我々の時代には、
同じ学年だけでも、ハーフの子供たちは、3人か4人くらいいました。
(一人の女の子は、明るく、そして、元気で、身長も高く、成長も早く、
大人びいていました)
父親が、日本に、一緒に、いない、ある子(娘)は、、、、、
今、思いますと、小さい時は、少しだけ、暗かったようでしたが、
ビートルズが出てきて、その頃、、「好きな音楽(バンド)」ができた、
――――と、言う感じで、元気になり、
ドラム・スティックを学校に持ってきて、
もう一人の女の子と一緒に、机を、しょっちゅうたたいていました。
私の最初の、清らかな純愛の相手も、やはり、そういう女の子でした。
純粋で、超・かわいかったですが、
のちに、彼女の人生は、、
ありとあらゆる意味で、相当変化しました。
Matt Monro - Love is a many splendored thing (慕情 / マット・モンロー)
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米兵と結婚した4万5000人の日本人「戦争花嫁」たちはどんな人生を送ったのか 思い描いた夢と現実
占領期に日本にいた米兵と結婚して渡米した花嫁たちは4万5000人ほどだという Photo: National Archives and Records Administration
「戦争花嫁」と呼ばれた日本人女性たちがいるのを知っているだろうか。戦後、日本に占領軍として駐留していた米国の軍人と結婚して渡米した女性たちだ。言葉も文化も異なる知らない国へ移り住む決断をした女性たちの生き方については、知られていないことや誤解も多い。
【画像】キャサリン・トールバート氏と、「戦争花嫁」だった母のヒロコ氏
その戦争花嫁の娘であり、ジャーナリストのキャサリン・トールバート氏は、戦争花嫁とその家族に取材し、オーラル・ヒストリーの記録を残す活動をおこなっている。 戦争花嫁はどんな人たちで、米国でどんな生活を送ったのか。取材を続けるなかで、戦争花嫁の娘として自身はどのようなことを考えたのか。トールバート氏にインタビューをおこなった。
戦争花嫁のイメージと現実
──第二次世界大戦後、占領下の日本に駐留する米国人軍人と結婚し、渡米した日本人女性が約4万5000人いました。その女性たちは「戦争花嫁」と呼ばれています。トールバートさんは、ご自身の母親が戦争花嫁だったこともあり、米国各地で暮らす戦争花嫁とその家族に会ってインタビューをし、それをオーラル・ヒストリーとして記録に残す活動をされています。世間一般の人が戦争花嫁に関して誤解しがちなことがあるとすれば、それは何ですか。 戦争花嫁たちは従順な女性だったのだろうと思い込まれがちです。それがまず思い浮かぶ誤解です。米国人たちも最初、渡米してきた戦争花嫁たちを見て、きっと従順な女性なのだろうと思い込んでいました。でも、実際の戦争花嫁は、みんな芯の強い女性でした。 リスクを負うことを厭わず、自分の前にチャンスが転がってきたら、たった一人でも賭けに打って出る人たちだったといえばいいでしょうか。どの女性も、米国の軍人と結婚して渡米するという決断を一人で下したわけですからね。強い意志を持つ女性でなければできないことです。米国では最初の頃、このことがほとんど理解されていませんでした。 一方、日本ではメディアの報道の仕方のせいで戦争花嫁たちが誤解を受けることが多かったです。なぜ女性たちが米国人の軍人と結婚したのか。その理由がほとんど理解されていませんでした。 女性たちが米国人の軍人と結婚したのは、もっと違う生き方をしたいという願いがあったからでした。いろいろな事情が重なり、このまま日本にいても未来は明るくないと考えて決断した女性もいました。当時の日本の暮らしに満足できなかった女性もいました。日本では「戦争花嫁」という言葉のせいで、女性たちに変なイメージがついているような気がします。 