血で染まった甲板、母親の目の前で冷たい海に消えた子供たち…1700人もの命はなぜ奪われてしまったのか

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文春オンライン

 

 

 

「助けて!」北の海に響いた子供の絶叫、千切れた手足はカマス袋に…「北海道にたどり着けなかった」人々を襲った「不条理な暴力」 から続く 

 

 

【画像】667名が犠牲になったとされる「泰東丸」の変わり果てた姿 

 

 

 2021年夏に戦後76年を迎える日本。戦争中には、忘れてはならない数々の悲劇があった。終戦直後、樺太(サハリン)から引き揚げる途中の小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸が旧ソ連軍の潜水艦に相次いで攻撃を受け、1700人余りが犠牲となった三船遭難事件も、その一つである。  昭和史を長年取材するルポライター・早坂隆氏の『 大東亜戦争の事件簿 』(育鵬社)より、一部を抜粋して引用する。 

 

 

 

◆◆◆  第二号新興丸の航海士だった中沢宏は、船が留萌港に入ってからも、すぐには下船せずにそのまま船上に残っていた。その時、中沢は不意に遠くの海上から砲声を聞いた。艦橋から双眼鏡を覗(のぞ)くと、日本の船舶が自分たちと同じように潜水艦に襲撃されている光景が目に入った。  この船が「泰東丸」であった。  泰東丸は本来、貨物船である。しかし、大泊港に避難民が溢れている状況を受けて、引揚船に転用されたのだった。  泰東丸が大泊港を出港したのは、21日の午後11時頃である。泰東丸は三船の中で最も軽量な約880トンという小型船だったが、そこに約780人もの人々が乗船していた。  船倉には米などの食糧が大量に積まれていた。南樺太からの引揚者の受け入れ先となっていた北海道でも、食糧不足が深刻化していたためである。  積荷を満載した泰東丸には、乗客のための空間はほとんどなかった。そのため、引揚者たちは甲板にゴザを敷くなどして過ごしていた。泰東丸も稚内には寄らず、小樽に直行する予定だった。

出航から一夜明けた朝、海上の「異様な光景」

 この泰東丸の乗客たちが異変に気づいたのは、出航から一夜明けた22日の午前9時頃である。その異変とは、海上に大量の浮遊物が漂流している異様な光景であった。浮遊物の中には、リュックサックや子供用の水筒なども混ざっていた。  それらは攻撃を受けた第二号新興丸からの漂流物であった。そして、ついには傷ついた遺体までもが、いくつも発見されるようになった。第二号新興丸の悲劇など知る由もない泰東丸の乗客たちは、深刻な不安と恐怖に駆られた

 

 

 

そんな泰東丸の前に潜水艦が出現したのは、午前9時40分頃のことであった。場所は留萌小平町の沖西方約25キロの辺りである。甲板にいた乗客たちから、 「潜水艦だ!」  との声が次々とあがった。

破壊されたボイラー、血で染まった甲板、乗客たちは海へ…

 すると、その潜水艦はすかさず泰東丸に向かって砲撃を開始。泰東丸の周囲に複数の水柱が立った。  船長の貫井慶二は、すぐにエンジンの停止を機関室に命令。さらに、白いシーツやテーブルクロスを白旗として掲げ、船として戦う気がないことを明確に示した。特設砲艦である第二号新興丸とは異なり、泰東丸には13ミリ機銃が船首に一丁装備されているだけで、反撃する能力などは有していなかった。  白旗を提示した船舶への攻撃は、国際法で禁じられている。しかも、戦争自体がすでに終結しているはずであった。  しかし、潜水艦からの砲撃は継続された。そしてついに、一発の砲弾が泰東丸の船腹を直撃。船体は大きな衝撃に包まれ、破壊されたボイラーから蒸気が一挙に吹き上がった。  その後、延べ十数発もの砲弾が泰東丸に撃ち込まれ、機銃掃射も行われた。まったく無抵抗の船への攻撃は一向に終わらなかった。  貫井船長は「全員退船」の命令を発したが、甲板は人々の血潮で紅く染まった。乗客たちは意を決して海に飛び込んだ。潜水艦はやがて姿を消した。

母親の目の前で力尽きた子供たち

 4人の子供の母親である鎌田翠は、母子5人で板切れに摑まって波間に浮いていた。しかし、力尽きた子供たちは1人、また1人と暗く冷たい海中へと消えていった。子供たちが抱えた恐怖、そして母親の無念はいかばかりだったであろう。  泰東丸の船体は、右舷側に大きく傾斜。最後は横倒しになるようなかたちで、轟音とともに沈んでいった。沈没の際に生まれた激しい渦によって、船体の周囲にいた人々は引っ張り込まれるようにして運命をともにした。

