「プーチンは“ウクライナ戦争”で何を目論んでいるのか」歴史学者ニーアル・ファーガソンが読み解く
これを読めば、1938年のナチス・ドイツによるオーストリア併合のような形でプーチンがウクライナを獲ろうと考えていることは一目瞭然だった。それに、その論文が発表される前から、ロシアは約10万人の兵力をウクライナの北と東と南の国境付近に展開していた。
最近のニュースを読んでいると、イギリスの歴史家A・J・P・テイラーの*が心に蘇り、嫌な気分になってしまう。この本は、テイラーがトレードマークの皮肉をたっぷり利かせた散文で、宥和政策から戦争に至るまでの1938〜39年、外交の各段階をたどったものだ。
プーチンからの「最後通牒」
プーチンはこの1年間、ロシアの安全保障に関して「越えてはならない一線」を示し、その線を越えたら「非対称的な措置をとる」と繰り返し警告してきた。
2021年11月30日にも、プーチンは「ウクライナの領土内にある種の攻撃システムが現われたら、我々も自分たちを脅かすものと同様の何かを作らざるを得なくなる」と発言している。
ロシアは2021年12月17日にも、最後通牒(つうちょう)同然のものをアメリカと北大西洋条約機構(NATO、1949年の設立以来、欧州の安全保障の要を担う)に突きつけた。
ロシアが公表したのは、米露の二国間条約の草案とNATOとの多国間協定の草案だった。ロシア側のおもな要求は次の6つだった。
1. NATOはウクライナなどを新規に加盟させることを止める。
2. アメリカとNATOはロシアの領土が射程圏内に入る位置に中短距離ミサイルを配備しない。
3. アメリカは自国の外に核兵器を配備しない。
4. NATOは、1997年5月にロシアと結んだいわゆる「基本文書」以降の加盟国に部隊や兵器を展開してはならない。これにはポーランドを始めとした旧ワルシャワ条約機構のすべての国のほかに旧ソ連のバルト三国も含む。
5. NATOは旅団規模(3000~5000人)を超えた軍事演習も、合意された緩衝地帯での軍事演習もしてはならない。
6. アメリカは旧ソ連諸国とは軍事的に協力しないことに同意しなければならない。
ロシアは「西側」に何を要求しているのか?
ロシア側の要求の一部について言えば、現状では失効しているものの、かつてNATOとロシアの間にあった安全保障上の取り決めを復活させようとするものだ。
たとえば、短中距離ミサイルの配備禁止は、アメリカが2019年にロシア側の違反を指摘して失効させた中距離核戦力全廃条約の復活とほぼ同じと言える。
旧ワルシャワ条約機構の国々にNATOの部隊を展開しないというのは、NATOとロシアが25年前に交わした、いわゆる「基本文書」の内容をもう一度確認するものだ。
NATOはロシアが2014年にクリミアを併合した際、この基本文書の一部を凍結したが、現在でもこの基本文書を廃したわけではなく、東欧に部隊を常駐していない。
ロシアが要求する軍事演習の制限も、ロシアが2007年に履行停止をしたヨーロッパ通常戦略条約に似ていると言っていい。
しかし、NATOは2017年から「強化された前方プレゼンス」政策のもと、エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランドにそれぞれ約1100人の部隊を「ローテーション」させてきた(この「ローテーション」という語句にこだわったのはドイツであり、そこには「基本文書」に明確に違反することは避けたいという狙いがある)。
仮にこのローテーションを終了させるならば、それはロシア政府に対する大きな譲歩と言えるだろう。
プーチンが準備しているのは何なのか?