念のために言いますが、戦争花嫁といっても、別に戦時中に米国の軍人と結婚したわけではありません。戦争が終わってから結婚した人たちです。戦争花嫁という言葉自体は、米国の法律に由来します。戦争花嫁法というものが米国にあり、これは簡単に言ってしまうと、ヨーロッパなどで米軍の軍人が結婚した女性が、妻として米国で暮らせるようにするための法律でした。日本人女性もこの法律を使って米国で暮らせるようになったので「戦争花嫁」と呼ばれるようになったわけです。 戦争花嫁のどこが誤解されがちだったかという話ですが、戦争花嫁を知らない人のほうが大多数だったというのが正確です。日本人の戦争花嫁たちは、米国各地の小さな町に散らばって暮らしていました。日本人女性たちが一ヵ所に集まって暮らしたわけではありません。 米国のあちこちの小さな町に、米国人の妻として到着し、そこで仕事を見つけて、家族の生活を支えるために必死に働いたわけです。ほとんどの人が米国人風の名前を新たにもらいました。私の母はスージーという名前になりました。 ですから一般の米国人は、日本人の戦争花嫁がどんな人たちなのか、ほとんど知りませんでした。これは戦争花嫁たちにとっては都合のいいことでした。新しいタイプの移民だったので、偏見がなかったというか、そもそもどんな人たちなのかあまり知られていなかったのです。だから米国人は、このニューカマーたちに対して分け隔てなく接していました。 その意味で対照的なのは、米国の西海岸に暮らしていた日系米国人たちです。米国の社会は、こうした日系米国人に対して偏見を抱いていました。そのせいで日系米国人たちは第二次世界大戦中、収容所に監禁されるというつらい経験をすることになったのです
決して楽ではなかった米国での暮らし
間違った思い込みということなら、戦争花嫁たちが抱いていた米国のイメージもずれていました。自分が行こうとしている米国がどんな国なのか。そこではどんな暮らしを送ることになるのか。女性たちがイメージしていたものは、現実と食い違っていることが多かったです。 もちろん夫たちは結婚前に米国がどんなところなのか説明はしていたのですが、やはり実際に渡米してみないとわからないことがあるわけです。私の母は、自分が米国の田舎の農場で暮らすことになるのは知っていました。でも母はそれまで日本でも農場で働いた経験はありませんでした。ですから米国の田舎で鶏と卵に囲まれて働く暮らしがどんな風なのか、少しも想像ができていませんでした。 ハリウッド映画で見ていた、あのアメリカに行くのだと期待していた女性もいました。戦後の日本では、米国は豊かな社会だというイメージがあったのです。しかし、日本人女性たちが結婚した相手は、必ずしも都会で暮らす人ではありませんでした。むしろ米国の田舎の小さな町の出身である場合が多かったのです。ですから夫の町に到着してみて、自分が結婚した相手が、かなり貧しい境遇の人だったと知って、ショックを受けることなどもありました。 私は2022年9月、アメリカ太平洋軍司令官や駐韓米国大使を務めたハリー・ハリス海軍大将をインタビューしました。ハリス海軍大将の母親は神戸育ちの戦争花嫁でした。たしか芦屋の学校を出ています。父親は神戸のガス会社の従業員だったということなので、戦前の神戸では、かなり恵まれた家庭の育ちだったといえます。 そんな女性が、夫と新しい生活を始めた場所が米国のテネシー州でした。屋内トイレすらないすっからかんの家で、ほとんど原始的といってもいいような暮らしを始めたわけです。「アメリカ」と聞いたときに思い浮かぶイメージと、実際に渡米して暮らすことになったアメリカの現実は、かなり食い違っていたわけです。戦争花嫁たちは、予想もしていなかった現実や境遇に適応していかなければなりませんでした。 しかし、女性たちはへこたれませんでした。ほかに選択肢がなかったからです。日本を離れたのだから、自分はもう日本には戻れないし戻らないという思いもありました。とくに子供を産んだ後は、日本に帰る選択肢はなくなりました。