 船首に備えられていた機銃とその台座も漂流していたが、そこには十数名もの人々がしがみついていた。人々は胸まで海水に浸かりながら、立ち続けているような状態だった。  その中に1人の憲兵がいた。その憲兵は背中に重傷を負い、別の人にずっと寄りかかっていた。しかし、やがてその憲兵は、 「もうこれ以上、迷惑はかけられない」  と言い残し、自ら手を放して暗い海中に沈んでいったという。  その後、漂流する生存者たちを救出したのは、たまたま近くを通りかかった機雷敷設艇「石埼(いしざき)」だった。石埼の乗組員たちは、一人でも多くの人命を助けようと懸命の救助活動にあたった。  泰東丸における犠牲者の数は、667名とされている。死亡率はほかの二船と比べても圧倒的に高い。  船長の貫井もその1人であった

 

 

 

 

我が子を抱きかかえながら死後硬直を起こた母親の遺体

 以上が留萌沖で起きた「三船殉難事件」の実態である。  このような事件の発生を知った地元の漁師たちの中には、 「こんなことが許されてたまるか」  とすぐに船を出して、漂流者の救助にあたった者たちもいた。自身が攻撃される危険も考えられたが、 (放っておけない)  との思いからの行動だった。  漁師たちは遺体の収容にも努めたが、それらの中には我が子を抱きかかえながら死後硬直を起こしている母親の姿もあったという。  これら三船の殉難事件により、じつに延べ約1700人もの人々が犠牲となった。  改めて記すが、これは終戦後の話であり、しかも船はいずれも民間人を乗せた引揚船であった。  事件発生の一報は、札幌の第五方面軍司令部にも伝えられた。第五方面軍司令官・樋口季一郎陸軍中将は、すぐさま事件の詳細に関する徹底的な調査を命令。さらに大本営に事件の発生を伝え、連合国側を通じてソ連に「戦闘停止」を求めるよう要請した。  樋口からの要請を受けた大本営は、フィリピンのマッカーサー司令部に状況を伝えた。しかし、マッカーサー司令部からの返答はなかったとされる。

潜水艦の正体

 戦後の日本社会において、この事件が十分に語り継がれることはなかった。独立回復後も、日本政府の対応は緩慢だった。  昭和37(1962)年、留萌市の海を見渡す丘の上に「樺太引揚三船殉難者慰霊之碑」が建立されたが、これは地元の人々や引揚団体の募金活動によって建てられたものであった。  昭和42(1967)年、北海道は厚生省(当時)の依頼に基づき、三船の遭難者名簿を作成。しかし、名前や年齢といった基本的な項目に間違いが多く発見されるなど、杜撰(ずさん)な作業と言わざるをえない内容だった。  昭和49(1974)年には、厚生省が泰東丸の捜索を防衛庁に依頼。海上自衛隊の掃海艇が投入されたが、船体を発見することはできなかった。翌年以降も捜索は継続されたが、昭和54(1979)年を最後に厚生省はこの計画を断念した。  そのあとに独自の活動を続けたのは、樺太からの引揚者などから成る社団法人・全国樺太連盟であった。  昭和56(1981)年には、地元の漁船が一隻の沈没船を発見。その後、全国樺太連盟が海中調査を進め、その沈没船が泰東丸である可能性が高いことを公表した。しかし、現在に至るまで、同船は海底から引き揚げられていない。  総じて同事件に対する日本の国家としての姿勢には不満が残る。詳細に関する徹底調査や、船の引き揚げ作業、ソ連(ロシア)側への抗議など、いずれも不十分と言わざるをえない。歴代政府は、抗議どころか、潜水艦を「国籍不明」と位置付け、曖昧な姿勢をとり続けてきた。  しかし、平成4(1992)年、秦郁彦拓殖大学教授(当時)の調査により、ソ連国防戦史研究所の回答を得た結果、三船を攻撃した潜水艦がソ連軍に属したものだったことが立証された。公式の文書によって、三船を攻撃したのはウラジオストクを拠点とするソ連海軍第一潜水艦隊所属の「L-12」ならびに「L-19」であると確認されたのである。  ちなみに、潜水艦L-12の艦長であったコノネンコという人物は、ウラジオストクに帰還後、ソ連国内で「英雄」とされ、今に至っている。

 

 ◆ (文中敬称略)

早坂 隆