「カレーの街」
カレー(フランス語: Calais、オランダ語: Kales、西フラマン語: Cales)は、フランス北部パ=ド=カレー県の都市。ドーバー海峡(カレー海峡)の海底を英仏海峡トンネルが通りイギリスのフォークストンと結んでいる。
前近代からグレートブリテン島と大陸ヨーロッパを結ぶ玄関口として重要視され、フェリー港や貿易港として栄えてきた。しかし、最近では40 km離れた位置にあるダンケルクにその役割を奪われつつある。
歴史[編集]
古代ローマ時代から、ブリテン島を結ぶ中継地として栄えてきた。百年戦争中の1347年、長期間の包囲の末、イングランド軍によりカレーは占領された。サン・ピエールと5人の市民が、イングランド王のエドワード3世の前に出頭し他の市民を救った。この逸話はロダンの彫刻『カレーの市民』の題材となっている[1]。百年戦争の敗北で、1453年以降カレーは大陸における唯一のイングランド領となり、下院に議員を送っていた[2]。第六次イタリア戦争中の1558年1月7日、ギーズ公フランソワがイングランドからカレーを奪還した(カトー・カンブレジ条約)。ユグノー戦争末期には一時スペインに占領されるが、1598年にヴェルヴァン条約によってフランスに返還された[3][4]。第一次世界大戦や第二次世界大戦では戦場となり、市街地が破壊された。
2015年、カレー市の市有地(18ヘクタール)に難民キャンプが整備された[5]。当初、数百人だった難民の数は、イギリスへの密入国を目指す中東やアフリカからの難民や移民らが集まったことで3,500人に増加した[5]。この難民キャンプは「ジャングル」と呼ばれており、不衛生な環境と食料不足が懸念されている
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神保町はいつから「カレーの街」になったのか
9/28(土) 6:00配信
今や「カレーの街」としてすっかりおなじみとなった神田神保町。神保町を中心とした神田界隈には、400店以上のカレー提供店が軒を並べる。これだけ多くの、そして多様なカレー店が集まる街は、世界でも類を見ないといわれる。
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なぜ神保町はカレーの街になったのか。そこで、過去の雑誌をさかのぼり、いつ、どのようにして神保町が“カレー街化”したのかを探ってみた。すると、予想外の歴史がそこから見えてきた。
■本を片手にカレー?
神保町がカレーの街となった理由としてよく挙げられるのが、「買ったばかりの本を片手に読みながら食べるのに、カレーはぴったりだった」という説だ。
神保町界隈には、明治時代から多くの学校が集まり、学生街として発展した歴史がある。それに伴い、早くから書店街が形成され、現在も150店以上の古書店が集まる。これは本の街としては世界一の規模だという。なるほどそんな街ならば、すぐに本を開きながら食事がしたい、という説にも一定の説得力が出てくる。
ところが界隈でカレーを食べていても、そうした光景にはなかなか巡り合えない。神田カレーグランプリを主催する神田カレー街活性化委員会委員長・中俣拓哉氏はこう話す。
「実際のところ神保町界隈のカレー店の多くはお客で混み合っていたり、席数が多くなかったりして、本を読みながらゆったり食べるような雰囲気ではないんですよね。私もそういう人はあまり見たことがありません」
はたして神保町は、いつ頃から、どのようにしてカレーの街となったのだろう。そこで、日本唯一の雑誌図書館である大宅壮一文庫(東京都世田谷区)にて、過去の雑誌の記事をあたってみることにした。
館内の端末で検索したキーワードは「カレー 神田」「カレー 神保町」の2通り。いざ出てきた誌面を俯瞰してみると、時代の“断層”のようなものがくっきり浮かび上がった。なんといっても意外だったのが、2000年より前は「神保町=カレーの街」というのがそれほど浸透していなかったことだ。
■1990年代後半は「知る人ぞ知る」
・「ラーメンのメッカは荻窪。それでは、カレーのメッカはど~こだ? 知る人ぞ知る、それは神保町なのである」(東京人 1998.06)
・「荻窪や恵比寿といえばラーメンが有名だが、カレーのメッカは? 何を隠そう神田神保町なのである。理由はよくわかりませんが」(散歩の達人 1999.02)