ロシアの要求のなかには明らかに無理難題としか言えないものもある。NATOは2008年、ウクライナとジョージアに対し、将来的に加盟できることを約束した。その約束の撤回は非常に考えにくい。
仮にバイデンがロシア側の要求を受け入れたくても、アメリカ連邦議会がそれを許さないのはほぼ確実であり、連邦議会だけで軍事援助の法案を通す可能性もあるだろう。
また、NATOの根本原理は、加盟国内での核兵器の共有だ。アメリカに対し核兵器を国外に配備するなというロシアの要求は、その根本原理をひっくり返すことを求めるような無茶な話だ。
総合的に見れば、ロシアが求めるのは「新しいヤルタ協定」とでも言うべきものだろう。それは1945年のヤルタ協定と同じで、東欧の旧ソ連諸国全体をロシアの勢力圏に組み込み、旧ワルシャワ条約機構の国々の安全保障も弱めるものだ。
そんな要求に対して話し合いに応じるべきなのは、ロシア側がその代わりに何か大きなオファー、たとえばウクライナ領からのロシア軍全軍撤退などを提案してくるときだけだ。
しかし、いまのプーチンに譲歩の意図はない。プーチンが準備しているのは開戦事由なのだ。
「ロシアは怒っていない。集中しているだけだ」
プーチンは2021年12月23日、毎年末恒例のマラソンのように長い記者会見をし、たとえロシアの安全保障に関して「越えてはならない一線」を越えないという保証を書面で得たとしても、ロシアはアメリカを信じられないと語った。プーチンに言わせれば、これまでのNATO拡大で「あからさまにウソをつかれてきた」からだ。
「ロシアの玄関先」にアメリカの攻撃用の兵器が配備されるのは、ロシアの攻撃用の兵器がカナダやメキシコに配備されるようなものだとも言ってきた。
記者のひとりがロシアは怒っているのかと質問すると、プーチンは19世紀の帝政ロシアの外交官アレクサンドル・ゴルチャコフの言葉を引用してこう言った。
「ロシアは怒っていない。集中しているだけだ」
この場合での「集中」は、「兵力の集中」という意味で受け取るべきだろう。
プーチンはソ連復活を目論んではいない
西側諸国の評論家たちがよく犯す間違いがある。それはプーチンが2005年にソビエト帝国の崩壊について「20世紀最大の地政学的大惨事」と発言したことに注目し、プーチンの目標はソ連の復活だとすることだ。
なるほどプーチン政権が「メモリアル」という団体に容赦なく対処したところなどを見ると、プーチンがいまだにスターリンの邪悪な影に多少の忠誠心を抱いているかのように見える。
この「メモリアル」という団体は、ソ連というシステムの犯罪の証拠を残し、数百万人の被害者の記憶を目的とした組織だったが、2021年12月末、モスクワの裁判所によって閉鎖を命じられた。閉鎖の理由は、この団体が外国のエージェントであることを公にしていなかったというもっともらしいものだった。
検察官のアレクセイ・ザフィアロフは判決を前にこう言っている。
「メモリアルはソビエト連合がテロ国家だったという誤ったイメージを作っています。ソ連時代を栄光の歴史と記憶すべきなのに、悔い改めるべき過去としているのです。しかも誰かからお金をもらって、そんな活動をしているのです」
スターリン時代をマジックリアリズムの手法で忘れがたく描き出した作品に、ミハイル・ブルガーコフの*がある。前述の検察官ザフィアロフなどはこの作品に端役として登場しそうなのは間違いない。
だが、プーチンが仰ぎ見るのはスターリンのソ連ではない。プーチンが意識しているのは、ピョートル大帝時代の勃興期のロシアなのだ。
そのことはプーチンが2019年に英国の経済紙「フィナンシャル・タイムズ」の編集長(当時)ライオネル・バーバーからインタビューを受けた*を読めばはっきりしている。
バーバーは「閣議室にある儀式用の机の上には、先見の明を持ったツァーリ(皇帝)のブロンズ像がそびえ立っていた」と書き、プーチンの「お気に入りの指導者」はピョートル1世だとしているのだ。
実際、プーチンはインタビューでこう語っている。
「彼(ピョートル大帝)が掲げる大義が生き続けるかぎり、彼も生き続けるだろう」
戦争は必ずしも強者が始めるわけではない
これこそが現代ロシアのツァーリ「ウラジーミル大帝」を鼓舞する歴史なのだ。それはスターリンの恐怖政治時代の暗い歴史ではない。
それにウクライナ人の心では、スターリンの恐怖政治時代といえば、ホロドモールという農業集団化という名目で引き起こされた人工的飢饉による大虐殺と結びついている。
ピョートル大帝の歴史を振り返ってわかるのは、ロシアがヨーロッパの列強として台頭していくうえで、いまウクライナとなっている土地で勝利したことが、いかに決定的だったかということだ。この土地がいまと同じように18世紀前半も係争地だったこともわかる。
ピョートル1世の後継者を自任するプーチンは夢想家と言うべきだろうか。必ずしもそうとは言い切れないだろう。
ロシアの人口は縮小していると言う人がよくいるが、これは間違いだ。実際にはロシアの人口は2009年から2020年まで毎年、増加しているのだ。たしかにロシアのGDPは韓国を下回り、アメリカのGDPのたった20%でしかない。
だが、第二次世界大戦が勃発した当時の侵略国の経済規模を見てみよう。イギリスの経済史家アンガス・マディソンの試算によれば、当時のソ連のGDPはアメリカの約半分、ドイツはアメリカの43%、日本は24%、イタリアは18%だった。戦争は必ずしも強者が始めるわけではないのだ。
“ウクライナ戦争”はどんなシナリオがありうるか?
