古代エジプト滅亡、潰えた「ファラオの夢」 暴動の歴史の裏に火山噴火?【歴史をひもとく】

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クレオパトラの死は過去2500年間で3番目に大きい噴火の後だった

クレオパトラを王座に戻すユリウス・カエサル。ピエトロ・ダ・コルトーナによる1637年の油彩画。リヨン美術館所蔵。(NICO TONDINI/GETTY IMAGES)

 

 

 

 今からおよそ2300年前、古代エジプトでは暴動や領土をめぐる争いが絶えなかった。王座に君臨していたプトレマイオス朝の一族がマケドニア(ギリシャ)系王朝だったため、民族的緊張がその一因だったともいわれている。 

 

 

ギャラリー:クレオパトラの子カエサリオンの悲劇 画像10点  

 

 

 

さらにローマをも巻き込んで、古代エジプト王国の幕を引いたファラオがクレオパトラ7世とその息子カエサリオンだった。最後の王となった母と子の悲劇とその意外な背景を紹介する。

 

 

ローマとエジプトの子、カエサリオン

 弟のひとりとの骨肉の争いに勝利してファラオとなっていたクレオパトラは、ローマとの同盟を確実にするため、自分より30歳年上のローマの将軍で政治家でもあったユリウス・カエサルをエジプトに招待した。カエサルはエジプトに2カ月間滞在してクレオパトラのもてなしを受けた後、ローマへ戻っていった。この時にクレオパトラは妊娠し、紀元前47年に男の子(カエサリオン)を生むと、父親はユリウス・カエサルであると公言した。  翌年末、今度はクレオパトラがカエサルの招きに応じてローマを訪れた。きらびやかな宮廷の従者を大勢従えたクレオパトラがカエサリオンを連れてローマに到着すると、ローマ人は口々にカエサルにそっくりの子どもだと言った。 ローマ市民の反応は冷めていたが、エジプトとの結びつきに期待を寄せていたカエサルは、ウェヌス・ゲネトリクス神殿にクレオパトラの像を建てさせた。帝政ローマへの移行を始めるべき時期にあると考えていたからだ。  しかし、その野望が実現することはなかった。紀元前44年3月15日、カエサルが暗殺されたのだ。このときローマに滞在していたクレオパトラは、自分たちの命も危ないと気付き、カエサリオンを連れて直ちにエジプトへ戻ることにした。  アレクサンドリアに戻るとすぐに、クレオパトラは権力の統合に乗り出した。史料によると、共同統治者だった弟のプトレマイオス14世を毒殺し、幼い息子のカエサリオンを共同で王位につけ、プトレマイオス15世カエサルが誕生する。  一方ローマでは、カエサルの大甥で後継者となったガイウス・オクタウィアヌスは、幼きファラオとの血縁関係を否定した。これに合わせて、故ユリウス・カエサルの右腕とされたガイウス・オッピウスも、カエサリオンはカエサルの息子にあらずと発表した。ローマの新たな支配者への態度には気をつけろ、というクレオパトラへの警告に他ならなかった

 

 

 

諸王の王」もつかの間

紀元前1世紀に花崗岩で作られたファラオの像。若きカエサリオンのものと考えられている。(ZUMA PRESS/ALAMY/ACI)

