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運用額1000兆円までの道のり
債券投資の専門企業だったブラックロックはこうして「世界最大の資産運用会社」に変貌を遂げた
世界最大の資産運用会社「ブラックロック」 Photographer: Jeenah Moon/Bloomberg via Getty Images
世界最大の資産運用会社へ
1994年、ブラックストーンはついにブラックロックの株式をピッツバーグのPNC銀行に2億4000万ドル(約274億円)で売却した。PNC銀行は、自社の資金運用部門全体をブラックロックに統合し、最終的には上場させた。1999年10月1日、長年の懸案だった新規株式公開(IPO)がようやく実現する。この頃には、ブラックロックの運用資産は1650億ドル(約18兆円)にまで膨らんでいた。
しかし、メリルリンチが主幹事を務めたIPOは失敗に終わった。ブラックロックの評価額は予想を大きく下回る9億ドル(約1000億円)弱にとどまり、フィンクはIPO自体を取りやめたいという思いに駆られた。メリルリンチのCEOデビッド・コマンスキーが電話越しに叫んだ。
「血迷ったことを言うな。とにかくIPOをするんだ。これからの4〜5年で結果を出せば、こんなことはただの思い出になる。とにかく今はIPOをしろ。青臭いまねをするんじゃない」
ドットコム・バブルが崩壊すると、債券を中心とするブラックロックのビジネスはますます注目を集めるようになり、安定性を求める投資家たちを魅了し、太く安定した手数料を呼び込んだ。つまり、ブラックロックは自社株を“通貨”としてライバル企業を買収し、顧客を訪問したり、新しいチームをゼロから立ち上げたりすることなく、買収によって成長できるようになったのだ。
投資業界の歴史は、失敗した買収の歴史でもある。しかしブラックロックは上場を機に、債券投資の専門企業から世界最大の資産運用会社へと華々しい変身を遂げた。
最初の買収は2004年夏に行われ、保険会社メットライフ傘下の資産運用会社ステート・ストリート・リサーチを3億7500万ドル(約430億円)で買収した。しかし、本当の意味で分岐点となった買収は、その2年後に起きる。
2006年、フィンクは幅広い人脈を駆使して、メリルリンチの新CEO、スタン・オニールが肥大した資産運用部門の売却を前向きに検討しているという話を聞きつけた。興味をそそられたフィンクは、アッパーイーストサイドにあるレストラン「3ガイズ」に予約を入れ、オニールを朝食に招いた。
二人は15分もかからずに買収取引の概略を決定すると、暫定的な合意の印としてメニューに署名した。ブラックロックとメリルリンチ・インベストメント・マネージャーズが合併すれば、1兆ドル(約110兆円)に迫る資産を運用する巨大企業が誕生することになる。
この買収に対するメリルリンチ・インベストメント・マネージャーズ幹部の評価は分かれた。メリルリンチでは長年ないがしろにされていたので、勢いのある独立系の資産運用会社の一部となったことで気が楽になったという者もいた。だが一方で、他の幹部はブラックロックの態度を傲慢だと感じ、不満を募らせた。
合併後の統合作業は人扱いのうまいシュロスタインが中心となって進められたが、特にカピートはあちこちで軋轢を生み出した。元幹部の中には、カピートをテレビドラマ「ビリオンズ」に登場するマイク・ワグナー(ヘッジファンドの帝王である主人公ボビー・アクセルロッドの攻撃的だが忠実な右腕)になぞらえる者もいた。
それでもフィンクはカピートを重用し続けた。もっとも、カピートを嫌う人たちでさえ、そのことを不思議だとは思わなかった。カピートの「狂気じみた」効率偏重主義が、ブラックロックの重要な成長要因だったことを知っているからだ。
また、フィンクがいざこざに巻き込まれないように、物議をかもす決定はたいていカピートに託されていたこともカピートに敵意が向けられる一因だった。つまり、フィンクとカピートはブラックロックを支える陰と陽であり、背が高く眼鏡をかけ、壮大な戦略を好む社交家のフィンクと、攻撃的で妥協を知らない冷徹な整理屋のカピートは、どちらも会社にとって欠くことのできない存在だった。
「どちらかさえいればブラックロックはやっていける──そう考えるのは大変な誤りだ。二人は表裏一体なのだから」と、ブラックロックの元幹部は指摘する。
「ロバートはラリーがいなければ到底成功できなかったろう。しかし見落とされがちだが、ラリーもロバートがいなければ成功はおぼつかなかった。二人は塩とこしょうの瓶のようなもので、似ても似つかないが、相性は抜群なのだ」
分析のレベルが違う
メリルリンチ・インベストメント・マネージャーズを買収した直後、フィンクの底力が試される事態が起きた。2007年初頭にサブプライム住宅ローンの問題が顕在化し始めたとき、フィンクはその危険性を甘く見ていた。彼は「フィナンシャル・タイムズ」の取材に対し、市場は「多くのストレス」にさらされてはいるが、それが「住宅市場全体を破壊するほどの大規模な事態」に発展するとは考えていないと答えている。
ニューヨークの集合住宅施設「スタイベサント・タウン=ピーター・クーパー・ビレッジ」に対するブラックロックの投資は、赤面するほどの大失敗に終わった。それでもブラックロックは、その後の混乱を他の投資グループよりもうまく乗り切った。その一因は「ソリューションズ」事業の成長にある。この事業は、アラディンの提供というレベルをはるかに超える規模に成長していた。
ブラックロックが複雑な仕組み債の分析手法を初めて確立したのは1994年、ゼネラル・エレクトリックから同社の所有する業績不振の老舗証券会社、キダー・ピーボディの帳簿上の資産を評価してほしいと依頼されたときのことだった。時がめぐり、世界金融危機が起きた際には、ソリューションズ部門は市場の仕組みを知り尽くした、本格的な金融アドバイスグループに成長していた。
金融システムが崩壊の危機に瀕するなか、ウォールストリートのライバル企業から外国の中央銀行、米国政府まで、あらゆる組織が有毒証券の分析に必要な支援を必死に求めていた。ブラックロックの上級幹部のロブ・ゴールドスタインは「フィナンシャル・タイムズ」にこう語っている。「キダー・ピーボディの分析がX線装置のレベルだったとすれば、直近の危機で当社が手がけた分析はMRIのレベルだった」
ブラックロックは、米財務省と連邦準備制度理事会(FRB)が金融危機の残骸を処理できるよう支援するという名誉ある任務を担っていたので、政府と癒着しているのではないかと批判された。
一方、アラディンを利用する組織が増えたことで、規制当局の間からも懸念の声が上がり始めた。多くの投資家が同じリスク分析プラットフォームを利用するようになれば、見解に偏りがでる危険性があるからだ。
しかし、フィンクを本当の意味でウォールストリートの頂点に押し上げたものは、2009年のバークレイズ・グローバル・インベスターズ(BGI)の買収と、その後の急成長だった。
(BGIの買収でブラックロックが得たのは、投資商品を効率的に生産できる“組み立てライン”だ
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