アメリカのスタバ時給1900円から考える「安い日本」

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時給を1900円に引き上げる米スターバックス

 先日、コーヒーチェーンを展開する米スターバックスが、米国で時間給社員の平均賃金を来夏に平均17ドル、現在の為替レートで約1900円まで引き上げると報じられた。労働市場のひっ迫を受けた人材の確保と引き留めが理由だという。 【画像】実質賃金の推移の国際比較  国内で「安い日本」が議論になっている状況と比べると雲泥の差だが、「安い日本」論争のきっかけは岸田新総理の政策だろう。  9月末に自民党の総裁選を制した岸田氏は、総理大臣へ就任した。新総理の掲げた政策が「成長より分配」だ。コロナ禍による経済的なダメージを考慮してか、賃上げ重視の政策を掲げたものの多数の批判を受けた。結局は「分配のためにはまず成長が必要」と早々と持論をひっこめた。  同じく岸田総理の掲げていた「令和版所得倍増計画」も、山際大志郎・経済再生担当相が「文字通り2倍を目指すわけではない」と報道各社のインタビューで答えている。萩生田光一経産相も非現実的と指摘するなど、身内からも批判が出ている始末だ。  成長より分配の目玉のように掲げられていた金融所得の課税も、株価下落を受けていったんは取り下げた。出だしからボロボロの岸田内閣だが、いずれも所得と再分配に関わる話だ。そしてコロナ禍で経済がボロボロになった現在、政策の可否は別にしても所得と再分配の議論が重要であることは間違いない。  そこで「安い日本」と所得の関係を雇用リスクから考えてみたい。

成長より分配という勘違い

 岸田総理が「成長より分配」が強く批判されてひっこめざるを得なかった理由は、「安い日本」を改善するためには経済成長が必須であると多くの人が考えていたからだろう。  まず、日米中のGDPの推移をグラフで見てみよう。2010年に日本が中国に追い抜かれてから10年、改めて推移を見ると、停滞する日本に比べ米中の成長は驚異的ともいえる。  日本はバブル期から横ばいに近い状況が続いており、失われた10年が20年、そして30年へと延長してしまったことが一目で分かる。加えて、新興国で人口が世界一多い中国の急激な成長はまだ納得できるとして、先進国で1位の米国もまた成長が続いている。  小さい新興国の成長と米国のような大国の成長は同じパーセントであってもまったく意味が異なる。所得水準も1人当たりのGDPもまだ低い中国に成長余力があることは当然だが、すでに先進国の米国がここまで急激な成長を遂げていることは驚異的だ。それが所得水準にもダイレクトに現れており、スタバの時給1900円につながっている。  一方、日本でも少子高齢化によって人手不足は深刻な状況にあるが、賃金水準は30年前から横ばいだ。とはいえ、これは経営者がケチだとか、値上げを消費者が嫌がるとか、そういった個人や企業の特性、気分の問題だけに帰結するような話ではない。  米国の企業であっても、経営者は人件費を低く抑えたいと考えるのは自然で、消費者も安く買い物ができるのならそれに越したことはない。賃金の上がらない根本的な構造が日本にあると考える方がよっぽど自然だ。  では構造的な問題とは一体何なのか? それが「雇用リスク」だ

 

 

 

 

 

 

雇用リスクを避ける日本

 多くの人が知っている通り、日本では解雇規制が強い。解雇4要件とも呼ばれるが、過去の判例によって解雇が強く制限されているのが現状だ。  これは日本型雇用、終身雇用と呼ばれ、良い仕組みであると考えている人も多い。解雇規制の緩和や金銭解雇は話題になるたびに賛否両論が巻き起こるが、否の方が明らかに多い。  解雇しにくい状況からしやすい状況になることを歓迎する人がいるわけもない、企業が得をして従業員は損をするだけじゃないか、という人も多いが、これは大きな勘違いを含んでいる。解雇しにくい現在の状況が、すでに多数のマイナスを生んでいることに気づいていないからだ。  雇用リスクは、企業側から見れば解雇できないリスク、従業員から見れば解雇されてしまうリスクとなる。解雇しにくい状況は従業員にとってプラスの面しかないかというと、当然そういった単純な話ではない。  なぜなら雇用にリスクがある理由は、企業のビジネスが上手く行くか失敗するか分からない、つまりビジネスのリスクと直結しているからだ。ビジネスのリスクをゼロにできない以上は雇用のリスクもゼロになるはずもなく、その状況で解雇という手段だけを封じてしまえば別の形、別の場所で雇用リスクが爆発する。

