高梨沙羅を失格にした審判員「彼女たちのことは何年も前から知っている」…日本人元五輪審判員は疑問「なぜ五輪で5名も違反になる?」
五輪初種目としても注目されたスキージャンプ混合団体。しかし、「スーツ規定違反」を理由に4カ国5人の女子選手が失格処分を受ける異常事態となった photograph by Getty Images
安らぎは、手のひらに落ちた雪のように束の間だった。 2月7日に行われたスキージャンプ混合団体の1回目、日本の1番手で登場した高梨沙羅は103mの大きなジャンプを見せた。点数が表示されて、ホッと微笑んでカメラに手を振る。今大会でテレビを通じて見ることができた、結果的に唯一と言ってもいい高梨の笑顔だった――。
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長く葛藤してもがき続けた4年間は、そんな一瞬笑うためだけのものだったのだろうか。そうじゃなかったはずだ。思い出すたび胸が締めつけられるような刹那の笑顔だった。 2日前の個人戦ではメダルを逃して失意の4位。「もう私の出る幕じゃないのかもしれない」と思いつめていただけに、チームに大きく貢献できたこのジャンプには本人も救われる思いがしたはずだ。《もっとちゃんとテレマークを入れなきゃいけないな》と、くだけた感じで両手を横に広げる姿。心の余裕も少し取り戻して、高梨はマテリアルコントロールと呼ばれる用具の検査ルームに向かっていった。 しかし、すべてが暗転した。
元ヘッドコーチも衝撃「なんで今ここで、というのが…」
次にテレビに映し出されたとき、さっきまで笑っていた彼女はもういなかった。凍える寒さの中、うずくまって、小さくなって、泣いていた。あまりに打ちのめされて、ドイツチームのスタッフに差し出された涙を拭くためのティッシュも受け取れないほどだった。 スーツの規定違反による失格。信じたくないような、悪夢。 「なんで今ここで、というのがまず思ったことです」 日本で見守っていた小川孝博にも衝撃の展開だった。前回大会まで高梨らと一緒に世界を転戦し、五輪を戦ってきた女子代表の前ヘッドコーチだ。 「(個人戦に出場していた)勢藤(優花)とかと話をしても『なんで、今? 』っていうのが現場の雰囲気だったみたいです。選手は常に特注のスーツを何着も持っていて、その中の2つ、3つを会場に持ってくる。完璧にフィットしていなければ、その箇所を詰めて合わせたりもします。その選手の体に合わせてすべて規定内で作ってますから。まあ、規定のギリギリではあるんですが……
ジャンプのスーツはどう“検査”されているのか?
ジャンプを飛んだ後、ランダムに選ばれた選手はエクイップメントの検査を受ける。スーツは体に対して男子なら1~3cm、女子は2~4cmのゆとりを認められている。 「どう計測するかというと、足周りであれば膝や腰骨から下に何cmというふうに位置を決めて、まず体に線を引いて、そこでぐるりと実寸を測るんです。スーツには腰骨にかかるところに帯がある。そこから同じように何cm下に、と測った上でスーツの外周を測ります。そこで規定以上にスーツのサイズの方が大きいと失格ということになりますね」 腕周りは壁に背中をつけて立った上で手を水平に伸ばし、脇の下から手首の小指側にあるぽこっと出た骨までの長さを測定。あらかじめ登録していた数値より長くなっていないかを確認する。 ジャンプを飛ぶ前にチェックするのは股下になる。リフトを上がった後にスタートの待機場所付近で測り、申請してある数値よりも長ければ問題なし。もし短ければスーツをずり下げて浮力を得ようとしている可能性があるため、修正が求められる。 高梨が足りなかったのは太もも周りの2cmだったという。 日本代表の横川朝治ヘッドコーチは「寒さが厳しくて十分に筋肉がパンプアップできなかった」と語り、鷲沢徹コーチは体重減少の可能性を指摘していた。どちらもあり得る事態だと小川は言う。 「実寸を測るときは、力を入れている状態と入れてない状態では筋肉の盛り上がり方が違うから当然サイズが変わってきます。それがうまくいかなかったのかもしれません」 スキージャンプでは身長と体重によって使用できる板の長さまでも厳密に決められている。 「だから体重もみんなギリギリで調整しているんです。リフトに乗る直前に水を飲んで体重を合わせて上がっていくこともある。筋肉量が減れば実寸も減りますから。そういったところまで当日のボディチェックを(自分達で)するというのは、ルールがある以上やらなきゃいけないことですけど、完璧に把握することは実際には難しい。一方で人間が測るので、スーツを斜めに測ってしまえば1cmぐらい長く測れてしまうこともありえると思いますよ
いくら厳しくても…5人も失格の“異常事態”はどう見る?
