映画になってほしいくらいの、経験です。
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一家6人、徒歩125キロの危険な旅 マリウポリ脱出
ウクライナ南部ザポリージャの鉄道駅でポーズを取る南東部マリウポリから徒歩で避難してきた一家。
(後列左から)イワン君、テチアナ・コミサロワさん、エウヘン・ティシチェンコさん、
(前列左から)ユリヤちゃん、アンナさん、オレクサンドル君(2022年4月22日撮影)。
【AFP=時事】
ロシアの爆撃で壊滅的な被害を受けているウクライナ南東部の港湾都市マリウポリ(Mariupol)。エウヘン・ティシチェンコ(Yevgen Tishchenko)さん(37)とテチアナ・コミサロワ(Tetiana Komisarova)さん(40)夫婦は、6~12歳の子ども4人を連れて、故郷を脱出する方法は一つしかないと覚悟を決めた──徒歩だ。 【写真12枚】マリウポリから避難してきて列車に乗り込む一家
一家は22日、南部ザポリージャ(Zaporizhzhia)で西へ向かう列車を待つ間にAFPの取材に応じた。涙と笑いを交えながら、安全を求めて歩いた125キロに及ぶ奇跡の旅路を振り返った。
夫婦は出発の数週間前から、ユリヤちゃん(6)、オレクサンドル君(8)、アンナさん(10)、イワン君(12)に、この先に待ち受ける旅の危険を説いた。「地下壕(ごう)にいた2か月間、これからどこへ行くかを説明した」とテチアナさん。「子どもたちは、冒険だと捉えていた」
今月17日、ついに動く時が来たと判断した。
エウヘンさんとテチアナさんは緊張しながら、子どもたちを先導してアパートを出た。家族そろっての外出は、2月24日のロシアの侵攻開始以来、初めてだった。
目の前に広がっていたのは、破壊の限りを尽くした恐ろしい光景だった。
地下室を抜け出して水や食料の調達に出ていた大人たちは、何が待ち受けているのか予期していた。だが、子どもたちは、砲弾の直撃を受けるアパートの地下にずっと隠れて暮らしていた。
「周囲を見た子どもたちは、黙って歩いていた」とエウヘンさんは話した。「何を考えていたのかは、分からない。私たちと同じく、故郷の街がなくなってしまったことが信じられなかったのかもしれない」
■「どうしてロシアへ行かないんだ」
避難の旅は出だしから「大変だった」とアンナさん。「自分で荷物を運ばなければいけなくて、とても重かった」
初日にエウヘンさんが3輪の台車を見つけてからは、ずっと楽になった。一家は、さびてきしんだ音を立てる台車を「黄金の荷車」と呼んだ
「妻が末娘の乗った三輪車を押し、私は荷物を載せた台車を押した。荷物の上に子どもの1人が座ることもあった」とエウヘンさん。残る2人の子どもはエウヘンさんと並んで歩いた。
4泊5日の旅の間、一家はロシア軍の検問所を幾つも通過した。ロシア兵には、親戚のところに向かっていると説明した。敵視はされず、手を貸そうとさえした。ただ、「どこから来た? マリウポリから?なぜこっちへ行くんだ。どうしてロシアへ行かないんだ」と毎回問われたという。
夜は、道路沿いの民家に泊めてもらった。受け入れてくれた地元の人は、十分な食事も用意してくれた。
日中は、何があろうと先へ進んだ。
ザポリージャから約100キロ離れたロシア軍の占領下にある町ポロヒ(Polohy)を歩いていた時、一家に幸運がほほ笑んだ。野菜を売りにザポリージャへ向かう途中のドミトロ・ジルニコフ(Dmytro Zhirnikov)さんが、車を止め、声を掛けてくれた。
125キロ歩いてきた一家の旅は、ジルニコフさんの古い小型トラックで終えた。
ジルニコフさんは、一家がロシアの支配地域を脱出してウクライナ兵を見たときの喜びようをよく覚えている。「一つ目の検問所を通過すると、みんな泣き出した」
「私たちが目指したのは、子どもたちがウクライナで暮らせるというたった一つのことだ。この子たちはウクライナ人だ。他の国で暮らすなんて考えられない」とテチアナさんは強調する。
一家は22日、わずかな私物と共に、西部リビウ(Lviv)行きの満員列車に乗り込んだ。西部の都市イバノフランコフスク(Ivano-Frankivsk)に移り住み、生活を立て直そうと考えている。
「経験したことは決して忘れられないし、忘れてもならない。けれど、元気を出して、子どもたちを育てていかなければ」とエウヘンさん。
アンナさんは、地獄と化したマリウポリから逃れた後の素朴な願いを口にした。「あんなふうじゃない町で暮らしたい。もちろん、ウクライナで」 【翻訳編集】 AFPBB News
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