それで米国で生きる道をなんとか確立し、子供を育てていったわけです。 戦争花嫁たちの結婚には、素晴らしい結婚もあれば、よくも悪くもない結婚もあり、あまりよくない結婚もありました。これは一般的な結婚と同じです。私が話を聞いた範囲では、米国人軍人と日本人女性の結婚だったから離婚が多くなったということはありません。離婚率は米国の平均とほぼ同じです。 ただ、ほかに選択肢がなかったから、結婚をなんとか維持したという女性はいました。「妻が米国人だったら、自分はとっくに離婚されていたはずだ。自分の振る舞いはとても褒められたものではなかったから」と話す米国人の夫もいました
草の根レベルの日米関係
──1952年、日本人戦争花嫁の米国での生活を描いた山口淑子主演のハリウッド映画『東は東』が公開されています。ハリウッド映画の題材になったのだから、日本から来た戦争花嫁への関心が米国人の間でもそれなりにあったのかと思っていましたが、そこまでではなかったということですか。 映画『東は東』が公開されたのは、日本からやって来た戦争花嫁への関心が米国で芽生えた時期でした。忘れてはならないのは、米国では1924年から1952年までの20年を超える期間、アジアからの移民がいなかったことです。1924年の移民法によってアジア人は米国市民に帰化できなくなり、米国に移住できなくなっていたのです。 それが変わったのが1952年でした。この年、アジア人も米国市民に帰化できるように法律が変わり、ビザももらえるようになったのです。もちろん1952年の前にも、日本人戦争花嫁が特例で渡米する事例は年間数百件ほどあったのですが、1952年を境にその数がぐんと増えて年間数千件になりました。 1952年から60年代前半までが、日本から多数の戦争花嫁が渡米していた時期でした。繰り返しになりますが、米国では1924年から1952年までアジア系の移民がやってくることがないに等しかったのです。ですからアジア系の移民が久しぶりにやって来るということで関心も高まりました。 この頃は、米国が対日関係を見直し、日本を米国にとって重要な同盟国に位置づけた時期でもあります。そのため米国政府は、米国内での日本のイメージを改善しようとしていました。その意味では、日本から女性がやって来て、米国で子供を育て、地域社会に貢献する姿を示したのは、日本のイメージをソフトにするためにも役立ったのです。 日本人戦争花嫁をテーマにしたハリウッド映画は、『東は東』のほかにも、1957年公開のマーロン・ブランド主演の『サヨナラ』もありました。これはジェームズ・ミッチェナーの小説を映画化したものです。1950年代から60年代は、米国内でも日本文化の話が出てくるようになった時期でした。当時、米国人の間でよく読まれていた「サタデー・イーヴニング・ポスト」誌でも、日本から到着した戦争花嫁についての長文の記事が何度か掲載されています。 ──戦後の米国では、まだ異人種間の結婚を禁じる州もありました。米国人軍人の夫と日本人女性の妻という若い夫婦は、どうやってその障壁を乗り越えたのですか。 当時の米国には、異人種間混交を禁じる異人種間結婚禁止法があり、そのような法律を廃止する州も徐々に出てきていたとはいえ、第二次世界大戦直後の時点では、米国の半分の州で異人種間の結婚は禁止されていました。ですから米国人軍人の夫と日本人女性の妻という若い夫婦は、この異人種間結婚禁止法のない州に行く必要がありました。 米軍もそこのところは配慮しました。日本人女性と結婚した米国人軍人が戦後も軍隊に残った場合、その軍人の配属先を米国の南部ではなく、異人種間結婚禁止法のない米国の北部にしたのです。北部のほうが、異人種間の結婚をした夫婦に対してオープンな雰囲気があったからです。 米国社会にとって、第二次世界大戦後の米国人軍人と日本人女性の結婚は、久しぶりの異人種間の結婚でした。当然、生まれてくる子供も、米国社会にとって、ずいぶん久しぶりの異人種間の子供となりました。この異人種間結婚禁止法が全米で無効になるのは、1967年の連邦最高裁のラヴィング対ヴァージニア州判決が出るまで待たなければなりませんでした。 米国人軍人と日本人女性の夫婦にとって苦労が多かったことは言うまでもありません。米軍側もこの問題を認識していました。日本に駐留していた米軍内では、日本人女性との結婚は米国の法律に反するものだから許されないと言われたりもしていました。
