維新後の

 

明治時代初期・中期

 

大久保利通

 

と、彼を取り巻く、政治家たち、と 権力と日本の行く末

 

私のような、”浦島太郎” の、ぼけ人間には、

 

いくら、少々、、歴史好きでも、

 

この、”明治初期の20年間の政治家たちの、権力闘争と、その攻防”

 

に、ついては、

 

超・詳細には、覚えておりませんので、

 

何が真実で、

 

どのように推測するのが正解なのか?

 

それぞれの人間たちの、”真の姿”、本当の胸の内?

 

は、相当、闇といいますか、詳細は、あやふやですので、

 

 

 

(資料が消滅しているためか?、探し方が不十分なため?

うちの、おじいちゃんや、ひいおじいちゃんたちの、

経済や政治や力の、”攻防””や、

その当時の、先祖が行っていました投資や、不動産などに

についてなど、知りたいものです)

 

 

うちの先祖のことは、ここでは、どうでもよいですが、

 

何しろ、

 

この記事のような、

 

ことを題材にし、専門家たちを集め、討議し、

 

脚本を作り、

 

大河ドラマを制作してほしいものです。

 

えっつ???

 

”あのNHK?”に、アイディア、あげるの???

 

 

 

 

 

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権力握った「大久保利通」でも扱いに頭を抱えた実力者の正体 「まるで子ども」なのに無視できなかった男とは?

東洋経済オンライン

大久保利通(左)と島津久光(右)(左写真:iLand/PIXTA、右写真:アフロ)

 

 

 

 

倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。 しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。 

 

 

【漫画】東大生断言「頭がよい人」「そうでない人」決定的差

 

 

 

 

大久保利通はどんな人物だったのか。実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第46回は、権力を握った大久保利通が扱いに困った実力者について解説する。 著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。 この連載の記事一覧はこちら <第45回までのあらすじ> 薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだが、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り、重用されるようになる。

 

 

久光が朝廷の信用を得ることに成功すると、大久保は朝廷と手を組んで江戸幕府に改革を迫ったが、その前に立ちはだかった徳川慶喜の態度をきっかけに、倒幕の決意を固めていく。大久保は閉塞した状況を打破するため、島流しにあっていた西郷隆盛の復帰に尽力。その西郷は復帰後、勝海舟と出会い、長州藩討伐の考えを一変させ、坂本龍馬との出会いを経て、薩長同盟を結んだ。 武力による倒幕の準備を着々と進める大久保と西郷に対し、慶喜は起死回生の一策「大政奉還」に打って出たが、トップリーダーとしての限界も露呈。意に反して薩摩藩と対峙することになり、戊辰戦争へと発展した。

 

 

その後、西郷は江戸城無血開城を実現。大久保は明治新政府の基礎固めに奔走し、版籍奉還、廃藩置県などの改革を断行した。そして大久保は「岩倉使節団」の一員として、人生初の欧米視察に出かけ、その豊かさに衝撃を受けて帰国する。 ところが、大久保が留守の間、政府は大きく変わっていた。帰国した大久保と西郷は朝鮮への使節派遣をめぐって対立し、西郷は下野。同じく下野した江藤新平は「佐賀の乱」の首謀者となった。大久保は現地に赴き、佐賀の乱を鎮圧する。次に大久保が進めた「台湾出兵」でも粘り強い交渉の末、清から賠償金を得た

 

 

 

 

 

 

■とにかく働く大久保利通 

 

 いったい、どうしたら1人の人間がこれほど働くことができるのか。西郷隆盛が下野してからの大久保利通の活躍を思えば、多少のことでは「忙しい」とは口にできないだろう。  内務卿として権力を自分に集中させ内政を固めながら、佐賀の乱が起これば、自ら鎮圧に乗り出し、一方では台湾への出兵を準備。政敵だった江藤新平を抹殺したならば、今度は全権を担って清にわたり、相手の国を相手どって鬼気迫る交渉を重ねていく。その結果、台湾出兵を「義挙」と認めさせて、賠償金まで勝ち取っている。

 

