最後の高座は1週間前の11月25日

 

よくぞ、頑張り続けました。

 

お疲れ様でございました。

 

 

 

 

 

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「偉大なる未完成で終わりたい」講談界初の人間国宝・一龍斎貞水さんが貫いた“大衆演芸の道”

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文春オンライン

 講談界初の人間国宝で、講談協会会長、第一人者でもあった一龍斎貞水さん(本名・浅野清太郎)が、12月3日、肺炎でこの世を去った。享年81。釈台の前で張り扇を叩くだけでなく、いち早く照明や音響を駆使した画期的な「新立体怪談」を考案し、昭和50年代、異色の講談師としてその枠を超え、各メディアで人気を博す。のちに「怪談の貞水」との異名も取った。

 

 

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8日、近親者で葬儀を終えたが、哀しみも癒えぬまま、気丈にも、経営する「酒席 太郎」のカウンター前に立つゆき子夫人がいう。 「いやぁ、今までよく頑張ったと思うわ。

 

最後の高座は1週間前の11月25日。

 

 

私は店があるから行かなかったけど、1時間、やりきったのね。たぶんこれが貞水さんの集大成で、燃え尽きたんだと思えるのよ……」

ガンを克服して高座に上がり続けた

一龍斎貞水さん ©共同通信社

 講談発祥の地とされる湯島天神。奇しくも貞水さんは、1939年(昭和14年)、この湯島天神男坂下に生まれ育った。かつて「この地で骨を埋めるんでしょうなぁ」と語っていたものだが、まさにその言葉通りの一生となった。  湯島天満宮の講堂内で毎月開催されていた自身主催の「連続講談の会」で、前座時代に覚え、よく語っていた演目「金毘羅利生記」が、人間国宝最後の高座となる。所属事務所「影向舎」の神和住岳士氏によると、 「きっとこの話が体に染み込んでいたんでしょう。『立てるのかな? 大丈夫かな』という状態でも、高座に上がると元気になる。10年以上前から何度もガンを克服してきたんです。

 

膀胱ガン、

両肺のガンでは半分近く肺を切除し、

前立腺ガン

にも罹っていました。

 

5度ほど『もうダメかもしれない』という場面を乗り切って来たんです。

 

特に喋る仕事ですから、両肺のガンの影響は大変なことでもありました。主治医が『それでもこんなに元気なのは、奇跡的だ』と貞水先生の症例を学会で発表したい、とおっしゃっていたほどでした」

最後の最期まで講談師だった

 ここ数年は常に酸素吸入器を手放せず、3階の居室から2階のリビングまで届く、2メートル以上もあるカニューレを引きずって階段を下りる毎日だった。しかし、高座ではけしてその姿は見せなかった。  ゆき子夫人はいう。 「病床で、意識も混濁しているなかで、最後まで耳は聞こえるんですってね。浅草公会堂の『スターの広場』に本人の手形の顕彰があるんだけど、その写真をスマホで見せたの。『ほら、浅草公会堂の、貞水さんの手形だよ!』って。そうしたらね、反応があったのよ。浅草公会堂って言葉に『出番だ』と思ったのかしら……。目を開いて、こう、手をね、小刻みに動かすしぐさをしたの。私には張り扇を打ってるように見えたのよ。最後の最期まで講談師だったわ……」  まさに「講談の申し子」「講談の中興の祖」でもあった

 

 

 

「とくに講談師になりたいわけでもなかった」

 以下は生前の貞水さんの、自分語りの“講談”である。 ◆ ◆ ◆  私の親父は「浅野宇晴」という日本画家でね。本郷三丁目にある毛織物問屋の長男でした。これが典型的なバカ旦那(笑)。道楽で始めた絵に、たまたま才能があったらしいの。私が生まれたこの湯島の家は、親父が絵の道具を置いたり、思いついて絵を描くのに使っていた長屋なんですよ。親父は結局、実家の財産を食いつぶしてしまってね。あちこちに家屋があったらしいけど、結局、湯島のここしか残らなかったの。  私はとくに講談師になりたいわけでもなかったけれど、勉強が嫌いだし、高校に行くのが嫌でね。親父が当時の講談組合頭取の邑井先生と仲が良くて、徒歩5分のところにあった講談専門の定席「上野本牧亭」によく連れて行かれたんです。それまで邑井先生のことを「骨董屋のオヤジか何かだろう」と思っていたのが、当時の文楽、志ん生、圓生などの落語の大看板でも、「あ、先生」と頭を下げるくらいのエライ人だったんだよ(笑)。  先生の口利きで先代一龍斎貞丈の弟子になるんです。私が入門した頃は、それこそ「講談界に秋の風」と新聞に書かれるくらい、惨憺たるものだった。老大家ばかりで、唯一10歳上の田辺一鶴さんがいただけでした。私のことを邑井先生の孫かなんかだと勘違いして、いそいそとお茶を運んで来たりね(笑)。そんなところに私みたいな16歳の若手が入ってきたって、喜んでもらえたなぁ。  

