「豊かさ」とは何か

これからは豊かさを実感できる社会を目指すべき――。これに対して異を唱える人はいないだろう。では、豊かさとはどういうもので、豊かさを実感できる社会とは一体どのような状態なのか。幸福学を専門とする慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授でウェルビーイングリサーチセンター長を兼任する前野隆司氏と、豊かさを掲げて行政システムのデジタル化を支える富士通の執行役員常務でJapanリージョン副部門長(公共・社会インフラ担当)の林恒雄氏、同社理事で公共デジタル事業本部長の山田厳英氏が、幸福の本質と共に、国民が豊かさを実現する社会での政府のサービスのあり方について語り合った。

デジタルガバメントが実現する豊かな未来

富士通はなぜ「豊かさ」に着目したのか

――富士通は「豊かさ」を柱に目指すべき社会を考え、パブリックサービスを提供すべきであると提唱しています。なぜ富士通は「豊かさ」という言葉に着目したのでしょうか。

林 恒雄氏
富士通 執行役員常務 Japanリージョン副部門長(公共・社会インフラ担当)

林 私自身は現在取り組んでいる仕事を突き詰めて、今よりもっと「便利」な社会を目指すべきではないかという意識が強くありました。しかし、富士通の若いメンバーらにアンケートし、「2030年にどんな社会であったらよいか」を尋ねたところ、「便利」よりも「豊かさ」という言葉が出てきたのです。

 「豊かさ」と一言でいっても人によりイメージするものは多様で、我々が目指す姿としてまだぼんやりした概念だと感じています。幸福学の第一人者である前野先生との対話を通じて、“北極星”のような道標にすべくイメージをより明確にできればと思います。

山田 私の部署のメンバーは、お客様にサービスを提供する立場で利便性や「豊かさ」を考え、ビジネスをしてきました。振り返ると、サービスを受ける側はどう考えるのかと議論していく中で、「豊かさ」という言葉を大切にしていきたいというメンバーがたくさんいました。

――前野先生の研究テーマは「幸せ」ですが、何を「幸せ」と思うかは人それぞれの状況や価値観により異なります。「幸せ」を「豊かさ」に置き換えるなら、富士通が目指す「豊かさ」はコンセプトとして同じ方向に向かっていけるのか、前野先生の意見を伺えますか。

前野 隆司氏
慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授兼慶應義塾大学ウェルビーイングリサーチセンター長

前野 非常に興味深いと思います。私はもともとエンジニアで、より使い勝手の良い便利な機械や安全の価値を追求してきました。その上位概念は何かと考えた時、出てきたのが「幸せ」という言葉でした。ユーザーを主語にすると、「私にとって便利、私にとって安全」から「私にとって幸せ」になります。これを提供する側から見ると、「人々を豊かにする」という言い方のほうが自然に感じるでしょう。つまり、視点の違いだと思います。

 「豊かさ」は主観的ではなく、客観的です。もともと「豊かさ」は物的な「豊かさ」を表していましたが、最近は心の「豊かさ」も表すようになっています。他方、「幸せ」には、お金や物的な「豊かさ」も寄与するし、やりがいやつながりなど心的な「豊かさ」も寄与します。近頃よく使われる「ウェルビーイング」という言葉は、人々の良い状態を意味しますが、「豊かさ」に非常に近い概念だと思います。

林 「ウェルビーイング」や「豊かさ」は、どういう状態なのか定まっていません。「幸せ」は状態というよりも自分の心の中で生じる思いであり、豊かであれば「幸せ」に直結するとも限りません。物的なものと心的なものが相まってこその豊かであり、どちらかが全くないのに「幸せ」であることはないと思っています。

「幸せ」の4つの因子とは

――前野先生は、やりがい・主体性やチャレンジ精神に関わる「やってみよう因子」、つながり・感謝・利他性に関わる「ありがとう因子」、前向き・楽観に関わる「なんとかなる因子」、そして人と自分を比べない「独立と自分らしさの因子」の4つを「幸せ」の因子として提唱しています。これらは心的要素が前面に出ていますが、それ以外に「経済」「環境」「健康」の要素も並列して挙げています。心的要素だけでなくこれらの要素もそろってこそ、「幸せ」は実現できるという理解でよいでしょうか。

