織田信長が築いた「最古の天守台の石垣」か? 岐阜城で一般公開始まる

1/14(火) 19:37配信

メ〜テレ(名古屋テレビ)

 

 かつて織田信長が拠点としていた岐阜城

 400年以上の時を経て、信長が造ったものとされる石垣が見つかり、14日から一般公開されています。

織田信長ゆかりの城 岐阜城

 岐阜市の中心、金華山(きんかざん)の山頂にそびえたつ岐阜城。

 かつて、織田信長が拠点としていた岐阜城ですが、1601年に徳川家康によって廃城にされ、現在の天守は、64年前に建てられたものです。

 

400年以上の時を超え現れた天守台の石垣…日本最古か?

「今回の調査では、岐阜城で信長期の本物の天守台が初めて見つかった」(岐阜市 柴橋正直市長 7日)

 岐阜市は、2019年10月から岐阜城の石垣について調査を進めてきました。
 そして12月、天守の西側で、信長の時代に作られたとみられる石垣が見つかったのです。

「びっくりしました、とにかく本当かなと。興奮しましたね」(岐阜市 社会教育課 内堀信雄 課長)

 諸説ありますが、これまで、最も古い本格的な天守を持つ城は、信長が現在の滋賀県に築いた安土城とされていました。
 
 しかし、今回の発見によって、岐阜城が「日本最古」である可能性が出てきたのです。

「今回あらたに発見された石垣ですが、大きな岩と岩の間にある細かい岩が詰められているのが信長の時代の特徴だといいます」(記者)

 

石垣の積み方に「信長の城」の特徴が

 信長の時代の石垣にみられる特徴。それは「間詰石(まづめいし)」と呼ばれる小さな石です。

「石材を積んでいくときに表面に隙間ができる。石が接しているのは奥のほう。奥の方で石を合わせるのは信長が作った石垣の大きな特徴です」(内堀さん)

 この構造は、信長の時代以降に多く、信長が最初に作った可能性が高いとみられています。

「極めて重要な発見だったと思います。資料的に裏付けることは(資料が残っていないので)不可能だと思う」
「(天守台)の隅が4カ所あるとすると、今回は1カ所しか確認できていないので、残りの平面を明らかにすることが大事だと思う」(史跡岐阜城跡整備委員会 中井均 委員長)

期間限定の一般公開は初日から人気

 一般公開は14~18日までの期間限定。
 初日だけで約400人の人が石垣を一目見ようと岐阜城を訪れました。

 「せっかくなので写真を撮って帰ろうと思った。感動します、登ってよかった」
 「(岐阜城が)盛り上がるといいですよね。(石垣を)きちんと保存してもらえれば」

 市は今後も調査を続けるということです。

 

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200114-00010000-nbnv-sctch



(1月14日(火) 15:46~放送 メ~テレ『アップ!』より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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戦国時代[編集]

