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三浦 義村 |
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時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代前期 |
生誕 | 仁安3年(1168年)?[1] |
死没 | 延応元年12月5日(1239年12月31日) |
別名 | 平六(通称) |
墓所 | 神奈川県三浦市南下浦町金田 |
官位 | 右兵衛尉、駿河守、三浦介 |
幕府 | 鎌倉幕府 侍所所司、評定衆 |
主君 | 源頼朝、頼家、実朝、藤原頼経 |
氏族 | 桓武平氏良文流、三浦氏 |
父母 | 父:三浦義澄、母:伊東祐親の娘 |
兄弟 | 三戸友澄、義村、重澄、胤義、他 |
子 | 朝村、泰村、長村、光村、重村、家村、 資村、胤村、重時、良賢(僧侶)、 矢部禅尼、土岐光定室、毛利季光室、 千葉秀胤室 |
承久の乱・伊賀氏の変[編集]
承久3年(1221年)の承久の乱では、検非違使として在京していた弟の胤義から決起をうながす書状を受けとるものの[注釈 8]、義村は使者を追い返した上で義時の元に向かい「平判官胤義ガ今年三年京住シテ下タル状御覧ゼヨ」と事を義時に通報するという行動に出る[33]。その後、軍議を経て出戦と決まると、義村は東海道方面軍の大将軍の一人として東海道を上り、6月15日には東寺で胤義と相対する。しかし、『承久記』慈光寺本によれば、この際、胤義は「胤義思ヘバ口惜ヤ。(略)今唯人ガマシク、アレニテ自害セント思ツレドモ、和殿ニ現参セントテ参テ候ナリ」と兄に熱く呼びかけるものの、義村は「シレ者ニカケ合テ無益ナリ」と取り合わず、その場を立ち去ったという[34]。その後、胤義は子の胤連、兼義とともに現・京都市右京区太秦の木嶋坐天照御魂神社で自害した。
乱終息後の戦後処理でも義村は活躍した。幕府は後鳥羽・土御門・順徳の3上皇を配流とし、後鳥羽上皇の後裔のことごとくを配流・出家させてその系統による皇位の継承を認めない方針をとった。そして、高倉天皇の第2皇子である行助入道親王を治天の君として院政を敷かせるとともに、その三の宮である茂仁王を後堀河天皇として擁立することとした。この後堀河天皇の擁立に義村が関わっていることを示す史料がある。賀茂社の神官である賀茂経久による『賀茂旧記』(賀茂別雷神社蔵)がそれで、その承久3年7月7日条には「するがの守北白河殿にまいりて、宮せめいだしまいらせて、おがみまいらせて、同九日御くらゐにつかせ給ときこゆ」とあり、駿河守こと義村が北白河殿を訪れ、強引に宮を連れ出して(宮せめいだしまいらせて)皇位に即かせたとも読める内容である。しかし、高橋は寝殿造りの邸宅は儀式や来客に対応する表とプライベートな奥から構成されており、この「宮せめいだしまいらせて」は公卿の座あるいは出居などと呼ばれる来客空間にまで出座願ったということであり、その上で即位を懇願し(おがみまいらせて)後堀河天皇の誕生を実現したとしている[35]。
元仁元年(1224年)、北条義時が病死すると、後家の伊賀の方が自分の実子である北条政村を執権に、娘婿の一条実雅を将軍に立てようとしたとされる伊賀氏の変が起こる。政村の烏帽子親であった義村はこの陰謀に関わるが、北条政子が単身で義村宅へ問いただしに訪れたことにより翻意し、釈明して二心がないことを確認、事件は伊賀の方一族の追放のみで収拾した。だが伊賀氏謀反の風聞については執権となった北条泰時自身が否定しており、『吾妻鏡』でも伊賀氏が謀反を企てたとは一度も明言しておらず、政子に伊賀氏が処分されたことのみが記されている。そのため伊賀氏の変は、鎌倉殿や北条氏の代替わりによる自らの影響力の低下を恐れた政子が、義時の後家・伊賀の方の実家である伊賀氏を強引に潰すためにでっち上げた事件とする説もある[36]。
幕府宿老[編集]
