英紙東京支局長が感じた「天皇の家族に共通の雰囲気」
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2020年1月2日、皇居での新年一般参賀にてPhoto: Carl Court/Getty Images
英「タイムズ」紙東京支局長のリチャード・ロイド・パリーは、徳仁天皇と雅子皇后がまだ皇太子と皇太子妃だった頃に直接会ったことがあるという。そのとき感じた天皇家に共通する雰囲気とは? パリーの考えるその雰囲気の理由とは何だったのか──。 【画像】(連載第二話)英紙東京支局長が感じた「天皇の家族に共通の雰囲気」 君主の多くがそうであるように、歳月の経過とともに明仁天皇と美智子皇后は、独特の流儀で知られるようになった。 英王室のハンドバッグやコーギー犬、強烈なジントニックが英国民にお馴染みなのと同じだ。 明仁天皇といえばダブルのスーツ、美智子皇后といえば古風な帽子だ。二人の公の場での立ち居振る舞いは、相手への深い気遣いと真心のこもった礼儀正しいものだった。 加えて明仁天皇には情熱を捧げるものがあった。テニスとチェロ、そして何よりもハゼという小さな魚の分類法についての科学的研究だ。 研究者としての実力は正真正銘だ。ハゼの肩胛骨を丹念に比較し、ハゼ科魚類の分類に労を惜しまなかった。研究にのめり込んだ天皇が皇居内で魚の骨を楽しそうにつまむ図は、ほとんどモンティ・パイソン(英国を代表するコメディーグループ)的と言っていいほど人の心を惹きつける。 だが、近現代の君主で、明仁天皇ほど心労が大きかった人も少ない。心労の種となったのは、皇室のいまとこれから、世代間の対立、それから直近の家族でとりわけ女性が精神の不調や不幸感に悩まされたことだった。
日本の「戦後処理」の象徴
明仁天皇の人生に一貫してあるテーマが、戦争だ。戦争はむごたらしいものであり、二度と繰り返してはいけないという責務の念があった。 生まれたのは1933年。満州への軍事侵攻をめぐって日本が国際連盟を脱退した年だ。終戦を迎えたのは、特別待遇だった疎開先でのことだった。 敗戦後の首都に戻ると、そこは空襲の焼け跡になっていた。1948年の15歳の誕生日には、東条英機と6名の戦争犯罪者が、巣鴨拘置所内でアメリカ人の死刑執行人によって絞首刑に処された。 学習院という名門校で一般の学生と同じ高等教育を受けた初めての皇太子でもあった。英語の家庭教師だったアメリカ人クエーカー教徒のエリザベス・ヴァイニングから「ジミー」というニックネームをつけられた。後にヴァイニングはこう述懐している。 「この頃の殿下の御興味はほとんど魚類だけに限られていたので、私はもっと御興味の対象を拡げなければと思った」 若い皇太子がこのアメリカ人の平和主義者から感化を受けることになったと恨んだのが右派の知識人だった。後にある右派の知識人は、この家庭教師のせいで明仁皇太子の精神と知性に「菌」がついたと苦言を呈した。 父親の裕仁天皇が、戦争の司令官や戦略家だったことは一度もない。だが、現代の研究では、裕仁天皇が太平洋戦争に反対とは程遠い立場であり、反対していたのは負け戦だけだったことが明らかにされている。 だが、日本では降伏の当日から、裕仁天皇の免罪を求める必死の努力があった。裕仁天皇は平和主義者として描かれ、降伏を決断することで不幸な人民を滅亡の淵から救ったとされた。 戦後は絞首刑に処されることもなければ、退位することもなかった。その後の在位期間では、表向きには立憲君主を演じたが、その裏でときおり閣僚人事に疑義を示したり、共産主義者に対する「備え」を促したりしたこともあった。 一方、その息子は、戦後処理の規定を遵守したばかりか、その形を定めて体現するのに貢献したのだった
