たしかに、おにぎりでも、焼きおにぎりでもなく、

 

ちまき風の物が、何か偶然に、焼けたようになったものでしょうか???

 

火の中に落として、そのままになってしまったのかもしれません。

 

 

 

 

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石川で発見の「最古のおにぎり」、食用?厄よけ?今も謎

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朝日新聞デジタル

 

 

石川県埋蔵文化財センターで保管されている「チマキ状炭化米塊」=2020年9月30日、金沢市中戸町、三井新撮影

 

 

 

 

 日本の国民食の一つに数えられる、おにぎり。ご飯を握ってのりを巻けば出来上がる手軽さと、多彩な具を包み込むことで生まれるバリエーションの豊かさ。コンビニの棚の前で、「今日の二つはどれにしよう」と迷うのは、私(26)だけではないはずだ。 

 

 

【画像】焼きおにぎりにしては、やり過ぎ?とんでもない炭化  

 

 

 

 

天高く馬肥ゆる秋。おにぎり(シャケと昆布)を両手に、ふと思った。一体いつから日本人はおにぎりと付き合ってきたんだろう、と。  実は、石川県内にその有力な手がかりが残されている。  見つかったのは、昭和の終わりが近づく1987年11月、石川県旧鹿西町(現中能登町)金丸にある弥生時代中期の「杉谷チャノバタケ遺跡」だった。  「日本最古のおにぎり」と呼ばれたそれは今、遺跡から約50キロ離れた金沢市郊外の石川県埋蔵文化財センターにある。同センターの普及啓発担当の立原秀明さん(51)に見せてもらった。  半透明の容器の中、幾重にも重ねられた薄紙から出てきた。ほぼ二等辺三角形で、底辺約5センチ、他の2辺約8センチ、厚み約3・5センチ。重さ約23グラムで、見慣れたおにぎりと比べ、随分小さい。だが気になるのは、大きさよりも、その黒さ。  立原さんによると、蒸した後に焼かれたと考えられているという。  焼きおにぎりにしては、やり過ぎでは?  立原さんは「食用の可能性も否定できませんが、厄よけ用という説が有力です」。竪穴住居跡の内側の壁際で見つかったという。焼かれて米粒が炭化していたから約2千年後まで残る「奇跡」が起きたわけだ。  遺跡に人が住んでいた頃、すでに稲作は始まっていたが、おにぎりを食べていたかどうかは「分かりません」と立原さん。発見時には「最古のおにぎり」と報じられたものの、正式には「チマキ状炭化米塊(たんかまいかい)」という。作り方や用途、そもそも私たちが現在思い浮かべる「おにぎり」を当てはめることの是非も含め、議論が続いている。ちなみに、おにぎりが普及したと確実に言えるのは、戦国時代以降だという。  一方、2千年後の中能登町の人々とおにぎりの付き合いは深い。  「おにぎりのまち」をPRする町は、条例で11月18日を「おにぎりの日」と定めた。最古のおにぎりのレプリカを町内3カ所に置いている。  町内にある県立鹿西高校は93年以来、文化祭で「おにぎりコンクール」を開催している。今年は、生徒有志が地元食材を使った12のレシピを考案。保護者や管理栄養士らが見た目や独創性などを審査し、五つのレシピは、道の駅「織姫の里なかのと」で商品化されることになった。  このうち、すでに販売された「大葉香る古代米おにぎり」や「老若男女飯」(いずれも1個税込み150円、数量限定)は好評だったという。同校の岡山和美教諭(53)は「レシピがレシピで終わらずにおにぎりになることで地域の皆さんに喜ばれている」。駅長の田中雅晴さん(81)も「レシピは、まちの活性化につながっている」と話す。  おにぎりは人を笑顔にする。無性に、焼きおにぎりが食べたくなった。焦げ目を多くしてみようか。(三井新)

朝日新聞社

 

 

 

https://news.yahoo.co.jp/articles/6f4fd5f3969171044c2eab94fee4f78d375a748e