嘉禄元年(1225年)夏には大江広元・北条政子が相次いで死去する。同年12月に執権北条泰時の下、合議制の政治を行うための評定衆が設置され、義村は宿老としてこれに就任した。幕府内の地位を示す椀飯の沙汰では北条氏に次ぐ地位となっている。貞永元年(1232年)の御成敗式目の制定にも署名した(名義は「前駿河守平朝臣義村」)。4代将軍・藤原頼経は、将軍宣下ののち、三浦一族と接近するようになり、義村は子の泰村と共に近しく仕えた。『吾妻鏡』安貞元年(1227年)・翌2年(1228年)・嘉禎2年(1236年)の条などでは、頼経が現在の神奈川県平塚市田村7丁目付近にあったと伝わる義村の田村館(田村山荘・田村城とも)を度々訪れた記録が見える[37][38]。そんな中、義村は暦仁元年(1238年)には鎌倉下向以来、初めてとなる上洛の途に就いた頼経の先陣を勤めている。随兵36人を従えての先陣だった。この上洛に随兵を従えて加わったのは御後に列した泰時・時房と義村のみであり、高橋はこの上洛が「頼経のハレの場でもあると同時に、義村のハレの場でもあった」と述べている[39]。
延応元年12月5日(1239年12月31日)、死去。『吾妻鏡』によれば「頓死、大中風」[40]。その翌月、ともに北条泰時を支えた時房も義村の後を追うように亡くなると、京の人々は2人の死を、顕徳院すなわち後鳥羽上皇の怨霊の仕業であると噂したという[41]。
人物[編集]
- 藤原定家は『明月記』の嘉禄元年(1225年)11月19日条で「義村八難六奇之謀略、不可思議者歟」と書いており、義村の行動が同時代の人物の眼から見ても理解不能であったことをうかがわせている。これを受けて小説家の永井路子も義村を「不可解な人物」としつつ、「権謀――といって悪ければ緻密な計画性に富み、冷静かつ大胆、およそ乱世の雄たる資格をあますところなく備えたこの男は、武力に訴えることなく、終始北条一族を、振廻しつづけた。政治家的資質とスケールにおいて僅かに上回ると思われる北条義時すら足を掬われかけたこともしばしばだった」と綴っている[42]。
- 橘成季が編纂した世俗説話集『古今著聞集』に記されたエピソード。某年正月、将軍御所の侍の間の上座を占めていた義村のさらに上座に若い下総国の豪族・千葉胤綱が着座し、不快に思った義村が「下総犬は、臥所を知らぬぞとよ」とつぶやくと、胤綱はいささかも表情を変えず「三浦犬は友を食らふなり」と切り返したという[43]。胤綱の発言は和田合戦での義村の裏切りを当て擦ったものだが、国語学者の森野宗明は「座席の順位すなわち席次は、序列での位置すなわち地位 status の表象であり、その人物の格付けが端的に表現される」とした上で「この出来事を通して、義村という人物には、長幼の序にこだわり年長者を立てようとする面のあることを垣間見ることが可能であり、そうした性格を具えた人物像と、この説話において描かれている」と、権謀家とされる義村の別の一面を指摘している。ただし、相手を犬に喩えたのは行きすぎで、森野も「相手を犬に喩えての義村の嘲罵は、天に向かって唾する行為であった。それは、同じく犬に喩えた強烈な嘲罵を胤綱が浴びせる材料を提供する格好になった。この勝負、明らかに胤綱の勝ちである」と結論付けている
「承久の乱」で後鳥羽上皇の惨敗に追い込んだ「三浦義村」の決断、要所要所で決して判断を間違えない
岡山県倉敷市にある後鳥羽上皇御影塔(写真:くろうさぎ/PIXTA)
後鳥羽上皇は承久3(1221)年、鎌倉幕府に奪われた権力を、朝廷に取り戻そうとした。「承久の乱」と呼ばれるこの戦いで、後鳥羽上皇が討伐を目論んだのは、幕府で実権を握る北条義時である。 義時は3代将軍の源実朝亡きあと、わずか2歳の三寅(藤原頼経)を第4代将軍に擁立。自分は執権として武士たちのトップとなり、権勢を誇った。そんななか、源氏将軍の血筋が途絶えたタイミングでの上皇の反乱である。 幕府につくか、上皇につくか。武士たちが選択を迫られるなか、キーマンとなったのが、有力御家人の三浦義村である。はたして、義村はどんな道を選んだのか。弟の胤義との運命の分かれ道も含めて解説する。