戦後日本の「中流階級」も象徴
決定的瞬間となったのが、1959年の正田美智子氏との結婚だった。カトリックの教育を受けた、製粉会社社長の美しい娘だ。このカップルが、消費生活を楽しむ快活な中流階級のイメージを体現することになった。 エプロン姿の皇太子妃がキッチンで台所道具に囲まれて立つ写真、皇太子妃が夫と手をつなぎスケートで滑る写真、浜辺で幼い子供たちと遊ぶ写真が撮影された。 明仁天皇といえば目立たない形で政治に関与してきたことが注目されがちだが、壮麗さや尊大さとは無縁の世襲君主像を打ち出したことは、それを上回る功績だった。 戦前の天皇は、魔法を使ったかのような高みにあらせられるお方だとされ、「雲の上」の人にたとえられていた。大日本帝国の臣民が裕仁天皇の姿を見たのは、写真やニュース映画で軍服を着て白馬に乗っているところだけだった。 1945年8月15日、日本の降伏を伝えた有名な放送のとき、大日本帝国の臣民のほとんどが裕仁天皇の声を初めて聴いた。ラジオの周囲に集まった人の多くは、語られた言葉の大意しかとらえられなかった。文語体の演説だったことに加え、天皇の話し方も相俟って日常言語とはかけ離れて聞こえたのだ。
明仁天皇の家族に共通する雰囲気
明仁天皇の家族の立ち居振る舞いを説明するのは難しい。それは気軽で親しみやすい、いわゆる通常の意味での「チャーミング」からは遠くかけ離れている。 私自身は、皇族が誕生日や海外渡航時に定期的に催す記者会見の場だけでしか接したことがない。 そんな記者会見のひとつで、私は特派員仲間とともに列に並び、徳仁皇太子と雅子妃に挨拶したことがある。 一瞬の握手を通じて得た印象がいくつかあった。まず気づかされたのが、ふたりの身長差だった(雅子妃のほうが数インチ高い。これは公の場では目立たないようにされている)。 それから、なぜかはわからないが、その場にいた私たちは全員、声をひそめなければならないと感じたのだ。皇族は、優しくて、善意が感じられる不思議な雰囲気を身にまとうかのように見えた。 徳仁皇太子と雅子妃は、明仁天皇と美智子皇后と似て、非常にいい人だという印象だった。相手がそれなりに楽しく時間を過ごせているのかを、必死というか、ほとんど神経質と言えるほど気にかけているのだ。どこかぎこちなく、よそよそしいのは、肩書きや優越感から生まれるものではない。それは気遣いと謙遜の心から出てくるものだ
なぜ明仁天皇はそれほど気遣ったのか
気遣いこそ、明仁天皇の宮廷を特徴づけるものだった。 皇室像を作り替えようとする個人的動機が何だったかはうかがいしれない。皇室像を作り替えること自体が目的でなかったことだけは確かだ。それは皇室の存立のためだった。自分たちの立場の弱さを鋭く意識したものだった。 かつて英国のフィリップ殿下は、英王室について「私たちは週のどの日も選挙を戦っている」と語ったが、明仁天皇の努力は、その数倍も精力的であり、一貫していた。 日本で、共和主義を目指す運動は組織されておらず、メディアで君主制に代わる制度についての議論が交わされることもない。そんな国でも、それほどまでの努力を続けたのだ。 皇居内で働いた経験のある人物が私にこう語ったことがある。 「国民の1割は、どんなことが起きても血統を重んじて皇室を支持する人たちです。7~8割は、皇族がその役割に勤勉、献身的、熱心に取り組んでいれば、程度の差こそあれ皇室を支持します。 皇室の制度は、圧倒的多数が支持しないと不安定になります。だから皇室は自分たちの存在意義を示していかなければなりません。 それは自覚的に取り組まれていることであり、その目的を達成する手段として一所懸命に活動されているのです」(続く)
Richard Lloyd Parry