100年前5億人が感染したスペイン風邪 なぜ日本も終息に丸2年かかったのか?
4/14(火) 17:00配信
今次コロナ禍では緊急事態宣言が1都6府県に発令され、いよいよ欧米に準じる感染の爆発的拡大が喫緊の問題となってきた。焦眉の関心事は「このコロナ禍はいつ終わるのか」ということである。
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5億人感染のスペイン風邪は「絶好の教科書」
当初「夏になれば自然に終わるのでは」という楽観論があったが、低緯度地帯(マレーシア・ブラジル・インドネシア等)でも感染者が激増している現状、気温と感染拡大の相関は「あまりなさそう」である、というのが正直なところか。感染症の専門家も、今次コロナ禍がいつ終わるのか、誰しもが断定できる状況ではない。
しかし私たちは、過去に目を転じて、過ぎ去った厄災の軌跡から現在にその教訓を汲み取ることはできる。ちょうど100年前に全世界的に流行し、世界人口の約1/3にあたる5億人が感染。そのうち2000万から4500万人の命を奪った「スペイン風邪」のパンデミックは、私たちに様々な知見を与えてくれる絶好の「教科書」となり得よう。
1918年~1920年にかけてパンデミックを引き起こしたスペイン風邪は、元来その発症地点がアメリカ・カンザス州の米陸軍兵営であったが、当時第1次大戦中で戦時報道管制の枠外だった中立国のスペインから情報が世界に発信されたことにより「スペイン風邪(スパニッシュ・インフルエンザとも)」と名付けられ、おおむね1918年9月末から10月初頭にかけて船舶を通じ日本に上陸した。
スペイン風邪には“第2波”があった
『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(藤原書店)の著者、速水融氏(以下速水)は日本におけるスペイン風邪を『前流行』(1918年11月~1919年6月)、と『後流行』(1919年12月~1920年6月)の2期に分けて分析している。一方、スペイン風邪が終息して約2年後の1922年、事態の対処に当たった当時の内務省(同省衛生局、以下内務省)を編として出された報告書『流行性感冒「スペイン風邪」大流行の記録』では、スペイン風邪の日本における流行を第1回、第2回、第3回の3つに分けている。速水の基準で言えば、内務省定義の第1回流行は『前流行』に。第2回の半分と第3回は『後流行』におおむね含まれる。いずれにせよ、スペイン風邪のパンデミックは、1回で終わることなく、大きく数回の波を経て到来し、丸2年をかけて漸く終息したという事になる。
内務省の記述で興味深いのは、第1回流行を記した次の個所である(*筆者にて現代語訳等している)。
<本病の死亡者数は大体において発生患者数と相平行して増減ありといえども、患者に対する死亡比例は最初は比較的低く、流行の経過とともに漸次その率を増せり(中略)かくの如く患者に対する死亡率の漸次増加を示したるゆえんは、大体において病勢に関係せるものにして、初期においては虚弱者、老幼者を除きては死亡するもの少なかりしも、流行の経過とともに病勢悪変し肺炎を併発する者多く、これがために虚弱者のみならず強壮者にて倒れたる者、少なからざりしと、その他種々の後発症により死の転帰を取りたる者多数あり(後略・内務省,106)>
つまり最初は身体弱者に死亡者が多かったが、感染が拡大するにつれて体力のあるものでも死亡するようになったという事で、これは現在のコロナ禍における欧米の事例とよく似ていると言えるだろう。感染者数が増大するにつれ、その犠牲者はしだいに壮健な者にも及んでくるという故事は、あらゆる感染症にとって例外ではない。
なぜ“第2波”のほうが死亡率が高いのか
内務省の記述では、第2回の流行が最も死亡率が高いとし、第3回は残存する未感染地域の地方や郡部が主だとしている。総じて第2回の流行では、第1回で感染していないものは比較的重症になりやすく、第1回ですでに感染している者が「再感」した場合は軽症だとある。内務省は以下3波における感染者と死亡者と死亡率をあげているので引用する。
<第一回流行(1918.8-1919.7)
感染者:2116万人 死者:25万7000人 死亡率:1.22%
第二回流行(1919.10-1920.7)
感染者:241万人 死者:12万8000人 死亡率:5.29%
第三回流行(1920.8-1921.7)
感染者:22万人 死者:3600人 死亡率:1.65%
