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タロとジロの日(愛と希望と勇気の日)

(1月14日 記念日)

タロとジロの生存が確認された日。

1959年(昭和34年)のこの日、南極観測船「宗谷」から飛び立ったヘリコプターが南極の昭和基地に着いた時、南極観測隊に同行し、

 

 

前年に置き去りにされた

 

15頭のカラフト犬のうち

 

タロとジロの2頭が生きているのが発見された。

 

 

この出来事は映画『南極物語』にもなり、

後世に残そうと記念日が制定された。

 

 

この日は「タロとジロの日」または「愛と希望と勇気の日」と呼ばれる。

生きることへの希望と愛することを忘れないための日とされる。

 

 

ジロは1960年(昭和35年)7月9日、昭和基地にて5歳で病死。

 

ジロの剥製は東京・上野の国立科学博物館に置かれていた。

 

 

タロは1961年(昭和36年)5月4日に4年半振りに日本に帰国。

 

その後、札幌市の北海道大学植物園で飼育され、

1970年(昭和45年)8月11日に老衰のため14歳7ヵ月で没。

 

 

1983年(昭和58年)、タロとジロの生存劇を描いた映画『南極物語』が制作され、

翌年公開された。

この映画の影響もあり、タロとジロの剥製を一緒にさせてあげようという運動が起き、国立科学博物館の特別展などでタロとジロの剥製が共に展示された。

 

タロとジロの像

 

 


タロとジロの像

愛知県名古屋市港区のガーデンふ頭には、上の画像のようにタロとジロの銅像が建立された。このふ頭には南極観測船「ふじ」のプロペラや実際に活躍した雪上車なども展示されている。

 

 

タロとジロをデザインした硬貨
タロとジロをデザインした硬貨

また、1957年(昭和32年)に昭和基地を開設してから2007年(平成19年)で50周年を迎えるにあたり、

造幣局より南極地域観測50周年を記念した500円硬貨が発行された。

その硬貨の表面にはタロとジロ、南極観測船「宗谷」が、裏面には南極大陸の地図が描かれている。

 

タロとジロの日(愛と希望と勇気の日)(1月14日 記念日) | 今日は何の日 | 雑学ネタ帳 (zatsuneta.com)

 

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タロー、ジローを初め、

 

15頭を、置き去りにした理由は、

 

第二次越冬隊が、数時間で、来るためという手はずだったようで、

 

リクエストされ、

 

15頭を、置いておいてくれ(????)

 

と、言うことのようです

 

 

(したのURLの解説によりますーーーー)

 

第2次南極観測隊が越冬隊の成立に失敗した理由と原因 (netabare1.com)

 

 

 

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それでは、Wikiです

 

 

 

1956年(昭和31年)1月、稚内市にて風連のクマと、クロの子として生まれ、タロ・ジロ・サブロの3兄弟だった。名前は当時南極観測隊用に樺太犬を集めていた犬飼哲夫北海道大学教授によって名付けられた。この名前は白瀬矗の南極探検の際、犬ぞりの先導犬として活躍した樺太犬、タロとジロ(「タロウとジロウ」[1]、あるいは「タローとジロー」とも)にちなむ。

1956年昭和31年)、南極観測隊に樺太犬による犬ぞりの使用が決定される。当時の北海道には約1,000頭の樺太犬がいたが、このうち犬ぞりに適した犬は40から50頭程度に過ぎなかった。この中から3頭の兄弟と父親を含む23頭が集められ、稚内で樺太出身の後藤直太郎によって訓練が行われた。このうちサブロは訓練中に病死している。

第一次南極観測隊[編集]

1956年(昭和31年)11月、総勢53名の第1次南極観測隊隊員がタロ、ジロを含む22頭の樺太犬と共に東京湾より南極観測船「宗谷」で南極へ出発。宗谷には暑さに弱い樺太犬たちのために、赤道越えのための冷房室が特別に用意された。隊員のうち11名が第1次越冬隊として選抜され、この中で菊池徹と最年少の北村泰一が犬係(北村自身の記述によれば、「犬かかり」)を任じられる。昭和基地に到着すると、病気などでそのまま帰国する3頭を除いた19頭の犬たちは、1957年の第1次越冬隊において犬ぞり引きなどに使役された。越冬中に2頭が病死、1頭が行方不明となった。また雌のシロ子はジロなどとの間に8頭の子を産んだ。

1957年(昭和32年)12月、宗谷が南極付近に到着した。昭和基地にいる第1次隊員と入れ替わって越冬するため、宗谷は第2次越冬隊を乗せていた。しかし、近年稀にみる悪天候にみまわれ、宗谷は昭和基地には到着できなかった。

1958年(昭和33年)2月6日、46日ぶりに外洋への脱出に成功し、7日、アメリカ海軍のウィンド級砕氷艦「バートン・アイランド」号と会合。支援を受けて8日、密群氷に再突入した。11日、6便に分かれて1次越冬隊11名、雄の三毛猫たけしカナリア2羽が宗谷に帰船。12日、2次隊隊員3名が先遣隊として昭和基地に到着。13日、天候の悪化により空輸が困難となった。

14日、天候はますます悪化し、バ号自体の氷海脱出も危うくなった。午前10時、永田隊長から、一旦外洋に出てから天候が回復しだい再進入する計画なので3名は宗谷に戻るように指示したが、3名は、第1次隊が残した食料と樺太犬がいるので再進入の計画があるならばこのまま越冬準備を続けたい、万一再進入できなくても3名での越冬も十分可能であることを強く訴えた。

正午、隊長からは次のような最後通告が戻ってきた。「3名を収容して外洋に出るのはバ号艦長の至上命令であり、気象的にも空輸の可能性は後1便しかない。越冬には樺太犬が必要なので野犬化したり、共食いしたりしないよう、必ず鎖につないだまま帰船してほしい」[2]

バ号艦長の命令では従うしかなかった3人は、南極生まれの子犬8頭とその母犬のシロ子はなんとしても連れ帰ることにした。15頭の犬の食料2か月分を分配した後、迎えに来た昭和号(DH-2)に子犬8頭とシロ子と共に昭和号に乗り込んだが、荷重超過で機は離陸できなかった。不時着用の燃料と食料を降ろすという森松整備士の機転によって帰船することができたが、15頭の犬は首輪で昭和基地付近につながれたままにされた。

17日、宗谷はバ号と共に外洋に出た後、18日、密群氷に再進入し昭和号を発進させられそうな水路や氷山を探したが見つからず、19日、風速30メートルを超える暴風雪により探照灯と電話アンテナがもぎ取られた。最後にせめて安楽死させようと考え、ヒ素入りステーキを準備したが昭和号が飛びたてる海面がなく、帰国期限の2月24日を迎えた[3]

24日、南極本部より第二次越冬・本観測を放棄せよとの命令が下り、計画を断念し、第2次越冬隊の派遣は断念された。それとともに15頭の犬の救出も見送られ、残された犬達の生存は絶望視された。この犬を置き去りにしたことにより、観測隊は激しい非難を浴びることとなった。7月には大阪府堺市に15頭を供養する銅像(樺太犬慰霊像)が建立された。