ニューヨークは、そして、

 

アメリカは、もう、とっくの前に、つまらなくなっておりますし、

 

マンハッタンや、パリのメトロにのったって、

 

例えば、

 

電車の、一両に、50人、人が乗っているとすれば、

 

90~95%は

 

50年前の、

 

典型的な、想像する、イメージ的な、

 

アメリカ人や、

 

フランス人では、ありません。

 

日本人が思う、そのような欧米人は、

 

50人中、5人?

 

いるか、いないか?の数です。

 

完全に、当たり前ですが、

 

移民の都市、

 

マイノリティーが多くを、占有する町に、なっております。

 

日本人が、イメージを抱くような、フランス人にあいたければ、

 

田舎に行くしかありませんし、

 

その中でも、少しは、洗練(???)されているかもしれない、

 

エレガントな人に会えるかもしれない?????

 

と、(何の、期待か、創造か、分かりませんがーーーー???)

 

思って、

 

「そういう人(イメージ上の人、想像上の人)たちは」

 

例えば、同じ農業でも、

 

ワインの生産地でしたら、

 

ボルドー、ロワール、ブルゴーニュ、シャンパーニュ、など、

 

そういうところに行って、先祖代々、世襲しているような、

 

そういうワイナリーのオーナー一族です。

 

 

昔ながらの(???)

 

まあまあ、そういうようなイメージで、、

 

まあまあ、良いだろうと、思われる国は、

 

ベネルックス三国(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)

 

ま、ドイツも(半分くらいのイメージで)含めましょう、

 

そして、北欧です。

 

そのほかの地球上の地域は、何か、期待外れな感じになってきております。

 

もう、これからの若い人々にとって、

 

フランスや、パリは、

 

「あこがれて、夢を抱いて」移住して住むような国では、

 

もう、ありませんので、

 

ただ単に、美しいところだけを見て回る、

 

観光で、見たいところを、何回も、何十回も、行けばよいだけの街であり、

 

地域であり、国に、なり下がっております。

 

今のアメリカだって、良いところ、まあ、感じがよい美しいところは、

 

私感ですが、

 

個人的な意見ですが、

 

ナパや、ソノマなどの、ワインカントリーの地域だけ、

 

感激するようなところです。

 

 

 

よって、もし、

 

これから、移住したいなあ、

 

長く住みたいなあ、

 

とか思う若者さんたちは、

 

オランダや、北欧を目指しなさい

 

 

矛盾するようですが、

 

日本人の若者全員が、欧米に、留学することは、

 

義務的に、

 

 

強制的に、

 

 

推薦します。

 

 

そして、男なら、

 

 

美人ですらっとして、そういう女性たちと、一度は、付き合いなさい。

 

 

 

人生が変わります。

 

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「日本に憧れる」フランス人が増加中…でも、そのウラで起きていること

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現代ビジネス

日本への憧れは強くなっている

 

 

 私は幼少期をフランスで過ごし、その後、日本で大学・大学院を出た後、再びフランスに帰ってきた。二度目のフランス生活はもう7年になるが、そんな中で近年、フランス人の日本への憧れはどんどん強くなっていることを実感する。 【写真】「日本のどこがダメなのか?」に対する中国ネット民の驚きの回答  同時に人々の生活の中にもかなり日本の文化が浸透してきた。日本語学習者でなくても、日本について何かと詳しい人が増えたのも確かだ。それには文学や映画が大きな役割を果たしているし(たとえば村上春樹は本当に多くの人が知っている作家だし、是枝監督はカンヌ映画祭でパルム・ドールを取る前から人気の監督だった)、和食ももはやブームどころかすっかりフランス人の生活に定着したと感じる。豆腐や味噌が家の近くのごく普通のスーパーに並んでいるくらいだ。  私の友人にも、仕事ではなくあくまで観光で、ほぼ毎年日本へ行っているという人や、もう10回以上日本に行ったなんていう人もいる。ある統計によれば、2015~2016年の1年間を取って見ると、海外へ行くフランス人観光客が選ぶ目的地のなかで増加率が1位だったのは日本だそうだ。  日本のイメージというのは近年、本当に大きく変わってきた。私の個人的な経験からではあるが、まずはそのイメージの変遷をたどってみたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本のイメージの変遷

 

 

