「大坂なおみは記者会見の“膿”をさらしてくれた」英スポーツ記者が自省も込めて綴る

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クーリエ・ジャポン

Photo by Tim Clayton/Corbis via Getty Images

テニスの大坂なおみ選手の会見ボイコットと全仏オープン棄権を受け、英紙「ガーディアン」のスポーツジャーナリストが自省も込めて綴る。低俗な質問で若い選手を餌食にする記者会見の問題点、それを直視せずに大坂を非難する旧態依然としたメディアは自滅へと突き進む──。 【画像】「大坂なおみは記者会見の“膿”をさらしてくれた」英スポーツ記者が自省も込めて綴る

大坂の表明には共感しかなかった

かつて、まだ世の中で物事がいろいろ起きていた頃のことだ。エミレーツ・スタジアムでのアーセナルの記者会見の常連なら誰でも知る「最初の質問をする男」という謎の人物がいた。略称は「さし男」。 さし男がどこのメディアの人間なのかはついに誰にもわからず、そもそも記者だったのかどうかもあやしかった。その男の唯一の才能は、才能と称していいのどうかもわからないが、とにかく一番前の席に陣取り、最初の質問を放つことだった。ほかの人がまだ着席しないうちに、質問が大声で切り出されるのが通例だった。 さし男がなぜそんなことをするのかは不明だった。エゴの問題ではなさそうだった。この人の本名を知る人に会ったためしがないからだ。かといって、それは、いわゆる「通の質問」でもなかった。それどころか、質問の大半は事実上の意見表明だった。世界中の記者会見で愛用される、あの陳腐な常套句ばかりを並べたてるのだ。 「アーセン、今日の勝利の喜びの気持ちをお聞かせください」「ウナイ、この勝ち点1は価値ある勝ち点1のように思えます」「ミケル、厳しい試合でした。いまの思いをお聞かせください」 女子テニス世界ランク2位の大坂なおみが全仏オープンでの記者会見ボイコットを発表し、自分のメンタルヘルスを維持しようとしたとき、私の脳裏に自然と浮かんできたのが、このさし男だった。 記者として、幾千ものこの種の中身のないお勤めに同座し、その過程で幾度となくこの世の終わりに思いを馳せた者として言わせてもらうなら、私の最初の反応は共感しかなかった。ところが世間では、意外にも非難と激高の大合唱なのである。どうやら大坂の発表は、強烈な反感を買ったようなのだ。 一部の人にとって記者会見は神聖なる生きがいだったわけだ。たとえ自分たちの命を失っても、アスリートに「今日、あの瞬間はどんな気持ちだったのですか」と質問できる機会だけは絶対に守り抜くぞ、と言わんばかりに

 

 

 

 

「お高くとまったプリンセス」?

5月31日夜、大会側から罰金を科され、出場停止処分の可能性を示唆されたあと、大坂は全仏を棄権すると発表した。 この間、プリントメディアは彼女に対して軽蔑的な論調一色である。そう、私たちが伝統的に、世の中の行動の規範を最もよく判断してくれると見なしているメディアのことだ。 ある新聞のコラムニストは大坂を「お高くとまったプリンセス」と書いた。ほかには、より抑えたトーンで、アスリートにとってメディアと向き合うのは仕事の一部であり、それを完全にやめるという大坂は「危険な前例」を作ったと指摘する記者たちもいた。 ここで、いったい何がどういう意味で「危険」だと言っているのか、考えてみるべきだ。 報道の自由はすでに世界中でかつてないほどの危機に瀕している。独裁政権や大手テック企業、ネット上のフェイクニュースからの攻撃にさらされているのだ。多くの国でジャーナリストたちが仕事をしているだけで殺害されている。 一方、今パリにいるテニスジャーナリストたちは、大坂の会見拒否によって、すべて自分の言葉で記事を書かなくてはならない危機に直面した。 さて、いま列挙した危機の中に、一つだけほかと質が異なる危機があるが、それがどれだかわかってもらえるだろうか。

記者たちの狙いはゴシップ、怒り、涙

私が思うに、ここで真に問題なのは、大坂でも尊大すぎるメディアでもない。記者会見そのものだ。考えてみれば、それはおかしな発想であるし、もうその機能を果たしていない。記者会見というものが過大評価されているのは、それがアスリートと大衆を直接つなぐ役割を果たしていると見なされ、謙虚な記者たちが人々の忠実な目と耳になっていると思われているからだ。 気づいていない人のために言っておくと、もうかなり前からそれは真実ではなくなっている。今のアスリートたちは、私たちメディアを介さず自ら大衆と直接つながる術を持っている。 信じてもらえないかもしれないが、大坂がエンターテイナーとして、そしてスポンサー企業の顔として果たさなければならないのは、指定された時間にテニスをプレーすることなのだ。窓のない部屋に強制的に着席させられ、その部屋いっぱいの中年男性たちに向かって自分を説明することではない。 ゆえに、現代の記者会見はもはや有意義なやり取りの場ではなく、最も低俗なやり取りが行われる場となっている。そこで展開されるのは、記者たちが選手からできうる限りを引き出そうとするシニカルで往々にして搾取的なゲームだ。ほしいのはゴシップ、怒り、ライバルとの確執、涙、悲劇といったところだ。 そんななか、まだ勝利あるいは敗北の感情の波にのまれている状態の若いアスリートが、最も親密な質問に答えるよう要求される。大勢の知らない人たちの前で、後ろにスポンサーのロゴを背負いながらという最も親密ではない場所で。 そこにあるものすべてが奇妙で儀礼的な性質を帯びている。同じ場所に同じ人が座り、使い古された同じ質問が繰り返され、何百もの言葉が無駄にされ、ふたを開けられずに置かれたままのミネラルウォーターのボトル。 ほかにもっといいやり方はないのだろうか? 彼らは選挙で選ばれた政治家ではない。彼らは卓越したラケットさばきと心肺持久力でここまで上り詰めた、普通の人間なのである。そんな人たちに「どうか私たちに話をしてください。さもなくば……」と脅すのか。

 

 

 

 

 

 

若い女子選手へのゾッとする質問

この力関係は、とりわけ女子テニス界で悪化する。白人男性が大多数を占めるというだけでなく、「白人男性がタダ飯を食える」世界だ。その貪欲でガツガツすることを許される彼らの特権は、異常なほど気持ち悪い質問となって表出することがよくある。

 

 「あなたがツイッターに投稿した写真に気づきました。あなたの素晴らしい外見からすると、長めのランニングをするだけでセックスシンボルとして見られるようになるかもしれませんが、その準備はできていますか?」

 

(2013年ウィンブルドン、ウージニー・ブシャールに対する質問)

 

 

 「あなたはいまやグラビアアイドルのような扱いです。とくにイギリスで。どう思います? いい気分ですか?」

 

(2004年ウィンブルドン、当時17歳のマリア・シャラポワ選手に対する質問)

 

 もちろん、まともで好奇心あふれるジャーナリストもたくさんいて、彼らはまっとうな仕事をしている。だがそれはある意味、メディアにおけるこの慢性的な自覚の欠如が、どれだけ自滅的かを物語っていると言えるだろう。 そろそろ空気を読むべきだ。私たちはここで、いい奴らではない。もう私たちに力はない。 世界トップレベルのアスリートが、メディアの前で話すよりもグランドスラムを棄権することを選んだのだ。それが彼女の何を明かすのかについてあれこれ言う前に、それが私たちメディアの何を明かしているのかを自問したほうがいいのかもしれない。

Jonathan Liew