼女は生えてきた一本の歯でいたずらっぽく私を噛み、反応を観察していた。その後、息子が作曲家になり、娘が心理学に傾倒したのも納得だ。 子供たちは、生まれつきそのような性格だったのだろうか? 私たちが何たるかを形作っているのは、先天的要素なのだろうか? 認知科学、神経科学、行動遺伝学が誕生して以来、この古くからの疑問は科学研究のテーマとして、集中的に探究されるようになった。だが、現在の社会的・政治的情勢においては、人間の素質に関心を持つことが、危険なほど物議を醸すようになっている。 ここ最近、いわゆる「生得性のドグマ」に対して、強い懸念を表明する大衆メディアの声が大きくなっている。これらの批判的な記事においては、女性は本能的に母性的であるという説、生物学的性(ジェンダーとは異なる概念)は二つであるという説、そして(故E・O・ウィルソンの『社会生物学』で主張されているように)生物学的要素が社会を形作るという説に、疑問が投げかけられている。 しかし、その不安の根源は、これらの説に専門的見地から見た科学的メリットがあるかどうかという懸念ではない。それらの説が社会的な悪影響をもたらす、すなわち、誰かに危害を加え、不正義を永続させる可能性があるということで、不安視されているのだ

 

 

 

 

 

大手学術雑誌も「抑制」に動く

いまやこの懸念は、科学のプロセスそのものを制限する方向へ動いている。科学の媒体の代表格である学術雑誌「ネイチャー・ヒューマン・ビヘイビア」の編集部は最近、このように表明した。「ある人間集団が別の集団より先天的に、生物学的・社会的・文化的要素において優れている、あるいは劣っているという前提に立った論稿」に対しては、修正を求め、場合によっては掲載を拒否することがある、と──。 この所見は善意によるものであることは明らかで、一見すると理にかなっている。確かに、人間には固有の文化的差異があるという考え方は、道徳的に好ましくないばかりか、概念的にも破綻している。 しかし、盛んに研究されている固有の生物学的差異は、それとは別の話だ。事実、IQ、読解能力、音楽的スキルの個人差は遺伝性のものであるというエビデンスは存在する。ところが、一部の人の目には、そういった研究も社会的に危険だと映るのである。 だが果たして、人間の素質に関する科学研究を制限することは、不正義や偏見を増長する社会悪を効果的に防ぎ、正すことになるのだろうか?

加害者は「科学そのもの」なのだろうか?

人間の素質について語るのには、確かに危うい面もある。そこで、いくつかの誤解を解いておこう。第一に、科学が人々に対して直接的に害を与える場合は、当然、科学の側が折れなければならない。第二に、人間集団の生まれつきの違いについて語ることは、誰かにとって害になる場合もある。 人間の素質に関する主張は、人を傷つけたり、差別したり、根絶したりするのに利用されてきた。その歴史は長く、醜いものだ。そして、自分たちの権利、生命、身体が脅かされるのではないかとマイノリティーの人々が恐れるような、現在の社会的・政治的風潮のなかでは、危害の可能性は高まる。 たとえば、中絶の権利が奪われているときには、性や生殖に関する権利のさらなる制限に「母性本能」の話が利用されるかもしれないと、女性たちが恐れるのは自然なことだ。 つまり、何らかの危害が起こる可能性はあり、それを防がねばならないことは言うまでもない。しかし、その加害者が誰であるかは、それほど明解ではない。人に危害を加えるのは、科学なのだろうか? それを抑制すれば、人々は救われるのか? その答えは単純ではない

 

 

 

 

「遺伝子診断」を危険視する人はほとんどいない

わかりやすくするために、先天的な心理的特性の話は一旦置いておいて、身体を形成する遺伝子の役割について、人々がどう思っているかを見てみよう。23アンドミー(註:個人のゲノム解析をおこない、遺伝子診断サービスを提供する米国の企業)の人気が、その動かぬ証拠である。 中東欧のユダヤ人をルーツに持つ者として私は、乳がんの発生に関係するBRCA遺伝子変異、および、テイ=サックス病に関係するHEXA遺伝子変異のリスクが高いかもしれない。読者の遺伝的な祖先はまた異なるだろうから、身体的な表現型やリスク因子も異なるだろう。 遺伝子の違いに関するこの手の話を聞いても、そんなことはないと言う人はほとんどいない。むしろ、遺伝子が私たちの身体を形作っていることについて、もっと知りたいと考える。しかし同時に、こうした発見は差別に都合よく利用され、保険会社が補償を拒否するなどといった形で、誰かに対する危害につながるかもしれない──そのことに私たちは気づいていないわけではない。だがこの場合、害は科学そのものではなく、社会から生じているということも、私たちにはわかっている。だから、それに応じた適切な法的救済策などを考えることもできる。

「精神」をめぐる誤解

では、なぜ精神に関することとなると、人は一変して極端な態度をとるようになってしまうのだろうか? 遺伝子が性格や認知を形成していると示唆するだけで、なぜそこまで問題だとみなされるのだろうか? 私が所属する心理学研究室の最近の研究成果は、この謎を解き明かしている。人は一般に、精神を肉体とは別個のエーテル的なものであると、間違って考えているようなのだ。つまり、心理的な特性は、生まれながらに体にコード化された先天的なものであるはずがないと考えている。その前提で動いている人にとっては、先天的な心理的差異という概念はばかげており、差別のにおいがするのである。そのため、人間の素質について語ること自体が、誰かを攻撃していると受け取られるのも当然なのだ。 事態をさらに厄介にしている点がある。仮に生物学的な両親から性格や適性を受け継ぐのだとしたら、その受け継いだものは固定されており、私たちがどういう存在であるかを決めるような本質の一部をなしているのではないか──そう直感的に考えてしまう傾向が、一般にあるのだ。そうすると、X染色体を2本持つ人が「母性本能」を受け継ぐというのは、どうにもできない女性の運命を暗示しているように思えてしまう

 

 

 

 

 

私たちは何に反応しているのか

だが、科学はそうは言っていない。第一に、科学では私たちの身体と心(あるいは精神)は一体であるとされている。そのため、女性の遺伝子がその性格を形成している可能性は、遺伝子がその人の身体を形成する役割を認めることと同じくらい、議論の余地がないはずである。 第二に、遺伝子は性格を決定する多くの要素のうちの一つにすぎない。そのため、もし母性本能なるものが存在するとしても(科学で言う母性本能はそもそも、ヴィクトリア朝的な概念と同義ではないのだが)、それは決して運命を意味するものではないのだ。 以上の理由から、仮に科学が家父長制、性差別、運命決定論を唱えているように思えるのであれば、そのとき私たちは、科学が言っていることに反応しているのではない。私たちの耳に入ってくることに反応しているのだ。

社会悪を正すためにも、科学が必要だ

人の性格の一部の要素に遺伝子が影響を与えるという考え方は、ほかの仮説と同等に、科学的なものとして受け止められるべきだ。原子力エネルギーや遺伝子編集のように、人間の素質に関する科学研究も、都合よく利用される可能性はある。だが多くの場合、そのような害悪は科学そのものからではなく、勝手な意図を持った、科学を消費する人間から生じる。 こうした研究をさせないようにできたとしても、隠れた悪意は影響力を持ち続けるだろう。反対に、科学に基づく答えがなければ、社会は遺伝子の宝くじによって生じる不公正を是正するために介入することもできなくなる。 科学を制限しても、社会悪を軽減できない。科学を制限することはむしろ、社会悪を理解して対処する私たちの能力を制限してしまうのである。

Iris Berent