  • 1525年大永5年) - 斎藤氏家臣の長井長弘長井新左衛門尉謀反を起こして稲葉山城を攻撃。長井氏の支配下となる。
  • 1533年天文2年) - 新左衛門尉が没すると、その子、長井新九郎規秀(斎藤利政、後の斎藤道三)が後を継ぎ、城主となる。
  • 1539年(天文8年) - 守護代になっていた斎藤利政が、稲葉山山頂に城作りを始める。
  • 1541年(天文10年) - 利政が守護土岐頼芸を追放。
  • 1547年(天文16年) - 織田信秀、頼芸派の家臣と稲葉山城下まで攻め入るも大敗(加納口の戦い)。
  • 1554年(天文23年) - 利政、城と家督を嫡子斎藤義龍に譲り剃髪、道三と号する。
  • 1556年弘治2年)4月 - 義龍、長良川の戦いにより道三を討ち取る。
  • 1561年永禄4年)5月 - 義龍の急死により、斎藤龍興が13歳で家督を継ぎ、城主となる。
    • 同年6月 - 十四条の戦いに勝利した織田信長が稲葉山城を攻めるも敗退。
  • 1564年(永禄7年)2月 - 斎藤氏の家臣であった竹中重治安藤守就が造反して挙兵。稲葉山城を攻める。龍興らは城を捨て鵜飼山城へ逃げ、竹中らが城を半年間占拠する。
  • 1567年(永禄10年)9月 - かねてから美濃攻略を狙っていた織田信長が西美濃三人衆の内応により稲葉山城下に進攻(稲葉山城の戦い)。龍興は城を捨てて長良川を舟で下り、伊勢長島へ逃亡した。
    • 同年 - 信長は、本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し、古代中国で王朝の文王が岐山によって天下を平定したのに因んで、城と町の名を「岐阜」と改めた。この頃から信長は「天下布武」の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになった。
  • 1576年天正4年) - 信長は嫡子織田信忠を岐阜城の城主とし、織田家の家督及び美濃、尾張の2ヶ国を譲る。岐阜城の整備改修は信忠によって更に追加された。
  • 1582年(天正10年)6月2日 - 信忠が本能寺の変で倒れると、留守居であった斎藤利堯が岐阜城を掌握し、美濃瑞龍寺崇福寺・千手堂・西入寺に禁制を掲げた。しかし、明智光秀羽柴秀吉に敗れると6月20日頃、不破郡長松に出向き織田信孝らに服した。
    • 同年6月27日 - 清洲会議により信孝が兄・信忠の遺領美濃国を拝領、岐阜城の城主及び、信忠の嫡子三法師の後見となる。
    • 同年12月20日 - 羽柴秀吉、丹羽長秀池田恒興の嫡男・元助らの兵が岐阜城に迫ったため講和し、三法師を引き渡した。
  • 1583年(天正11年)4月16日 - 信孝は長島城主の滝川一益と呼応し再度挙兵。しかし美濃返し(賤ヶ岳の戦い)によって柴田勝家が敗れ、兄・信雄によって居城の岐阜城を包囲されると、これに降伏した。城からは逃亡が相次ぎ降伏時の人数は27人であったという。その後、信孝は切腹させられた。
    • 同年5月 - 池田恒興が美濃国にて13万石を拝し大垣城主となると、池田元助が岐阜城主となる。
  • 1584年(天正12年) 小牧・長久手の戦いで池田恒興と元助が討死。
  • 1585年(天正13年)恒興の次男・池田輝政の居城となる。
  • 1591年(天正19年)4月 - 転封により、輝政に代わって豊臣秀勝が岐阜城の城主となる。
  • 1592年文禄元年)9月9日 - 豊臣秀勝が没すると、織田秀信(幼名・三法師)が美濃国岐阜13万石を領有し岐阜城の城主となる。
  • 1600年慶長5年) - 織田秀信は、石田三成の挙兵に呼応し西軍につく。関ヶ原の戦いの前哨戦で、岐阜城に立てこもるが、福島正則や池田輝政らに攻められて落城岐阜城の戦い)。秀信は弟秀則と共に自刃しようとしたが、輝政の説得で降伏する(のち1605年(慶長10年)に死亡した)。
  • 1601年(慶長6年) - 徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌に10万石を与えて、加納城を築城させる。その際、岐阜城山頂にあった天守、櫓、山中、山麓の石垣などは加納城に、焼け残った御殿建築は大垣市赤坂のお茶屋敷に移されたという。岐阜城が山城であることに加えて、かつて信長が天下取りの意思を込めて命名した「岐阜」という地名を家康が忌み嫌った(徳川氏に代わる天下人の出現を髣髴させる)からだともいわれている。

岐阜城の復興天守

 

 

二階堂氏及び伊賀氏
美濃斎藤氏及びその家臣
織田氏及び豊臣氏家臣

 

山城。京都に対して東の要所に位置し、急峻な山容の金華山からして難攻不落の名城として知られているが、内部からの裏切り(竹中重治)や籠城時点で兵力が少なかった(賤ヶ岳、関ケ原の時)などの理由で歴史上5回の落城にあっている。山頂部は痩せ尾根を切り開いたり石垣で郭を造成してはあるが、基本的に平坦面は少ない構造となっている。

またチャートの堅い岩盤であるが故に井戸を掘っても水は出ず、雨水を貯める物となっている

狭い曲輪の上、水の確保が難しい為、籠城には不向きである。

 

織田信長時代には、山頂部には信長の家族や人質が暮らしていたことが、1569年(永禄12年)来岐した宣教師ルイス・フロイスの書簡から伺える。その構造は斎藤道三時代に遡るだろう。岐阜城は小牧城安土城と同じく、城下町を見下ろす景観に優れる。道三時代までは戦国期の典型的な詰城であったが、信長入城からは戦いの為の城でなく、基本的に城主の居住空間であり、見せる城であった。

山麓に城主の居館があったとされるが、信長は山頂に居住していた為、山麓の建物は政庁、もてなしの為の物としての意味合いが強い。

京都へ進出する為に公家や商人をもてなすための迎賓館ともとれる豪華絢爛な建物があったとされ、巨石を用いた石垣や高石垣多数の庭や池が発掘調査で発見されている。

こういった手法は、小牧山城からも見られるものである。

加納城の御三階櫓復元図

天主・天守[編集]