雇用リスクが爆発する場所

 質の高い木製のタンスは、引き出しを閉めると別の引き出しが開いてしまう。  これは密閉された空間で引き出しを閉めた際に、行き場のなくなった空気が別の扉を動かしてしまうことが原因だ。子供のころにテレビで見たバラエティ番組では引き出しを思い切り閉めると別の扉が開いて顔にぶつかる、といったコントを見た記憶がある。これと似たような状況が雇用でも起きている。  企業から見て解雇が難しい状況ならば、まずは新規の雇用を可能な限り控える。結果的に少ない人数で業務を行うため長時間労働が慢性化する。業績悪化時に解雇ができないことから、可能な限り賃金も低く抑える。結果として解雇はされにくいが低賃金で長時間労働という日本型雇用が生まれる。つまり雇用調整を解雇以外の方法で行っているわけだ。  日本型雇用の問題点はこれだけではない。解雇が難しいため人員の偏りは転勤で行うことから、突然の転勤は日常的に行われる。解雇できないのだから人員配置は企業の裁量次第、ということで転勤の拒否は合法的な解雇事由にもなり得る(ただし転勤は拒否が絶対できないわけではない)。  現在では産休・育休の取得も容易になっているが、ひと昔前は女性が出産で退職することはごく当たり前だった。これは本人の意思に限らず、企業側の意向も強く働いている。現在でもマタハラの形で残っているが、解雇を封じられた企業にとって、産休・育休・時短勤務を取得する女性従業員は極めて扱いにくい存在であり、これが女性の冷遇につながっている。  時おり話題になる外資系企業の解雇マニュアルや大手企業のリストラ部屋も、解雇できないから発生する問題だ。  解雇されないというメリットは低賃金、長時間労働、突然の転勤、女性の冷遇とあらゆる形でデメリットとして形を変えて発生しており、果たしてこれが最適な働き方だといえるのか?ということだ。  解雇規制とこれらの問題を無理やり結びつけるのはおかしいと指摘したい人もいるだろう。その指摘には、ビジネスのリスクが雇用リスクと直結していること、そのリスクは消しようがないこと、そして何かしらの形で従業員にもビジネスのリスクが及ぶことは避けようがない、つまり解雇規制とこれらの問題は無関係どころか密接に関わっている、という解答になる。  所得が増えないから消費が増えない、消費が増えないから成長しない、成長しないから所得も増えない、という負の連鎖から抜け出せない理由は、賃金が低いからではなく、賃金を上げられない構造的な問題が大きな原因の一つであることは間違いない

 

 

 

 

18年、日本が韓国にある指標で追い抜かれた。購買力平価(PPP)で換算した1人当たり名目GDPだ。1人当たりのGDPは豊かさの指標ともいわれることから、豊かさでは韓国の方がすでに上とみなすことも可能だ。  この話は、韓国に追い抜かれたことが良いとか悪いといった以上に重大な意味がある。  韓国は長年、先進国なのか新興国なのか、極めて微妙な立ち位置にあった。例えば資産運用の分野では、運用先を先進国と新興国に分類する。株価指数などを算出するMSCI社が作成する指標では、韓国は先進国のカテゴリではなく新興国となっている。一方で同業のFTSE社が作成する指標では韓国は先進国となっている。  どちらも資産運用の分野では代表的な指数を作成する企業であり、韓国をめぐって二社の判断が分かれている。つまり韓国は先進国と新興国の境目にある国であり、その韓国に抜かれたことは日本が先進国のグループから転落しかねない状況を意味している。  このような状況では、総理の「成長から分配へ」というスローガンが否定されたのも当然だ。