■わずか1カ月で全面降伏した後鳥羽上皇
独裁的な政治を行う北条義時を討伐するべし――。 後鳥羽上皇が各地の御家人にそう命じたのは、承久3(1221)年5月15日のことである。『吾妻鏡』には、次のようにある。
「勅命に応じて右京兆を誅殺せよ。勲功の恩賞は申請どおりにする」 「右京兆」とは「右京権大夫」という官位の唐名で、この場合は「北条義時」を指している。義時が名指しされていることから、「後鳥羽上皇の目的は倒幕ではなく、義時を討つことだった」とする説もある。
だが、4代将軍となるべく、2歳のときに摂関家から鎌倉へと赴いた九条頼経(藤原頼経)は当時まだ4歳。征夷大将軍の座につくのは9歳なので、厳密には、このとき鎌倉将軍の座は空位だった。幕府の最高権力者である義時を征伐するということは、幕府を無力化することにほかならず、目的は「倒幕」以外のなにものでもない。これが「承久の乱」の始まりである。 「承久の乱」が起きたことで、朝廷と武家政権が日本史史上、初めて武力で争うことになった。だが、その結果はといえば、鎌倉幕府の圧勝。義時の追討が命じられてから、たった1カ月後の6月15日には、後鳥羽上皇は全面降伏の院宣を出している
こんなにあっさり負けていったい何がしたかったんだか……と後世からは評価されがちだが、後鳥羽上皇は何も勝算なく、幕府に挑んだわけではなかった。 現に後鳥羽上皇は、数多くの在京御家人たちを味方につけることに成功している。 朝廷軍の中核となった大内惟信のほか、近江国・長門国・石見国の守護である佐々木広綱や、阿波国や淡路国の守護である佐々木経高、 阿波国の守護代である佐々木高重、播磨国の守護である後藤基清などが、上皇側についた。そのほかに、山田重忠、五条有範、中条盛綱らの御家人が上皇の味方となっている。
北条氏に反感を持ったり、朝廷の威光を恐れる御家人たちが京都近辺にはそれだけ多かったのである。 上皇の呼びかけに御家人たちの間で動揺が広がるなか、動向が注目されたのが、義時の従兄弟にあたる三浦義村である。義村は「梶原景時の変」「畠山重忠の乱」「牧氏の変」、そして「和田合戦」と、これまで何度も義時に有利になるように動いてきた。そして、実朝を暗殺した公暁を討伐したことで、駿河守に任官している。 だが、その一方で、油断できない人物でもあった。なにしろ、義村は幾度となく陰謀に協力しようとする動きを見せてから、土壇場で裏切り、結果的に義時側に味方している。
そんな知力と武力を兼ね備えた義村のことを、策略家の後鳥羽上皇が取り込もうと考えたのは、当然のことだろう。上皇は義村を味方につけるため、まず在京している弟の三浦胤義にアプローチを行った。
■弟の三浦胤義はかなり前のめり
三浦胤義は、源頼朝の頃から重臣として幕府を支えた三浦義澄の末子にあたる。三浦義村の弟で、検非違使判官に任じられていた。後鳥羽上皇はまず胤義を朝廷側につかせることで、兄の義村も味方に引き入れようとした。
『承久記』によると、上皇からのアプローチに対して、胤義はこんなふうに応じたという。 「このような院の仰せを受けたのは名誉だと思います。兄義村に手紙を出したならば、義時を討つことは簡単でしょう」 胤義は「先祖伝来の三浦・鎌倉を捨てて上洛し、院に仕えることは心の中にあったことです」とまで言っており、かなり前のめりである。義時の討伐に積極的な理由についても「私の妻は誰だとお思いか?」と問いかけながら、自身で説明している
胤義の妻は、頼朝の右筆として仕えた法橋昌寛の娘で、第2代将軍の源頼家の愛妾とされる女性だ。頼家との間に子の禅暁をもうけたが、頼家は北条時政によって死に追いやられたうえに、子の禅暁も北条義時に命を奪われた。そのため、胤義の妻は今でも日々泣き暮らしているという。 「都に上って院に召されて、謀反を起こして鎌倉に一矢報いたい」 妻思いの胤義がちょうどそう考えていたときに、上皇から義時討伐を命じられたのだという。『承久記』は京都側の人の手によって記載されているだけに、誇張されている可能性は高いが、北条氏との間に因縁があったことには違いないだろう。
