ノルマン人のイングランド征服を描いた11世紀の驚きの刺繍絵、「バイユーのタペストリー」とは
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11世紀から伝わる“征服の象徴”、イングランド王を破った「征服王」の絵物語
バイユーのタペストリーに描かれた混乱を極める戦闘場面。ノルマン兵が敵方のイングランド兵に突撃している。(JEAN GOURBEIX, SIMON GUILLOT/RMN-GRAND PALAIS)
1066年という年号は、何世代にもわたって英国の小学生の心にしっかりと刻み込まれ続けている。イングランド南東部のヘースティングズの戦いにおいて、現在のフランスにあったノルマンディー公国の君主ノルマンディー公ウィリアム(ギヨーム2世)がハロルド2世を打ち破り、この国の歴史に極めて重大な政治的・社会的変化をもたらした年だ。 ギャラリー:“征服の象徴”「バイユーのタペストリー」、写真20点で一挙に解説 この「ノルマン征服(ノルマン・コンクエスト)」によって、フランス語を話す支配階級と大量の姓がイングランドに新たに持ち込まれ(ウォレン、ルイス、シンクレア、ボイル、チャーチルなど)、近代英語の種が植え付けられた。 しかし、この大変革の様子をもっとも生き生きと記録しているのは文書ではない。色とりどりの糸が縫い付けられた長さ約70メートルの亜麻布、「バイユーのタペストリー」だ。 タペストリーと呼ばれているものの、この作品は実のところは布に毛糸で刺繍(ししゅう)を施して作られている。10色の糸が描き出すのは、ウィリアムとハロルドの運命を決する戦いの物語だ。 さまざまな場面が登場するが、唯一、ウィリアムがイングランド王として戴冠する結末の場面だけが失われている。まるで横長のコミックのように、場面から場面へと進んでいく作りになっており、上下の帯はイソップの寓話や狩りの場面などで豊かに彩られている。 ヘースティングズの戦いが終わってから数十年の間に作られたこの刺繍は、何世紀にもわたって、ノルマンディー地方の街バイユーにある大聖堂に保管されていた。そのため、バイユー司教オドンが制作を依頼したのではないかと考えられている。ウィリアムの異父兄弟であったオドンもまた、ヘースティングズの戦いに参加していた。 オドンが作らせたこの大作は、大衆に向けたプロパガンダのために構想された可能性が高い。戦いに至るまでの政治的な出来事を描き、ノルマン征服の正当性を誇示するのがその目的だった
守られなかった約束
ヘースティングズの戦い以前、イングランドの王位を継承していたのは、デーン人(バイキング)を撃退した9世紀のアングロ・サクソン人支配者アルフレッド大王の子孫たちだ。アルフレッドに続く王たちは、強力な近隣諸国と政略結婚を行い、ノルマンディー半島周辺にも勢力をのばしていた。 彼らノルマン人は、800年代からフランス沿岸を襲撃していたバイキングの子孫だ。ノルマン人はキリスト教徒となり、侵略した土地の人々が使っていたフランス語を取り入れ、強大な力と富も手に入れた。 政略結婚は、後の時代の後継者問題の火種となることが少なくない。1002年、イングランド王エゼルレッド2世は、ノルマンディー公の娘エマと結婚する。彼らの息子エドワードは、1042年からイングランドを支配した。修道士のような風貌から、エドワードは「懺悔(ざんげ)王」と呼ばれた。 エドワードには跡継ぎとなる子どもができず、それが有力な貴族であるゴドウィンと、その野心的な息子ハロルドに付け入られる隙となった。フランスではノルマンディー公ウィリアムが自分の大叔母であるエマ(エドワード懺悔王の母親)を介して、イングランドの継承権を強く主張していた。 ノルマン人側から見た経緯によれば、エドワード懺悔王は1064年、ハロルドをノルマンディーに使者として送り、イングランド王位を継承するのはウィリアムであることを本人に確約していた。 ハロルドのこの任務は一筋縄ではいかなかった。船が難破したために、ハロルドはノルマン人貴族の捕虜となり、ウィリアムによって救出された。ハロルドはウィリアムの親切な行いに感謝し、彼の娘との婚約を受け入れる。 ハロルドは(1070年代のノルマン側の資料によると)ウィリアムに忠誠を誓い、エドワードが亡くなったときには、ウィリアムによるイングランドの王位継承を支持すると約束した。 対してサクソン人側の説はこれとは異なり、ハロルドはそんな約束はしていないとされている。 バイユーのタペストリーに描かれている場面は、ノルマン側の言い分を裏付けるものだ。ハロルドがウィリアムへの支持を誓う場面の厳粛さを描くことによって、ノルマン側の正当性と、その後に起こった出来事がノルマン人への裏切りであるという印象を強めている。その出来事とは、エドワード懺悔王が1066年に亡くなった後にハロルドが王位を掌握し、1月にイングランド王ハロルド2世として戴冠することだ。 激怒したウィリアムは、数カ月かけてノルマンディーで軍を整えた後、9月にイングランドに向けて出航した。才能ある司令官だったハロルドは、イングランド北部の反乱鎮圧にあたっていたときに、ウィリアムのサセックス海岸到着の報を受ける。すぐにありったけの兵と物資を集めて南下したものの、ハロルドはヘースティングズの戦いで最期を迎えた。ハロルドの死後、ウィリアムが王座につき、征服王と呼ばれた
征服の象徴
バイユーのタペストリーは、一般には、司教オドンが1070年前後にイングランドの職人に依頼して、ウィリアムの戦いを描いた巨大な刺繍作品を作らせたものとされている。多くの学者が、その目的は1077年に新たに建造されたバイユー大聖堂に飾るためだったと考えているが、真相はわからない。 現在このタペストリーは、ノルマンディーにあるバイユー・タピスリー美術館に飾られており、来館者は数枚の亜麻布からなる作品の全貌を見ることができる。毛糸で刺繍された60ほどの場面には、王、甲冑を着た兵士、人がいっぱいに乗った船、疾走する馬、野生の獣などが描かれている。 このタペストリーが歴史上の記録に初めて登場するのは1476年で、大聖堂の物品目録にその記載がある。学者らは、これは1年に1度展示されるだけで、その後は聖具室に保管されていたと考えている。1803年にはルーブル美術館に展示され、ナポレオンがこれを見たとも言われている。 バイユーのタペストリーは、今もなお征服の象徴とされている。1944年には、フランスのナチス占領軍が連合国軍の進撃前にこれをパリへ運んだが、街の解放前にそのまま放棄してしまった。連合国軍による上陸作戦の開始地点がノルマンディーの海岸だったことは、英国軍にとっては感慨深いものがあったことだろう。 バイユーにある英連邦戦死者墓地には、ラテン語でこんな碑文が刻まれている。「我ら、かつてウィリアムによって占領され、今、征服者の祖国を解放せり」
文=FERNANDO LILLO REDONET/訳=北村京子