 私が初めてフランスへやってきたのは1990年代の終わり。パリの現地の中学校に編入した。ある日、クラスの男の子がちょっと真面目な顔をして、「日本では生のお魚を食べるんだって?」と聞いてきた。その子が発した「生魚」という意味のフランス語の「poisson cru ポワッソン クリュ」はフランス語に馴染んだ耳には、顔をしかめたくなる響きを持っている。当時はまだ「刺身」と「生魚」の違いを説明するほどの語学力のなかった私は悶々としたことを覚えている。  別の子には、「お父さんはヤクザなの?」と半分真剣に聞かれて、笑ってしまったこともある。  子供のことなのでもちろん、大人ほどの知識量はないのは当たり前なのだが、その頃のフランスではパリですら「寿司」なんてほとんど食べられなかったし、せいぜいヤクザやゲイシャという言葉が知られている程度だった。その頃のフランス人の子供たちにとって日本という国は、全く知らない、あるいはどこか理解を超えた国というイメージだったのだ。  ところが、2013年に再びフランスへ戻ってきてみると、日本の認知度はかなり高まっていて、日本に憧れる子供たちも増えていた。  例えば、友人の小学生の娘さんが日本に夢中になっていた。私が遊びに行くと、「日本人なの? 日本語話せるの? 私は独学で日本語勉強しているの。日本のものならなんでも好きなの」と言いながら、和傘のおもちゃを大切そうに見せてくれた。私が中学の頃は、面白おかしく日本語の真似をするような子もいたが、今はそんなことはない。日本語は美しい言葉として認識され、友人の娘さんにも「ずっと日本語で話してほしい」とねだられた。  また、夕ご飯を作るのがめんどうくさい日はちょっと近くのお寿司をテイクアウト、なんていう会話もしょっちゅう聞かれるようになった。  もちろん、日本への憧れの強まるという現象はフランスではこれまでも何度か起きている。フランスの日本びいきには、長い歴史があるのだ。たとえば19世紀のフランスの印象派の画家たちに大きな影響を与えた浮世絵とジャポニズム。この言葉と日本への憧れというのは今日に至るまでずっとフランス社会の底流に存在している。  こうした憧れは絵画など特定分野に限られていたが、それが一般レベルにまで広がっているというのが、今日起きていることと言えるかもしれない。  日本からの情報量はさらに増え、絵画や文学作品だけではなく、日本発のアニメや漫画、ゲームなどのポップカルチャーも広く子供たちの世界に広がっていった。バブル崩壊直後はまだ日本へ行くにはお金がかかるというイメージがあったが、その後、金銭的にも比較的アクセスしやすい国になったのだろう。  こうして2000年代に入ってその憧れは「大衆化」したとも言えるのはないだろうか。そんな私も2014年から4年間ほど、日本の漫画の翻訳出版を専門とするパリの出版社に勤めていたのだが、その時にもこの日本ブームが年々盛り上がっていく様子には驚いたものだった。  大衆化した日本ブーム。これはもちろん、日本に関する認知度がとても高まったことを指し、日本のファンでなくても、大抵の人は日本がどこにある国なのかを理解し、ヤクザやゲイシャ以上の知識は持っているということだ。  しかしそれと同時に、誰もが日本について正しく、そして詳しい理解をしているわけではない。日本への憧れが強く、日本からの情報も溢れているフランスだが、結局多くの場合はざっくりしたイメージなんだな、というのがここ数年、フランスに暮らしながら気づいたことでもある。

 

 

 

 

 

 

 

「広く言えばアジア」という感覚

 

 

 

 パリを歩いていて「ニーハオ」と声をかけられるのには慣れてしまった。何度か、それは中国語、私は日本から来たのだ、と言ってみたがそれに対して相手の反応が薄かったことから、これは中国人と思われているというよりもむしろ「アジア人」と認識されているのだなと思うようになった。  夫の家族に「この前タイに行ってきたの。アジアの人はみんな親切ね」と言われたことがある。もちろん、私が「日本人」であることはみんなしっかりと認識しているのだが、その上で「アジア人として」の反応を求められたわけだ。  子供たちを預けていたシッターさんには3年間お世話になったのだが、その間ずっと私を中国系として認識していた。時々話の中で私は日本人なんだ、という話をしてみても、その時は「そうだったわ!」なんていうけれど、しばらくしたら忘れてしまっていた。彼女の中で中国系=アジア人だからだ。そこに悪気は一切なかった。  パリには和食ブームに乗っかってエセ和食店も増えた。メニューには寿司、焼き鳥が並ぶ。そんなお店で、中国語なまりの強くフランス語が覚束ない店員に一生懸命サーモンの巻き寿司を注文してみるとなんとも不思議な感覚になる。また、ベトナムの円錐形の麦わら帽子「ノンラー」を被ったキャラクターがシンボルの"restaurant japonais (和食)"店もある。  日本が大好きという人たちでも、日本人からしてみたらちょっとおかしな理解をしていることがある。つい先日、長年日本へ行くことを夢見る若い夫婦に、「日本食も日本文化も全て憧れ。特に和食のあのフライド・オニオンが大好物」と言われて首を傾げてしまったことがあった。  実は中国系の人たちが運営している寿司チェーン店には、海苔を巻く代わりに、細かく刻んでフライしたオニオンチップのようなものを寿司飯の周りつけたメニューがあるのだ。気をつけて見ていると、どのお店にもこのメニューがあることに気がついた。そして多くのフランス人にとってはこれらも「日本」の料理を出すレストランに間違いないのだ。  また、あるとき、友人が「最近、日本のドラマを観ていて、とっても面白い」というので何かと詳しく聞いてみると、実は韓国ドラマだったということも。  誰もが日本に住んだことがあるわけでもなく、どんなに情報量が増えたとしても、地理的には極東にある遠い国のこと。だからこうしてざっくりとアジアというイメージがあるのは、よく考えてみれば当たり前のことなのだと私も改めて気づかされた。