 カエサリオンに運が回ってきたのは、紀元前42年、ローマの執政官としてマルクス・アントニウスがエジプトにやってきたときだ。アントニウスは当時、同じく執政官だったオクタウィアヌスを倒す方法を探っていた。紀元前41年、クレオパトラはエジプトの協力を模索するアントニウスに呼び出されてタルソスに赴く。  国と息子の命運をかけた会見に臨んだクレオパトラを見て、アントニウスは恋に落ちた。このふたりの関係は、歴史上最も情熱的な恋愛物語のひとつとして後世に伝えられている。  紀元前34年、アントニウスはアレクサンドリアの競技場でクレオパトラを正式にエジプトの女王とする宣言を行い、カエサリオンに「諸王の王」という称号を与えた。また、カエサリオンはユリウス・カエサルの正統な息子であると公認した。クレオパトラとの間に生まれた3人の子どもたちにも王族の称号を与え、領土と王国を約束した。  ところが、これに激怒したオクタウィアヌスは、クレオパトラとアントニウスに対して宣戦布告する。紀元前31年9月2日、アクティウムの海戦でオクタウィアヌスの軍に敗れたクレオパトラとアントニウスはアレクサンドリアへ撤退する。息子の身を案じたクレオパトラは、教育係とともにカエサリオンを町から去らせた。  カエサリオンは南へ向かい、船に乗ってアラビアからインドへ逃れようとした。だが港への途上で、ローマ軍がアレクサンドリアに入り、母親とマルクス・アントニウスが死んだとの知らせを受け取った。  そのまま旅を続けていればカエサリオンの命は助かったかもしれない。だが、カエサリオンは戻ることにした。孤児になったカエサリオンにオクタウィアヌスが情けをかけてくれるかもしれないと教育係に説得されたためだ。実際、オクタウィアヌスは若きカエサリオンの命を助けることも考えた。しかし、「カエサルが何人もいるのは不適切だ」と側近に言われ、心を変える。  紀元前30年8月、オクタウィアヌスに面会するためにアレクサンドリアに到着したカエサリオンは、直ちに処刑された。ローマとエジプトをつなぐファラオの夢は潰え、古代エジプト王国はこのときをもって滅亡した

 

 

 

北半球での噴火と暴動の歴史が重なっていた

クレオパトラとカエサリオンが描かれたハトホル神殿のレリーフ。火山の噴火がプトレマイオス朝の終焉を早めたのだろうか。(PHOTOGRAPH BY GEORGE STEINMETZ, NATIONAL GEOGRAPHIC CREATIVE)

 最初に述べたように、古代エジプト末期の騒乱の陰には、民族的緊張があったと言われている。だが2017年、学術誌「Nature Communications」に、もうひとつの意外な要素が働いていたのではないかという興味深い論文が発表された。それは、エジプトから遠く離れた火山の噴火だ。  紀元前305年からカエサリオンが死んだ紀元前30年まで続いたプトレマイオス朝時代は、古代エジプトの中でも最も豊富に文字記録が残されている時期でもある。これらの記録にある騒乱が、グリーンランドや南極で採取された氷床コアからわかる火山の噴火の年代と関連していることを、歴史家、統計学者、気候科学者というちょっと変わった組み合わせの研究チームが発見したのだ。  チームが調べを進めていくにしたがって、暴動という暴動はほとんど噴火の後に起こっていたことがわかったという。時には、噴火から2年目に騒乱がピークに達することもあった。タイムラグの理由は、食糧危機に直面した国が短期的に救済措置を取っていたためではないかと研究者らは考えている。例えば、クレオパトラは紀元前46年と44年の噴火の後、貯蔵穀物を解放していた。  科学者たちは、遠方の噴火がエジプト王朝全体の行動を左右していたというつもりはないと断っているが、少なくともかなりの影響があった可能性は捨てきれないとしている。  噴火がどこで起こったのかは、正確にはわかっていない。だが、エジプトに最も影響を与えていたのは、北半球の遠い場所で起こった噴火であろうことを気候モデルは示している。熱帯降雨帯を南へ押しやり、ナイル川源流での降雨量が減るためだ。  クレオパトラがローマ海軍に敗れる頃までには、氾濫のない年が何年も続き、エジプトは「飢饉(ききん)、疫病、インフレ、政治腐敗、地方の人口減、人々の移動、土地遺棄」に直面したと歴史記録に残されている。プトレマイオス朝の滅亡には多くの要因が絡んでいるが、論文著者らは、過去2500年間で3番目に規模の大きい噴火の後、クレオパトラの死が訪れたことを指摘している。 「暴動が起こる理由が、ほかにもあることは十分承知しています。ただ、ここではほぼ全てのケースで、噴火の後に暴動が起こっていることが体系的に示されました。とても偶然とは思えません」。論文の共著者で、アイルランドのダブリンにあるトリニティ・カレッジの気候歴史学者フランシス・ルドロー氏はそう語る。 「実際に歴史を動かすのは、王や皇帝、法王などの偉大な指導者の決断であるという考えがありますが、この論文によれば、環境の影響も見過ごすことはできないということです」 この記事はナショナル ジオグラフィック日本版とYahoo!ニュースによる共同連携企画です。世界のニュースを独自の視点でお伝えします。

文=JUAN PABLO SANCHEZ、Craig Welch/訳=ルーバー荒井ハンナ

 

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