1990年代前半時点では神保町=隠れたカレー街、という雰囲気だ。1990年代後半になっても、まだ「知る人ぞ知る」という扱い。そもそも1990年代は検索にヒットするもの自体がかなり少なかった。
当時すでにカレーの名店はいくつもあっただけにカレー好きには「神保町=カレーの街」というのは周知の事実だったかもしれないが、一般的にはまだほとんど知られていなかったのだろう。
しかし2000年代初頭、神保町カレー特集のラッシュが起こり、状況は一変する。
・「この街には、カレーの店がずいぶんあって、いずれもうまい」(東京人2000.02)
・「神保町はカレーの超激戦区。『この一角だけで35軒以上あります』」(散歩の達人 2000.04)
・「神保町には、古書の街という顔とは別にカレーの街という顔もあることを知ってましたか?」(Hanako 2000.5)
・「食べたくなったらカレータウン神保町へ」(BRUTUS 2000.6.15)
・「洋食、中華、定食屋、喫茶店などでカレーを出している店は80軒は下らない」(dancyu 2000.7)
・「なんだか突然のカレー流行りである(中略)ブームの“発信源”の神保町を改めて歩いてみた」(Title 2000.8)
・「本の街? スポーツの街? 楽器の街? いやいや、店ごとに独特の進化を見せる、カレー最先端の街!」(東京ウォーカー 2002.5)
このほかにも多くの特集がこの時期に組まれており、こうして集中的に取り上げられることで、神保町=カレーという認識はかなり一般化したのではないか。だから、いつからカレーの街になったかという問いに対しては、マスレベルに浸透し始めたこの2000年代初頭というのが1つの答えになるかもしれない
では、神保町は「なぜ」カレーの街になったのか。きっかけの大きな1つと考えられるのが、1978年に神保町にオープンしたボンディだ。当時珍しい高級路線の欧風カレー店でありながら、開店から半年ほどで行列のできる大人気店に。
以降、まんてん(1981年)、ガヴィアル(1982年)、ペルソナ(1983年)、マンダラ(1985年)、エチオピア(1988年)、トプカ(1994年)、カーマ(1995年)などのカレー専門店が続く。
ボンディ以前も、共栄堂やキッチン南海といった人気店はあったが、1970年代より前にカレー専門店はまだほとんどなかったという。ところがボンディが登場して以降の十数年間で、今も続くカレー専門の名店が次々登場した。カレー店の出店は、1980年代から1990年代にかけて起こったエスニックブームも追い風になっただろう。
■「聖地」でカレー屋をやりたい
そしてもう1つ大きかったと思われるのが、やはりメディアの力だ。1990年代の時点で神保町には前述のとおりカレーの名店が集まっていたが、雑誌などのメディアが2000年以降にそれを“発見”したことで、神保町=カレー街という概念がはっきりと視覚化された。
その後、インターネットが広く普及し、加えてグルメサイトが台頭したことで、情報がより広がりやすくなる。さらに2011年からは神田カレーグランプリがスタート。これが毎年4万~5万人を集客する大イベントとなったことで、神保町=カレー街という構図は一層強化されたのだろう。
実際、神保町界隈のカレー提供店は、2000年以降も大きく増えているという。もともとカレーの名店が集う下地があるところに、メディアによる拡散でそれが広く知れ渡るようになり、以降は「カレーの名店群が後続のカレー店を呼ぶ」というスパイラルがより強化されていったイメージだ。結果、世界でも類を見ないカレー店の一大聖地が誕生する。前述の神田カレー街活性化委員会・中俣氏は言う。
「店主さんたちに出店した理由を尋ねてみると、多くの方が『どうせカレー屋をやるのなら、神保町界隈に出したかった』と話されます。また、神田カレーグランプリを始めてからは『なんとかグランプリを獲りたい』と、神田にわざわざ支店を出すチェーン店も目立つようになりました」
雑誌の過去記事から見えてきた、神保町のカレー街化の意外な側面。インターネットに膨大な情報が上がる現代にあって、当時の空気がそのまま保存された古い雑誌の誌面はある種の秘境といえるかもしれない。そんな秘境を古書店であさり、その足でカレーを食べるなんて時間を過ごすのに、神保町以上にうってつけの場所はないだろう。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190928-00305298-toyo-soci&p=3
田嶋 章博 :ライター、編集者