豊かな国は賃金が高い、という身もふたもない事実を認めよう

 経済学者の野口悠紀雄氏は、「日本人は国際的に低い給料の本質を分かっていない(東洋経済オンライン 2021/10/3)」と題した記事で、世界各国のビッグマック価格と賃金水準には関連性があり、「ビッグマック指数がある時点での賃金の国際比較をするのに使えることを意味する」と論じている。  ビッグマック指数とは、世界中で売られているマクドナルドのビッグマック価格を基準に、購買力平価を計算したものだ。 ※購買力平価……世界各国の物価水準は摩擦がなく貿易されれば同じ物なら同じ価格になる(一物一価)ように為替水準は調整されるという考え方  筆者はこの記事を読んで小躍りしてしまった。筆者自身が6年も前にビッグマック指数と賃金の関係を論じる記事を書いていたからだ。  「なぜスイスのマクドナルドは時給2000円を払えるのか?」と題した記事は、その前に書いた「マクドナルドの『時給1500円』で日本は滅ぶ」で受けた批判への解答として書いたものだ。  この記事ではファストフード店の時給を1500円に上げるべきという趣旨で行われたデモについて、そんな高い賃金を払ったらお店がつぶれてしまう、そして全産業の賃金が1500円、つまり最低賃金が1500円になったらあらゆる企業がつぶれてしまうと書いた。  Yahoo!ニューストップに掲載されたこの記事は、多数の読者に読まれ賛同された一方、「この記事を書いた奴は何をバカなことを言っているのか、アノ国もコノ国も最低賃金は1500円以上だ、間違いだから訂正しろ」と批判も多数受けた。  そこで挙げられていたアノ国やコノ国を調べてみると、1人当たりGDPで見ればどの国も日本より豊かな国ばかりだった。そしてビッグマックの価格と1人当たりのGDPも概ね相関している傾向も見て取れた。  タイトルに使ったスイスと比べると、執筆当時のビッグマック価格は日本の2.4倍、1人当たりのGDP(名目・USドル)は日本の2.41倍。一方、日本の最低賃金は15年に全国平均で798円、一番高い東京でも907円と、まだ1000円以下の時期だ。この当時の数字を見てもビッグマック価格とその国の豊かさ、そして賃金にはある程度相関があることが分かる。  この記事では「日本の賃金が他国より安い理由は日本が他国より貧乏だから」と結論づけたが、これは現在の「安い日本」の筆者なりの結論でもある

 

 

 

今後は「安い日本」ではいられない

 日本は賃金も物価も他国より安い、というのが「安い日本」の議論で語られることだが、物価が安いなら賃金が低くても平気なのか。  この記事を書いている時点でも、吉野家が牛丼を値上げ、カルビーがポテトチップスを値上げ、日清が小麦製品を値上げ、味の素が冷凍食品を値上げ、と値上げに関するニュースが多数報じられている。電気料金も各社が12月に値上がりを発表しており、原油や天然ガスの値上がりが理由とされている。  日本は食料の半分を、エネルギーの大半を輸入に頼っている。現在の傾向が続けば賃金は低く物価は高い状況、つまり「安い日本」から「貧乏な日本」になってしまう日も近い。  分配はパイの切り分け方であって、パイが小さければどのように分配しようと貧乏である。金持ちがさらに金持ちになれば貧乏人も豊かになる、というトリクルダウン理論は否定されたが、それはかつて英国の首相だったサッチャーが指摘したように、金持ちを貧乏にすれば貧乏人が金持ちになれることは意味しない。  岸田総理は10月、政策実現のために「新しい資本主義実現会議」という有識者会議を設置した。  平等に貧しくなろう、といった話が話題になったこともあるが、それで真っ先に困るのは賃金が低く資産もない貧しい人だ。この会議では経済成長が賃金上昇につながる、そのためにはどうしたら良いのか、そんな議論を期待したい。 (中嶋よしふみ FP・シェアーズカフェオンライン編集長  企画協力 シェアーズカフェ・オンライン)

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