 

 

 

 

 

アジアにおける日本

 このように、日本から遠く離れた人々の日常生活の中では日本は立派にアジアの一員として見られている。そもそもイメージなのだからざっくりとしたことであるのは当たり前だ。しかしそのようなざっくりとした眼差しを受け止めた上で改めて自己を振り返ってみるのも面白いのではないだろうか。  フランスではアジア系とみられる日本人だが、自分たちがアジア人であるという意識が薄いというのはよく聞く話だ。  内閣府が行なっている世論調査に、世界のどの国に親近感を感じるかを問うものがある。2019年の調査では、たとえば「中国に親しみを感じるか」を聞いたところ、「親しみを感じる」とする人の割合が22.7%、「親しみを感じない」とする人の割合が74.9%という結果だったという。それに対し、アメリカに「親しみを感じる」とする人の割合は78.7%、「親しみを感じない」とする人の割合が19.1%という結果がある。  同様に、韓国に対しても、「親しみを感じる」という回答者は26.7%に対し、「親しみを感じない」とする者の割合の方が高く、71.5%だった。一方でヨーロッパに対する親近感は安定して高く、65%を上回っているのだ。  評論家の松本健一氏は、西欧を追いかけることにアイデンティティを見出していた日本人は1964年の東京オリンピックを境に、西欧化つまり近代化を成し遂げたと感じるようになり、同時に自らを「アジア人」とみなさなくなったという。実際に上記の意識調査を踏まえても、日本人がどちらの方角を見ているのかは明らかだろう。  『「日本人論」再考』を著した船曳健夫氏は、「西洋以外の社会として、最も早く近代化を果たし」た日本は、自らを「対西洋」という枠組みの中で定義してきたという。さらに船曳氏は「西洋の地域的歴史に属さない社会であるがため、近代化に成功しても失敗しても、自らの正当性を疑い、アイデンティティの不安を説明する「日本人論」を必要としてきた」のが日本だと指摘している。  コロナの流行が中国の武漢に現れ始めて少しした頃から、欧米で「アジア人差別」があるというニュースがあちこちで聞かれるようになった。実際にフランスにいる私の周りでも、日本人の友人が変な目で見られたとかいう話もなかったわけではない。しかし私が興味深いと思ったのは、日本人たちが突然「アジア人」として自分たちを再認識したことだった。  日本にいる人たちから「アジア系が標的になることがあるらしい、気をつけて」と心配された。日本人がこうして自らをアジア系と認識したことを新鮮なことに感じたのは私だけだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

視点の多様性

 少し日本の外に出たら、たいていは日本人が思うよりももっとざっくりとしたイメージで括られているものだ。「中国人となら文化的にも言語的にも近いから分かり合えるでしょ」と言われたことも何度かあるが、それは驚くことではないし、必ずしも間違っている指摘ではないと思う。こうして、一歩引いた場所から、日本がどのように見られているのかを知ることは面白い。他人からどう見られているのかということで自分の姿を知ることができる。  ただ、さらに重要だと思うのは、日本の場合は海外の視点というのがもっぱら「西洋諸国」からの視点に集約されてきたということだ。私は、こうした「外からの視点」はより多様であるべきだと思う。  昨今、コロナの感染防止対策として政府は、日本に生活基盤を持っていても「外国籍」の人は再入国を認めない措置をとっている。大江健三郎氏は1993年に行われた「回路を閉じた日本人ではなく」という講演の中で、すでに日本人は「日本人のみの閉じた回路を保つことはできなくなっています」と述べている。遠くの国で日本がどのように見られているのかということから得られる示唆もあるだろう。  しかし同時に、日本に生活基盤を持っていながら、あるいは日本人の家族を持っていながら、ある日突然「外国籍」という理由で排除されてしまった人々に、日本のイメージを聞いてみたい。きっと新しい、刺激のある、そして現実的な日本が浮かび上がると思うからだ。

大野 舞(ライター)

 

https://news.yahoo.co.jp/articles/5be42cc9e200e013c13f62fb83eb1b386a5cc29d?page=4