(内務省,104)>
この数字を見る限り、第1回流行(速水『前流行』)での感染者が圧倒的に多いが、死亡率は1.2%強。遅れてやってきた第2回流行(速水『後流行』)では感染者数は第1回の1/10程度だが致死率は約4~5倍の5.3%弱にも及ぶ。最終的に速水によれば、日本内地の総人口約5600万人に対して約45万人が死亡。総人口に対する死亡率は0.8%となっている(朝鮮・台湾等を含めると0.96%)。
第1回の流行では感染せず、免疫を獲得できなかった者が、第2回の流行で直撃を受け、重症化し死に至ったことが推測される数字となっている。これを以て「新型コロナウイルスには早期に感染し、免疫抗体を獲得した方が得」との教訓を導き出すことはできないが、「パンデミックは数次にわたって起こる」こと。「パンデミックの波の後になればなるほど重症化する例が多い」というのはスペイン風邪のたどった揺るぎない事実である。つまりパンデミックは津波のようなもので、第1波が押し寄せて収まったと思ってもまたすぐに第2波、第3波が来る、という事実を示している。
仮に新型コロナが夏に1度収まっても……
よって今次コロナ禍にこの法則を援用すれば、仮にパンデミックが夏にいったん収まったと仮定しても、第2波の発生をすぐに警戒しなければならない、という理屈になる。パンデミックは、1回押し寄せただけでは足らず、第1回で感染しなかった者や感染者数の薄い地域を狙い撃ちするかのように第2回以降が発生する可能性があることは、スペイン風邪の経緯から学び取れる重要な教訓である。
ちなみに速水によれば『前流行』と『後流行』の致死率の差に着目し、ウイルスの毒性に変化が生じた可能性に言及しているが、実際のところウイルスが変異したのかどうかについてはよくわかっていない。
スペイン風邪 日本で「21歳~40歳」の死者が多かった事情
内務省は同様に、年齢別患者割合と死亡率の割合(1918-1919年間)も出しているが、こちらも興味深いので引用したい(※筆者により数値や表区分は適宜調整した)。
この数字を見ると、一般的に身体弱者とされる5歳以下の小児と61歳以上の比較的高齢の者の感染割合が全年齢階級に対しそれぞれ約13%、4%であり、全感染者に対する年齢階級別死亡割合も約16%、6%と低いと感じられよう。しかし、この時期の日本人の平均寿命が、現在よりもはるかに短い44-45歳であったことを考慮しなければこの統計の正確な解釈はできない。すなわち大正期における日本人の平均寿命を考えれば、61歳以上の人間の絶対数が少ないのである。
感染、死亡割合共にもっともボリュームゾーンとなるのは21歳以上40歳以下の青年層で感染が35%弱、死亡が40%弱と全体のほぼ4割を占めている。が、現在で考えれば彼らは青年であっても、当時の社会では青年~壮年を含む広範な年齢階級であった。つまりスペイン風邪によって、大正時代の日本社会は労働力の中核を担う青年・壮年層で最も多くの死者を出し、続いて20歳以下の「ティーンかそれ以下」と合わせて感染者全体の8割弱、死者全体の同じく8割弱が倒れたのである。
この事実は高齢化が著しく進み、男女ともに平均寿命が80歳を優に超えた現代にとってあまり参考になる指標ではないかもしれない。寿命が現在の半分強しかなかった100年前の日本は、社会を構成する人間の多くが(現代から見ると)著しく若く、高齢者がそもそも少ない状態であった。この時代の死因1位はいわずもがな「結核」である。公衆衛生と医学が発達し、寿命が倍近く伸びた現在、パンデミックによって「働き盛り」がバタバタと倒れていく大正時代の光景の再来は「あまり」考えづらいと言える。
とはいえ当時のスペイン風邪によるパンデミックの刃は、全年齢層にくまなく襲い掛かったのもまた事実であった。
現代のパンデミックは、明らかに守るべき対象――高齢者や基礎疾患保有者が明確に存在しており、社会の全年齢階層を巻き込んでの大流行への危惧は杞憂と言うべきではないか。このような社会構成の違いも、パンデミックを俯瞰して考えるためには踏まえるべき重要な歴史的事実である。
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100年前も“マスク転売ヤー”が? スペイン風邪45万人が死んだ日本、大正の人々はどう生き抜いたか へ続く
古谷 経衡
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