 

 その後は、独断で出兵に踏み切った西郷従道のいる台湾へ。説得が必要かと思いきや、従道にも大久保の並々ならぬ決意が伝わったのか、あっさりと撤兵を受け入れている。このときに大久保は、戦病死者の墓標が傾いているのを見つけると、1つひとつ立てて、直していったという。  誇るべき仕事をしながらも、大久保はすっきりしなかった。  和平にあたってイギリスを頼ったことや、要望より少ない賠償金で解決させたこと、そして、そもそも、清と戦争をしなかったことに不満を持つ者たちもいるだろう。精いっぱいのことはやったが、これがベストだったかどうかは、自分にもわからなかった。

 

 

 

 だが、意外にも、批判を覚悟して横浜に上陸した大久保を待ち受けていたのは、日の丸を掲げた国民の歓喜だった。  大久保は日記にこう綴っている。  「人民の祝賀や天皇からの厚き御待遇、まさに一世一代の名誉であり、感泣するばかりだ」 大久保の外交がどこまで国民に理解されていたかはわからない。お迎えも政府の動員に応じただけかもしれないが、「終生忘れられない日」と大久保は素直に受け止めている。  あるべき国のビジョンを描き、それに突き進んでいても、なかなか関係者以外には理解されないものだ。それだけに思わぬ光景が目に入って、冷静な大久保も感極まったのだろう

 

 

 

■江藤新平や清よりも厄介な存在「島津久光」

 

  何かと自分の邪魔をするライバルの江藤新平も、理屈をも力でねじふせようとする大国の清も、大久保にとって難敵ではあったが、長年の経験から少なくとも「負けない自信」はあったに違いない。  今すぐに組み伏すことができなくても、勝負を投げさえしなければ、どこかの道から局面を打開できる。大久保の粘り腰は、こんな確信に裏打ちされていたように思う。  しかし、大久保からすれば、本当に厄介で、気が重い問題はほかにあった。薩摩藩の国父・島津久光である。

 

 

 

 久光がいなければ、大久保は世に出ることはなかったかもしれない。幼少期、先輩の西郷が薩摩藩藩主の島津斉彬に気に入られてどんどん出世するのを見て、大久保は斉彬の弟、久光のほうに近づいた。  突破口となったのは、趣味の囲碁だ。久光の信頼を少しずつ勝ちとりながら、一歩でもそばに近づけるように全身全霊で仕えて、久光もそんな大久保を重用した。そして2人して薩摩から飛び出して、中央政治へと乗り出していったのだ。

 西郷が斉彬を生涯敬愛したように、大久保だって本当は自分を引き上げてくれた久光を慕い続けたかっただろう。そのほうが物語としても美しい。  しかし、改革半ばで病死した斉彬は理想化できても、いまでも薩摩藩で影響力を振るう久光は、改革を担う大久保にとって乗り越えるべき存在だ。かつての関係性はとうに崩壊し、自分は憎悪の対象にすらなっていた。 

 

 

 

 

■西郷隆盛に東京へと連れ出されていた島津久光

 

 明治政府が廃藩置県という大改革を成し遂げた後、一番大事な時期に大久保が、岩倉使節団として海外に行ったのは、久光から逃げたかったというのもあるだろう。事実、留守政府を任された西郷は久光から責め立てられて、呼び出された挙句に、罵倒されている(第38回『明治政府の中枢、西郷隆盛でも制御不能な男の正体』参照)。

 

 

 

 西郷が、これまで関心を示さなかった朝鮮との問題にいきなり目を向け始めて、使節になることを望んだのも、久光からのプレッシャーで体調を壊し、死に地を探していたのではないか……そんな説さえ唱えられているくらいだ。  

 

ターゲットとなった西郷が下野した今、久光の憎悪は大久保へと向けられていた。しかも、久光はこのとき東京にいた。薩摩藩で影響力を高められると危険なので、西郷が東京へとなんとか連れ出したのだ。東京に来させる口実として、久光には麝香間祗候(じゃこうのましこう)という名誉職が命じられている

 