ただし、この日の試合は、高梨だけでなく個人戦銀メダルのカタリナ・アルトハウス(ドイツ)ら次々と失格者が出る異常事態となった。この日失格となった4カ国5人の選手はいずれも女子選手。高梨がそうだったが、おそらく他の選手も個人戦で使用したスーツ、もしくは同型のものを着用していたはずだ。 今回、女子の検査はポーランドのアグニエシュカ・バチコフスカが担当した(男子と担当が分かれているのは、脱衣して計測する必要があるため)。バチコフスカは試合翌日、母国の大手スポーツウェブメディア『SPORT.PL』のウカシュ・ヤヒミアック記者のインタビューに答えている。 ヤヒミアック「おはようございます! Mrs.アグニエシュカ “ジレット”」 バチコフスカ「それって私のあだ名? (笑)」 ジレットは、あのカミソリメーカーのこと。切れ味鋭い裁定は母国メディアからも“深剃り“すぎると感じられたのだろう。五輪初採用だった混合団体の興を削いだことは否めないからだ。 インタビューの中でバチコフスカは、大量失格の理由はあくまでルールを厳正に適用した結果だと説明した。 「選手が守るべきルールがある。私の仕事はそれを適用すること。個人戦では全選手が検査を受けたわけではありません。1回目に40人、2回目に30人全員をチェックするのは物理的に不可能。だから検査されなかった選手がいました。その時の検査で問題がなかったから今回も大丈夫だろうと思っていた選手もいたかもしれない。でも、残念ながらそうではなかった」 号泣していた高梨についても問われ、直接的な言及は避けながら答えた。 「もちろん失格がないことが一番。彼女たちのことは何年も前から知っている。マテリアル検査で失格になることを伝えるのは本当に心苦しい。選手たちには申し訳なく思うし、五輪でそれが起きたことは残念だけど、それが私の仕事。どのチームも限界ギリギリを攻めて、チャンスを掴もうとする。それがもし行き過ぎてしまったら、失格になるしかない
平昌五輪の審判員も「ちょっと……納得いかないというか」
「でも彼女個人の判断でなくて、今回は厳しく検査するようにというFIS(国際スキー連盟)内の判断があったんだろうと思うんですよ」 4年前の平昌五輪で飛型審判員を務めた西森勇二は、インターハイのために訪れていた小林陵侑の地元岩手で関係者と試合を見守っていた。高梨の失格にはやはり一同言葉を失ったという。 「ちょっと……納得いかないというか、なんでそんな風になるんだろうと。オリンピックという舞台で、なんで今まで検査を通っていたスーツがそんなに違反になるんだと。日本だけじゃなくてドイツ、オーストリア、ノルウェーと強豪国がこぞって失格になっている。どうなってるんだろうと思いましたね」
ジャンプ界で激化する“スーツ戦争”が背景に
ジャンプのスーツはF1の開発競争にも例えられるほど、サイズや素材、空気透過量など、厳密に定められたがんじがらめのルールの中、抜け道を探りながら新しいアイディアをひねり出し、少しでもアドバンテージを得ようとする“戦争“である。 たとえば、五輪直前のW杯でも、ドイツ代表監督のシュテファン・ホルンガッハーがポーランドの新しいブーツにクレームをつけたことで、同国の2選手が失格となり、その裁定をノルウェーが支持した。さらに、ホルンガッハーは日本の佐藤幸椰の板の幅にも抗議し、佐藤も失格となっていた。 そのホルンガッハーが今回は自チームの選手が失格に追い込まれる立場となって「これじゃパペットシアターみたいだ。理解できない」と裁定を非難する。そうしたつばぜり合いもまた日常の世界なのだ。 事後ではなく、股下検査と同じようにスタートの待機小屋に上がったところですべてのチェックをすればいいという意見もあるだろう。ただし、それでは時間的に間に合わず、実際にスタートするまでになんらかの細工を施すリスクも排除しきれないという。だからこそ、事後の抜き打ち検査が行われてきた。 西森は言った。 「許容範囲は決められているので、今回それを超えてしまったのは間違いないのでしょう。ただ、ノルウェーの選手が『普段と測り方が違っていた。手を水平でなく、頭の上に乗せて計測した』と言っているという報道も見ました。もしそうであれば、やはりなぜ五輪で、とは思います。今季のW杯のどこかでみんなに示しをつけておけばよかったのに」 女子の個人戦ではスーツ違反、板の長さ違反による失格者はそれぞれ1人ずつだった。それに比べると団体戦での5人のスーツ違反はやはり異常に映る。エクイップメント責任者のフィンランド人男性の”過剰介入”が指摘されるなど、試合が終わってもなお自体は混迷の度合いを深めている。「スキャンダル」とまで言われている今回の事態を経て、FISは近いうちになんらかの手を打っていく必要があるだろう。 「今回のことはこれからも波紋を呼ぶでしょうね。失格になった他の選手もそうですけど、沙羅も責任を感じてしまって辞めるとか言い出したら、かわいそうでならないですよ
高梨が繰り返した謝罪「皆んなの人生を変えてしまった」
西森がそう危惧してから数時間後、高梨はインスタを更新した。そこでは現在の心境を示すような真っ黒な画像とともに謝罪の言葉が繰り返されていた。 「私の失格のせいで皆んなの人生を変えてしまったことは変わりようのない事実です。謝ってもメダルは返ってくることはなく責任が取れるとも思っておりませんが今後の私の競技に関しては考える必要があります」 今回の大会前にインタビューしたとき、彼女はこう語っていたはずだ。 「人に何かを与えられるものがある限り、私は飛び続けたい」 失格の連発によって日本がまさかの2回目進出を果たしたとき、精神状態を危惧する周囲に対して高梨は自ら飛ぶことを願い出たという。 千切れた心をかき集めて、飛ぶ瞬間だけはカッと目を見開いて涙を止め、磨き上げたジャンプで見事に98.5mを飛んだ。同情も、憐憫も、そして称賛であっても今の彼女には慰めにはならないことを分かった上で思うのは、その強さには人の心を打つものがあった、多くの人の感情を揺さぶる力があった、ということだ。 痛切な投稿の最後に自らの名前を記した後、高梨はこんな思いを付け加えた。 「私が言える立場ではない事は重々承知の上で言わせていただけるなら、どうかスキージャンプとゆう素晴らしい競技が混乱ではなく選手やチーム同士が純粋に喜び合える場であってほしいと心から願います」 高梨もまたその喜び合える場に立っていていい。それに値する選手であると誰もが知っている。
(「オリンピックPRESS」雨宮圭吾 = 文
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