前野 その通りです。そして、豊かであるための心の状態の要因といえば、「幸せ」の4因子がしっくりくると思います。「幸せ」な状態には、やりがい、つながり、前向き、自分らしさが必要です。100人いれば100通りの心の「豊かさ」や「幸せ」の考え方があり、100人100通りのやりがい、つながり、前向きさ、独立した個性があります。その意味で、一人ひとりが異なるダイバーシティを統合する価値観も、この4つの因子に集約されると考えています。

“豊かさ”の構成要素と幸せの4つの因子

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山田 「つながり」に関して、つながっていることとつながっていないこととの違いは、「幸せ」に大きな差を生むのでしょうか。

山田 厳英氏
富士通 理事 公共デジタル事業本部長

前野 端的には、「孤独(Loneliness)」は「孤高(Solitude)」とは異なります。何かに熱中している人は「孤独」ではなく、「孤高」な状態です。全ての人は多かれ少なかれ、一人ぼっちであることが不安であり、必要な時に人とつながれることが必要です。ただし、「大丈夫だよ、頑張ってるんだね」という優しい声掛けが有効な人もいれば、「一人で頑張ってやってくれ」と言われる方が有効な人もいて、個人差は大きいでしょう。

林 コロナ禍で富士通は在宅テレワークが長期間に及んでいます。オンラインでつながる手段は持っていますが、自分が必要な時につながっているかというと決してそうではなく、業務で必要な時につながっているだけです。その意味で「孤独」を感じているとすれば、テレワークが「幸せ」でなくしてしまっている可能性があるのかもしれません。

前野 パーソル総合研究所が行った調査では、コロナ禍で幸福度の平均値がじわじわと下がってきています。コロナ禍以前は会議の合間や廊下ですれ違った時に言葉をかわすなど、業務のための最低限の会話ではなく、雑談や心のふれあいがありましたが、そうした機会が減り、人間的なつながりも減ってきています。

重要なのは「やりがい」と「つながり」

――「つながり」の中でSNSのようなツールをどう捉えていますか。

前野 SNSでのつながりは重要ですが、リアルに比べると効果は少ない傾向があります。

林 我々の年代になるとSNSでの深いコミュニケーションは難しく、連絡程度に終始してしまいます。一方、最近の若い年代はSNSで様々なコミュニケーションをとり、つながりがカバーできているのではないでしょうか。

前野 そうかもしれません。若い人はSNSでやり取りするだけでもつながっていると感じているようです。他方、SNSは表情など、リアルで会う時と比べて明らかに情報量が少なく、弊害が出てくるのではないかと感じています。

山田 マッチングアプリでカップル成立や結婚、という時代に変わってきていますね。

前野 マッチングアプリでの結婚は離婚率が一番低く、次が恋愛、そしてお見合いが一番高いというデータを見たことがあります。マッチングアプリで情報を適切に得られるため、一番長続きするようです。

林 人が失いつつあることを組み込み、実装できるというICTの可能性を感じました。

山田 以前、山間部の方々にICTによる利便性向上の提案をしたことがあります。住民の皆さんは、ICTの利便性はありがたいが、地域コミュニティを失ってしまうことを一番心配していました。実際にICTを利活用する人たちの価値観と、サービス提供者側の価値観の違いに気づかされました。

前野 興味深いですね。日本は均一社会とはいえ多様化している部分があります。都会では様々な人と一緒に住むシェアハウスが増えていますし、従来の常識とは違うタイプのものがどんどん出てきています。

林 私はシェアオフィスの変える力に期待しています。本当にコミュニケーションが行われる場所になった時、シェアオフィスの本来的な力が出てくると思っています。日本にはそのような場所がまだないのが残念です。

――「つながり」をはじめとする「幸せ」の4つの因子を助けるソリューションやサービスを作ることができれば、人を「幸せ」にすることにつながりやすいのでしょうか。

前野 まさにその通りで、私が様々な会社にお願いしているのもその点です。重要なのは「やりがい」と「つながり」。単にアプリが便利なだけではなく、使っているうちに思わずやりがいが高まり、思わずつながってしまう、そういった仕組みだらけにすれば、人々は「幸せ」になっていくでしょう。

「つながり」の再構築が重要に

――仕組みや選択肢を与えられることに加え、自分で選ぶ、自分で動く、自分で決められることも重要ですか。

前野 はい。例えば「やってみよう因子」の反対は「やらされ感」や「やりたくない、やる気がない」です。やる気のない人は幸福度が低く、「豊かさ」を感じられませんが、主体的で自己決定感が出れば「幸せ」になります。そのための仕組みづくりは重要です。