 

 

 

しかし、不満分子は目の届かない地元にこもらせても危険だが、中央にいたらいたでややこしい。西郷が下野した政変後には、久光には内閣顧問という肩書が与えられた。引き続き、東京にとどめおくための形式的な役職である。  それにもかかわらず、久光は明治政府に対して、さまざまな意見を打ち出していく。久光の主張はわかりやすい。それは「維新前の風習に戻すこと」。開化政策などもってのほかと、封建制の復活を主張したのである。

 

 時代に逆行する建議に最も抵抗を示したのは、ほかならぬ大久保だった。岩倉に相手にしないように伝えただけでは事足りず、「まるで子どものような態度で困ったものだ」と批判している。  

そんな冷ややかな態度は往々にして本人にも伝わるもの。久光は辞表を出して、鹿児島へと帰ろうとする。また鹿児島にこもられては困ると、岩倉らがあわてるなか、大久保だけはこう言い放った。  「激怒しても何の問題もありません。鹿児島へと帰りたいというならば、許してあげればよいでしょう」

 

 もう、うんざりだ。好きなようにするがよい。珍しく投げやりな大久保だったが、それはまずかろうと周囲のほうが焦りを募らせる。なんとか政権内に取り込もうと、明治7(1874)年、久光には左大臣の地位が与えられることとなった。 

 

 

 

 

■久光の止まらない暴走にうんざりして辞表提出

 

  島津家にとっては初めて政治の表舞台に立ったことになる。久光がますます張り切ったことは言うまでもない。  このときは、ちょうど大久保が江藤新平を討伐し、台湾出兵を追認したころである。これから清と戦争になるかもしれない。そんな国難のときに、久光は礼服や兵制を以前のように戻そうと、場違いな主張し始めた。さらに建白書に、久光はこう付け加えたのである。

 

 「もし、大久保が反対したならば、彼を免職すべし。そうでなければ、自分が辞める」  大久保か久光か――。政府がどちらをとるかといえば、いなくなられたら困るのは、大久保に決まっている。久光の手の付けられようのなさが、よくわかるエピソードだろう。伝えに来た岩倉に大久保は「今さら驚くことでもありますまい」と返答したというが、内心は我慢の限界だった。そのあと、久光のもとへと直談判に向かっている。  たとえ、立場が逆転したとしても、かつての主君といざ対面すれば、従っていたころの空気に少しは戻ってしまうものだ。だが、大久保はこのときに、久光と真っ向から対立。落とし所はみつからず、大久保は「やってられない」と、後日に政府に辞表を叩きつけている

 

 

 

結局、木戸孝允が間に入り、大久保は辞さずに終わった。だが、大久保にとっては、大きなターニングポイントだったに違いない。  自分を倒そうとするならば、遠慮はしない――。その後、久光は板垣退助と結託して、政府の方針に抗うが、このとき清との交渉も成し遂げた大久保には、勢いがあった。明治8年、大久保は板垣もろとも久光を政権外へと追い出している。  左大臣を辞職後、久光は鹿児島に帰ると、歴史書の編さんに着手する。もともと歴史好きだったので、よほど没頭したようだ。久光の執筆活動は西南戦争中も続行されたという。

 

 

 

 

■国家を背負う覚悟はあるか?

 

   政敵の江藤新平、大国の清、そして、恩人で頭が上がらなかった久光……。厄介な相手に大久保は真正面からぶつかっていった。  自分1人で背負っていく――そんな政治家としての姿勢は、大久保のこんな言葉にもよく現れている。  「われ1人を持って国家を維持するという覚悟がなければ、堅忍耐久して大志を成すことなどできない」  やるとなれば徹底的にやる。それが、時に大久保が冷酷といわれるゆえんかもしれない。しかし、その決断と実行力こそが、新しい時代を構築するには、もっとも求められることだった。

 (第47回につづく

 

権力握った「大久保利通」でも扱いに頭を抱えた実力者の正体 「まるで子ども」なのに無視できなかった男とは?(東洋経済オンライン) - Yahoo!ニュース