今こそ立ち上がるべしと、胤義は上皇に従うことを決意。京方の主力として、鎌倉幕府と戦うこととなった。
■三浦義村は弟から決起を促されても応じず
北条氏への不満をくすぐり、三浦胤義の心をとらえた後鳥羽上皇。どうも近臣の藤原秀康からアドバイスを受けたらしい。御所に呼ばれた秀康は「三浦義村の弟、胤義が検非違使として在京しているので、相談すれば、義時を討つのはたやすい」と上皇に伝えている。計画どおりに、胤義を味方につけて、まさにそのもくろみどおりにいくかに思えた。
しかし、要所要所で決して判断を間違えないのが、三浦義村という男である。弟の胤義から使者が訪れても、返事すらせずに追い返した。そして、義時に書状を出して、弟から決起を促されたことを伝えている。 弟の誘いを一蹴した義村が、いち早く幕府への忠誠を表明したことで、ほかの有力御家人たちもそれにならった。また、幕府の求心力を高めるために義時の姉、北条政子も一役買っている。 前述したように、西国の守護たちのなかには、上皇の命令に従った者もいたが、守護は将軍から任命された役職に過ぎない。自分たちの守護が上皇につこうがつくまいが関係なく、地方の武士たちは「幕府と朝廷のどちらにつけば、自分たちの土地を保障してくれるのか」と考える
だからこそ、後鳥羽上皇の挙兵が明らかになると、北条政子は御家人たちを御簾のそばに呼び寄せ、あの有名な訴えによって恩賞について強調したのである。 「皆、心を一つにして承るように。これが最後の言葉である。故右大将軍が朝敵を征伐し、関東を草創して以後、官位といい、俸禄といい、その恩は既に山よりも高く、海よりも深い」(『吾妻鏡』より) 「故右大将軍」とは源頼朝のことだ。シチュエーションや演説の内容は文献によって違いがあるが、『吾妻鏡』では「藤原秀康・三浦胤義を討ち取って、源氏3代の将軍が遺したものを最後まで守りなさい」と言っている。
この言葉を聞くまでもなく、結集している時点で、義時に味方することを決めていたことだろう。それでも、こうして改めて宣言されることで、幕府の体制を堅持する意義の大きさを、御家人たちはかみしめたに違いない。頼朝の妻、政子しかできない原点回帰であった。
■兄たちの軍が来るのを待っていた三浦胤義
蓋をあけてみれば、圧倒的な兵力で勝ったのは幕府軍のほうであり、京に攻め入られた上皇側は早々とギブアップしている。幕府軍の総大将を務めたのは、北条義時の息子、北条泰時だ。6月15日、後鳥羽上皇は泰時に使者を送って、こんな院宣を伝えた。
「乱を起こした藤原秀康、三浦胤義らは、追討命令を出す」 後鳥羽上皇は、幕府への反乱をすべて藤原秀康と三浦胤義の責任としたのである。あわせて「政務に口出しはしない」ことや「武士たちを出仕させない」ことも約束している。まさに全面降伏だ。 哀れな三浦胤義はどうしていたかというと、敗戦が濃厚になると、東寺に引きこもり、兄たちの軍が来るのをただ待った。「他人に討たれるくらいならば」という思いがあったのだろう。『承久記(慈光寺本)』では、兄弟は最後に再会を果たしたとしている。
弟が「最後にあなたの顔をみたくてここにきた」と熱弁すると、義村はただ一言、こう言って、その場を立ち去ったという。 「愚か者と掛け合っても無駄なことだ」 戦に敗れて自害した三浦胤義の首は、兄・義村の手によって、北条義時へと渡されたという。こうして「承久の乱」は上皇の大敗に終わった。戦後処理においても、三浦義村は存在感を発揮。後鳥羽上皇は出家して、隠岐へと流されている。 【参考文献】 『全訳 吾妻鏡』(貴志正造訳注・新人物往来社)
『承久記』(松林靖明校注・現代思潮新社) 渡辺保『北条政子』(吉川弘文館) 高橋秀樹『北条氏と三浦氏』(吉川弘文館) 安田元久『北条義時』(吉川弘文館) 山本みなみ『史伝 北条義時』(小学館) 野口実『北条時政』(ミネルヴァ日本評伝選)
真山 知幸 :著述家