いずれにせよプーチンは1939年とは異なり、ウクライナの畑に戦車の列を走らせて戦争を始める必要はない。そのような全面的な地上侵攻は数ある選択肢のひとつに過ぎない。
ウクライナの黒海沿岸部に水陸両用作戦を仕掛けたり、ウクライナ国内の主要な標的に精緻な空爆やミサイル攻撃を仕掛けたりするのも可能性としてある。ウクライナ東部の民兵組織の兵器を拡充して、民兵組織が持つ領土を拡大することもできるだろう。
あるいは大規模なサイバー攻撃を仕掛けて、ウクライナの通信やインフラを麻痺させることも可能だ。ロシアの近年の戦争(2014年以降のウクライナでの戦争や2015年以降のシリアでの戦争)を見ると、いずれも着実に段階を追ってエスカレートしている。
奇襲による大規模な侵攻はしていない。ロシア軍の電撃戦は、2008年のジョージアとの戦争まで遡らなければならない。しかし、あのときも戦争は5日間で終わり、ジョージアの首都を攻め落とすことはなかった。
西側諸国はウクライナの頼りにならない?
自分たちの国を守るために闘うウクライナ人の若者が数多くいることは疑いようがない。だが、支援を受けなければ、彼らに望みはほぼないだろう。そして不幸なことに、いまは誰も彼らに助けの手を差し伸べようとしていないのだ。
ウクライナ政府は、もう何年も前からEUとNATOへの加盟を求めてきた。ウクライナの外務大臣ドミトロ・クレーバも2021年の8月と12月に外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」でその要望を繰り返し述べてきた。
ウクライナは2021年6月、ブリュッセルで開催されたNATO首脳会議でNATO加盟行動計画に招待されると願っていた。だが、その招待が来ることはなかった。
ウクライナ政府が受けた打撃はもうひとつある。バイデン政権が、ロシアとドイツを結ぶ総事業費110億ドル(約1兆3000億円)の天然ガス・パイプライン「ノルドストリーム2」の事業会社に制裁をかけるのを断念したことだ。
ウクライナを迂回するこのパイプラインはすでに完成しているが、まだ稼働はしていない。だが、稼働が始まれば、ウクライナは通行料として得ていた毎年20億~30億ドル(約2300億〜3500億円)の収入を失うことになるのだ。
「ロシアが天然ガスの供給を止めたら、もっとも影響を受けるのはこの国だ」──英誌の予測
ウクライナはジョージアやモルドヴァとともに、次のEU拡大の一部になりたがってきた。だが、EUに本格的な加盟プロセスを急いで始める様子はない。
ウクライナがEUになかなか加盟できないのはなぜか?
EUがウクライナの加盟申請のプロセスを進めようとしない名目上の理由は、ウクライナがまだ次のコペンハーゲン基準を満たしていないからだという。
1. 民主主義、法の支配、人権、マイノリティの尊重と保護を確保する安定した体制を有していること。
2. 市場経済が機能しており、EU内の競争圧力や市場の力に対応できる能力があること。
3. EU法を成すルール、基準、政策を効果的に実施できる能力があり、政治同盟・経済同盟・通貨同盟としての目的を順守すること。
これに対し、ウクライナは、ルーマニアやブルガリアも加盟交渉が始まった2000年の時点でも加盟前年の2006年の時点でも、これらの基準を満たしていなかったではないかと文句を言ってきた。たしかに、その文句に理がないわけではない。
またEUに加盟しているハンガリーが、NGO「フリーダム・ハウス」の政治的自由度ランキングでウクライナにかなり近いところまで下落していることもウクライナ人は見逃していない。
だが、これはEUの対応が遅くなっているもうひとつの理由だとも言える。近年、EUではハンガリーのオルバン首相の評判が非常に悪い。
欧州諸国の指導者や高官は、いまウクライナを加盟させると、EU圏内に反自由主義の専制国家同然の国がもうひとつ増えてしまい、ハンガリーやポーランドといった、ポピュリズム勢力が強い国々が結集して、(社会問題に対して意識が高い)ウォーキズムに入れ込む欧州委員会に歯向かってくるのではないかという心配が出てきているのだ。
西側諸国はロシアにどんな制裁を科すのか?