 

 

前座名は「貞春」。

初高座は昭和30年5月でした。

 

 

楽屋には邑井貞吉先生、師匠の貞丈はもちろん、木偶坊伯鱗や桃川燕雄などの大家に、「高座でやらなくてもいいから、この話をお前が覚えておいてくれ。直さないで、このまま受け継いでくれよ。そうしたら、この間教えてくれと言っていた話を仕込んでやる」って言われましてね。  当時、客は年配ばかりだし、「どうにか喋れるようになるまでには10年かかる」と言われていて、「10年後、はたしてこのお客さんたちはいるのだろうか」と考えて、今のままでの講談では若い人は見向きもしないと思い、ネタを作って、照明やら音楽を使っての「民謡講談」を始めたんです。民謡を漫才の松鶴家千代菊、千代若師匠に唄ってもらい、本牧亭のおかみさんの敷布を借りて、幻灯機で背景を映したりね。  これがヒントになって、ライトを顔に当てて効果音を使った演出の怪談を思いついたんです。今使っている釈台には、配電盤も入っていて、ライトも仕込んである特別なもの。一人でスイッチ入れたり消したりできるんです。今までいろいろ試行錯誤したけど、結局、怪談ってのは、ろうそく1本立てて炎がゆらゆらしてる前でやるのが一番怖いんですよ(笑)

 

 

 

 

 

伝統芸能である前に大衆演芸

 我々は、たとえば「太閤記」をひとつとして数えるけど、1回の高座で30分喋って、360席になるくらいの分量なんです。1回の高座として数えるとその数は莫大。誰も数えたことないの(笑)。勉強する場も高座も少ないから、若い連中はネタも増やさない。「古くてつまらない話だけど、いかに面白くできるかやってみよう」っていう気がないんだ。  講談は、伝統芸能である前に大衆演芸なんです。時代は変わっても人間の本質的なものは変わらない。大衆に受け入れられなきゃいけないですから、その時代に合わせて考えりゃいい。でも、伝統として守るものは守り、その上で新しいものを作る。私も昔、「型破り」と言われたけれど、型をマスターしたからこそ破れるんです。  私らの芸って、陶芸や絵と違い、完成されたものなんてないんでね。人間国宝――重要無形文化財保持者ってのは、「お前が持ってる、先達から受け継いだものを次の世代に伝えなさい」ってことなら気が楽だよね。私なんかで本当にいいのかと思ったけれど、「あの貞水がもらえたんだから、講談も捨てたもんじゃない、今度は俺だ」って若手が思うだろうしねぇ(笑)。 ◆ ◆ ◆

「偉大なる未完成」で旅立った

 2019年には神田松鯉が講談界2人目となる人間国宝に。

 

若き講談師、神田伯山も現在、八面六臂の活躍を見せている。  

 

前出の神和住氏は、貞水亡き後もその遺志を引き継いで「貞水企画室」の名を残し、生前の貞水肝いりの「伝承の会」を継続するという。 

 

「大阪には3つの講談協会が、

東京でも、貞水を会長とする講談協会とは別に、

神田派の日本講談協会があります。

東西の5つの協会で、

その所属に関係なく若手の講談師が一同に介して高座に上がるのが『伝承の会』です。

 

これは文化財保存事業の助成を受け、文化庁側も『今の講談界をまとめられるのは貞水先生しかいない』とおっしゃってくださっていたものなんです。貞水先生は『芸のケンカは同じ土俵でやるべし!』などと笑っていましたが。  そう、先生の座右の銘は『偉大なる未完成で終わりたい』でした。晩年は患いながらも、最期まで『あれもやりたい、これはこうしたい』と、それこそ偉大なる未完成のまま、旅立ったと思えるんです」  かつて老大家たちにすべてを託された16歳の青年は、講談界初の人間国宝・一龍斎貞水師となり、「後世に遺すべく、65年間、講談のためによくやってくれた」と、今、天上でその肩を抱かれ、口々に労われているに違いない。  その戒名は、「講龍院清卓貞水居士」。何ひとつ気負うことなく、自然体で生き抜いたひとりの講談師そのままだった。

佐藤 祥子/文藝春秋