林 2030年にどういう社会であってほしい、こんなことができるようになっていてほしい、というところをお聞かせください。

前野 それこそが「幸せ」の4つの因子を満たしている社会です。それも、人と比べない社会を作るべきだと思います。私は日本とアメリカの教育を経験しましたが、日本が偏差値教育で人と比較しがちであるのに対し、アメリカは人と比べません。アメリカは、もちろん差別もありますが、表向きは自由で多様な人が生き生きと生きる社会です。2030年までには日本もリテラシーを高め、ありのままに活き活きと生きる社会になってほしい。

 特に課題は自己肯定感と孤独です。昔の村社会にはつながりがありました。先ほどのシェアオフィスやシェアハウスは、その課題の解決に寄与できるのではないでしょうか。

林 「つながり」の再構築ですね。確かに会社で働いているうちはいいですが、会社生活が終わった後に様々なコネクションが断ち切られてしまいます。「孤独」になっていくことを最近は恐れ始めていますし、定年後の男性のつながり構築にはビジネスチャンスもあると感じています。

前野 オンラインツールを使えない高齢者でもきちんと使えるソリューションには、大きなビジネスチャンスがありますね。

供給者目線ではなく、国民目線・生活者目線で

――現在も、マイナンバーカードの申請は分かりづらく、高齢者には難しいと思います。

前野 マイナンバーカードには個人的には怒りに近い感情を持っています。アメリカではソーシャルセキュリティナンバーは秘密のものではありません。個人番号は完全にオープンにしてあらゆる情報をひも付けつつ、悪用を回避すれば、これがあるから安全だという状態になるはず。つまり、日本で個人番号を秘密にするというそもそもの設定に無理があると考えています。まさに富士通のようにセキュリティのノウハウを持つ企業が、このような問題に対して提案を行い、解決していくようになるとよいと思います。

林 日本の様々なメカニズムの悪さをどうすれば変えられるのか、「豊かさ」にたどり着くための大きな弊害をどうすれば取り除けるのか、大きな問題認識を持っています。今後は供給者目線ではなく、国民目線・生活者目線でビジネスをしていく必要があります。前野先生が示す「幸せ」の4つの因子は、方向性やベクトルを示す大切な要素になり、将来を見据え“北極星”のような道標になると感じています。

豊かさを実現するとは
協業ステークホルダーとともに目指すべき北極星

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――今後はパブリックサービスという概念で、公共のあり方や民間企業の関与の仕方、富士通としての価値提供の仕方そのものを変えていく必要があると考えています。2030年の姿の中に位置づけた「パブリック」について、先生の考えをお聞かせください。

前野 パブリックサービスは全ての人の「幸せ」を願う公共の奉仕者です。安全や健康の基盤があり、その上でやりがいや生きがい、多様なつながり、個別の「幸せ」も担うべきだと思います。

 宮崎県新富町の良い例があります。町役場は町全体の奉仕者ですが、同町では地域商社としての「こゆ財団」を作り、ライチ農家が「楊貴妃ライチ」を売り出す、ユニリーバスタジアムを誘致する、などエッジの効いた取り組みを行っています。「なぜあの人たちばかりに利益がいくのか」と一見怒られそうなことに対し、役場がふるさと納税の制度内で実施しています。このように公共の意識改革とセットでないと、構造的に難しいでしょう。そこがこれから重要なところであり、富士通のような外部から提案する必要があると考えています。

山田 話をお聞きして、公共サービスを民間サービスと絡め、パブリックサービスとして捉えたいと思いました。いわば第三セクターのように、サービスの出島をお客様といかに創っていくか、一つのアプローチとして非常に興味深く拝聴しました。

林 ようやくと言うと語弊がありますが、富士通にも変われるチャンスが出てきたところです。今まではなかなか変わるチャンスがなく、周りと違うことを言うのがはばかられていました。今はそういう雰囲気がなくなり、若い人を中心に物を言える空気が出てきています。ぜひこの機運に乗って、実際のアクションにつながる取り組みをしていきたいですね

 

富士通と幸福学者による「豊かさ」談義 - 日経クロステック Special (nikkeibp.co.jp)