仮にプーチンが軍事行動に出たとしても、ウクライナが西側諸国から得られる軍事援助が微々たるものとなることははっきりとしている。
バイデンは2021年12月8日、米軍の派兵を検討しないと明言した。また、プーチンを挑発することを恐れて、ウクライナ政府への軍事援助も遅らせてきた。
それではバイデンが2021年末の米露首脳電話会談でプーチンに伝えた「ロシアがさらにウクライナを侵略するならば、アメリカは断固とした対抗措置をとる」とは、何を意味していたのか。
その問いの答えは2014年と同じだ。暴力には経済制裁が科されるということだ。
2021年12月7日、アメリカ国務次官(政治担当)のヴィクトリア・ヌーランドが、アメリカとEUは「1日目の対策、5日目の対策、10日目の対策など」を準備していると議会で証言している。制裁の具体的な内容については明かされなかったが、「ロシアがグローバルな金融システムから完全に切り離されることになる」とのことだった。
具体的には、おそらくノルドストリーム2の計画を停止させ、セカンダリー市場でのロシアのソブリン債に制裁を科し、(ロシア貯蓄銀行といったロシア最大の銀行を含む)国有銀行に制裁を科し、ルーブルとドルの両替に制限をかけ、ロシアを国際銀行間通信協会という銀行間の国際決済に使われる主要なシステムから排除することなのだろう。
これは2014年に科された制裁よりもはるかに厳しい。だが、ロシアに深刻な影響を及ぼす措置のすべては、西側諸国にも連鎖反応で深刻な影響が出る。ロシアがそのことを知らないはずがない。
ロシアに経済制裁は効かない?
2018年、ロシアのアルミ大手「ルサール」に制裁が科されたが、世界のアルミニウム市場に衝撃が走り、結局、アメリカは制裁を解除せざるをえなくなったのだ。
一次産品を輸出するロシア企業に制裁を科すと、単にロシアに大きな損害が出るだけでなく、ほかの国々にも大きな損害が出る。
アメリカはロシアの石油企業「ロスネフチ」をアメリカ財務省の特定指定国籍業者のブラックリストに入れられるが、そんなことをすれば、バイデン政権の悩みの種となっているインフレ問題を悪化させるだけだ。
メディアではノルドストリーム2への制裁の可能性が盛んに報じられているが、これは比較的ささいな問題であり、ロシアの天然ガス収入にさほど大きな影響を及ぼすことはない。
また、ロシア政府の外貨準備高は6200億ドル(72兆円弱)あり、公的債務残高も対GDP比でたったの18%、今後2年は財政黒字になる計画なので、セカンダリー市場でソブリン債が制裁の対象になっても持ちこたえられそうな状況だ。
西側諸国の戦略の弱点は、いうまでもなくEUがロシアの天然ガスに依存していることだ。2020年にEUが輸入した天然ガスのうち、ロシア産が全体の43%を占めている。
フランスのエマニュエル・マクロン大統領とドイツのオラフ・ショルツ首相は先日、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領とブリュッセルで会談し、いつものごとく、ロシアがウクライナに軍事行動をとれば、「非常に重い結果」と「深刻な損害」が出ると話をした。
だが、そのような強がった話をしても、ショルツの場合、首相になって最初の演説で打ち出したのが、新しい「東方外交」だったのだから効果はないに等しい。
「東方外交」とは、西ドイツのヴィリー・ブラント首相が冷戦時に打ち出した外交政策で、東ドイツやポーランドやソ連といったソ連圏の国々との関係を正常化しようとした政策のことだ。
戦争が起きやすい場所
いま勃発寸前の「とても喜ばしいとは言えない大北方戦争」は、いろいろな意味で非対称的になるだろう。ロシアの兵力はウクライナの国防力を圧倒するに違いない。そんな軍事行動に対し、西側諸国は経済制裁を科すことで対応するだろう。
だが、この経済制裁は、アメリカよりも欧州諸国に大きな損害をもたらすはずだ。ロシアにも損害は出るが、プーチンに軍事行動を抑止させるほどは大きくない。
要するに、いまの状況ほど「ウラジーミル大帝」が大胆な一手を繰り出すのに都合がいいときはないのだ。外交の長談義を数週間続けてもそこは変えられない。
戦争が迫っているのではないかと私は不安を抱く。ウクライナとその周辺地域は、戦争が起きやすい場所なのだ。
イェール大学の歴史家のティモシー・スナイダーは、この地域をいみじくも「ブラッドランド(流血地帯)」と呼んだ。それは1930年代と40年代にこの地域で起きた残虐行為を念頭に置いた命名だった。
しかし、その歴史はいまウラジーミル・プーチンの頭で最も意識されている歴史ではない。プーチンがポルタヴァで凱旋行進をすることになっても驚いてはならな