(続く) 第2部では、トールバート氏自身が日本人の母にどのように育てられたのか、および、戦争花嫁やその家族の取材を通して母親との関係がどのように変化したのかを聞く
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日本と米国、2つの「故郷」の狭間で
母は「自分の物語」を語りたかった─戦争花嫁の取材を続けた娘が振り返る母との関係
キャサリン・トールバート(右)と、「戦争花嫁」であった母のヒロコ・トールバート。戦争花嫁の取材を通して、母と娘の関係も深まったという Photo: Kathryn Tolbert
クーリエ・ジャポン
Interview by Kei Abe
──トールバートさんは全米各地に暮らす戦争花嫁とその家族にインタビューする活動をされていますが、これまで何人くらいから話を聞けましたか。話を聞いていて意外に思ったことはありましたか。
戦後に渡米した日本人女性とその家族の両方を合わせて100人以上をインタビューしています。戦争花嫁本人だけでなく、その夫や子供たちの話も聞いているのです。
私はこのプロジェクトを始めるまで、戦争花嫁について、ほとんど何も知りませんでした。私が生まれ育ったのはニューヨーク州の小さな町で、私の家族以外に戦争花嫁の子供は周囲に全然いませんでしたからね。プロジェクトを始めてみて、戦争花嫁の家族が米国にこんなにいるのかとびっくりしたのが率直な感想です
全米各地に散らばって暮らす戦争花嫁とその家族をどうやって探せたのかというと、私は以前、『七転び八起き アメリカへ渡った戦争花嫁物語』というドキュメンタリー映画を作ったのですが、そのとき映画作りの資金を「キックスターター」というクラウドファンディングのサイトで集めたのです。
キックスターターでは、資金提供者は資金を出すと同時にコメントも送れます。それで私のもとに「私の母も戦争花嫁です」とか「祖母が戦争花嫁です」といったコメントが多数集まったのです。私はそのときに得たつながりをたどり、全米各地で暮らす戦争花嫁に会いに行くことができました。
自分がどんな話を聞くことになるのか、まったく予想もつきませんでした。私が関心を持っていたのは、戦争花嫁たちが人生で何を重視してきたのか、彼女たちは何をするときに幸福を感じるのか、というところでした。それぞれの話を聞いていて共通のテーマが浮かびあがってきたとき、私はジャーナリストとして興奮を隠せませんでした。
共通のテーマと言えるものはいくつかあります。まず言えるのは、夫が戦後も軍隊に残った場合、妻の暮らしが多少は楽だったことです。暮らしが経済的に安定するだけでなく、基地周辺には国際結婚の夫婦も多く暮らしており、同じ境遇の日本人戦争花嫁たちもいたからです。ただし、夫が軍隊に残った場合、引っ越しは多くなりました。
義理の両親や親族との関係も重要でした。義理の親族に歓迎された場合、戦争花嫁の暮らしは楽でした。義理の両親の多くは、日本人女性を娘のように歓迎しましたが、全員がそうだったわけではなかったのです。私の母は、私の祖父母に歓迎されました。米国に到着した日本人女性には、頼れる友人も親戚もいませんし、知り合いもいません。知っているのは夫だけです。そのため夫の家族が、米国社会との最初の接点となるので、どのように迎えられるかは非常に重要でした。
母は「自分の物語」を語りたかった─戦争花嫁の取材を続けた娘が振り返る母との関係 | 日本と米国、2つの「故郷」の狭間で | クーリエ・ジャポン (courrier.jp)