信長・信忠時代の岐阜城
  • 麓に天主(てんしゅ)と呼ばれる御殿があり、そこへ通じる道の両側に当時は巨石を立て並べた塀がめぐらされて、その先の上段の「千畳敷」と呼ばれるところにその御殿があった。当時としては珍しく、南蛮様式を取り入れた4層[5]の華麗なものであったという。宮上茂隆の説[6]によると、京都天竜寺の僧侶である策彦周良による命名とされる。現在、御殿跡は岐阜公園の一部として整備されており、2018年で発掘調査が一旦終了されている。
  • 山頂にも「てんしゅ」があり、こちらは「天守」と書いた。「天守」は池田輝政時代に改変され、岐阜城廃城及び、加納城築城によって他の建物と共に加納城二の丸北東隅櫓「御三階櫓」として移築されていたが、1728年(享保13年)の落雷によって焼失している[7]。なお古絵図によれば、元々4層だったものを3層に改変された後がある。この事から、元々4層4階、または4層5階だった可能性がある。
  • 諸説あるが、信長時代に山頂には平屋程度で天守と呼べる高層建築は無く、信忠時代に高層建築が建てられたという説もある。 
復興天守(初代)
  • 1910年(明治43年)5月15日落成。木造・トタン葺き3層3階建て、高さ15.15mで、長良橋の古材を利用し岐阜市保勝会の手によって建てられた。内部は吹き抜けであったらしい。当時は、夜も常駐する職員が居た。日本初の城跡に常設された観光用模擬天守とされる[8]1943年(昭和18年)2月17日、失火のため焼失した。
復興天守(再建)
  • 1956年(昭和31年)7月25日落成。鉄筋コンクリート建築3層4階建て。延べ面積461.77、棟高17.7m。天守の設計は加納城御三階櫓の図面や古文書、丸岡城など参考に城戸久名古屋工業大学名誉教授が設計、大日本土木が施工した。再建時の『岐阜城天守閣再建設計図』の複製が岐阜県図書館に所蔵されている。ただし、建てられた天守閣は設計された物とは異なる。
  • 3階までは史料展示室、4階は展望台となっており、長良川や岐阜市街を一望する事が出来る(1階:武具の間、2階:城主の間、3階:信長公の間、4階:望楼の間)。
  • 天守の所在地は「岐阜市天主閣18」であり、「天守」ではなく「天主」表記である[9]
  • なお、一部のウェブサイトでは「岐阜市金華山天守閣18」の表記も見られる。

支城[編集]

丸山砦
  • 現在金華山トンネルが通っている丸山の山頂にあった。元々は伊奈波神社の敷地であり、諸説あるが城域になるのと、城が神様を見下ろす事になるので、岩戸の物部神社と合わせて伊奈波神社を現在の位置に斎藤道三により移転させた。山麓の御手洗池は、神社に参るための手水の名残池。
松田尾砦
  • 上格子門から東に下った所に、数段の削平地と共に石垣が残るが整備されていないので、かなり崩落している。正式な道も整備されていないので見学は不可。
稲荷山砦
  • 現伊奈波神社の北側の山の美峰稲荷神社境内が、その跡地。
稲葉山砦
  • 稲荷山砦から更に登った山頂にあった。
相場山砦
  • 現在はNHKの中継基地が建つ。
権現山砦
  • 現伊奈波神社の南側の山にあった。現在は「時の鐘」が建つ。岐阜城の戦いでは、松田重大夫が守備に着いた。この山の麓から岐阜町を囲む堀と土塁が西へ伸びていた。コンクリートで蓋をされているので容易に判る。現在の長良橋通りと交差する場所に「平田橋跡」とあり、橋がかかっていたことが確認出来る。なお、堀より中を「内町」、外を「外町」と呼んでいた。岐阜街道が通っていたと所などは木戸があり、番所もあったと思われる。
瑞龍寺山砦
  • 金華山南西の瑞龍寺山(通称:水道山)に存在した。岐阜城の外山に当たる砦。砦の正確な位置は特定できていない。南麓の瑞龍寺から山道が伸びており、北麓で七曲口に合流する(現在、山道の大半は金華山ドライブウェイとなっている)。稲葉山城の戦いでは、佐久間信盛柴田勝家が攻めた。岐阜城の戦いでは、河瀬左馬之助が守り、浅野幸長一柳直盛井伊直政が攻め込んだ。
  • なお瑞龍寺山砦のように、金華山から連なる外山にも数多くの砦が存在していた事も分かっているが、調査がまだ不十分で確認されていない砦も多くある物と思われる。また外山は正式な城域では無く、瑞龍寺や上加納村、岩戸村などが所有の権利を持っていた。

天下第一の門