日本・ベトナム文化友好協会理事長

 

 

杉さんは、ヴェトナムに、相当、貢献されていますね!

 

また巣立った子も含め今までに100人以上のベトナムの子の里親となる

 

芸能人の中でも、相当の部類で、他国に貢献されておられる方でしょう?

 

現在の夫人は、演歌歌手の伍代夏子

 

そうだったんですか?

 

知りませんでした。

 

慈善活動[編集]

15歳でボランティア活動を始める。

日本の刑務所への受刑者慰問活動も積極的に展開し、“矯正活動への多大な貢献”により、法務省から、史上初となる「名誉矯正監」を拝命。その間の刑務所視察の功績が認められ、2008年(平成20年)には「特別矯正監」を法務大臣より任命される。長年にわたり、刑務官・受刑者に対し、多くの意見交換・講演などを行っている。2019年6月25日、功績をたたえる大臣顕彰状が法務大臣から贈られ、あわせて永年の特別矯正監も委嘱された[1]


日本ベトナム社会主義共和国との親善にも20年間たずさわっている。ハノイ市等に教育施設(日本語学校等)の設置、無償援助に積極的に関わりベトナム政府から特別友好大使を委託されている。1997年(平成8年)12月には、ベトナム社会主義共和国国家主席チャン・ドゥック・ルオンより、友誼勲章(外国人に贈る最高位の勲章)を受章した。また、ベトナム人里子は100人以上に及ぶ。

1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災の救援と、慰問としてヘリコプター2機をチャーターし、被災者避難所へ寿司や飲料水、医薬品、衣料等2トンを空輸した。

2008年平成20年)4月29日、受刑者更生支援等奉仕者として、芸能人として初の緑綬褒章を受章。

5月24日、26日、日越外交関係樹立35周年記念行事の一つとして行われた、日本およびベトナムの有名歌手による「日越友好ハノイ-ホーチミン音楽祭(第1回日越友好音楽祭)」を、日越特別大使兼越日特別友好大使として主導した[13]

2009年平成21年)2月皇太子徳仁親王ベトナム社会主義共和国公式訪問では、現地での案内説明にたずさわる。同年、芸能活動の功績が認められ紫綬褒章を受章。

平成22年度、内閣府「災害被害を軽減する国民運動サポーター」に就任[14]

2011年平成23年)3月11日に発災した東北地方太平洋沖地震東日本大震災)を受けて、被災地への支援活動を開始。大量の救援物資を載せた車両12台を手配し[15]、自ら炊き出しを行った[16]。1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災で、実家が被災し、以降被災地への支援活動を継続的に行なっており、2004年(平成16年)の新潟県中越地震でも精力的な活動を行なっている[17]。また地震で被災し全体の2/3が不通となっている三陸鉄道の復旧支援ヘッドマークのオーナー(名義としては個人事務所の杉友となる)となり、2011年9月28日よりマークをつけた列車の運行が開始されている[18]

10月8日、10月9日、ベトナム・ハノイ市で開催された「第2回日越友好音楽祭」を主導した。

2012年(平成24年)4月26日、福島第一原子力発電所事故福島第一原子力発電所現場作業員の拠点となっている、福島県双葉郡のサッカー練習施設「Jヴィレッジ」を、演歌歌手伍代夏子と共に訪れ、激励コンサートを開いた[19]

2012年5月1日、日本財団により、伍代夏子とともに「被災地で活動した芸能人ベストサポート」に選出され、表彰されている[20]。車両15台でカレー、サラダなど2万食の食事と入れ歯洗浄剤などの物資を届け、宮城県内の避難所を細かく廻り、また、岩手県の三陸鉄道や青森県の津軽鉄道支援、福島県も何度も訪れるなど、様々な支援を続けた[21]活動が評価された。

2012年11月19日、オーストリア・アルベルト・シュバイツァー協会より人道援助活動の功績が認められ「アルベルト・シュバイツァー章」受章[22]

2013年平成25年)2月25日、ASEAN特別大使に任命され[23]2014年平成26年)2月10日にアジア各国との文化交流に貢献したとして内閣総理大臣感謝状を安倍晋三から手交された[24]

2013年11月にフィリピンを襲った、台風ヨランダでは、チャリティコンサートを企画し、認定NPO法人アイキャンを通じて、現地に学校を建設した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/杉良太郎

 

 

 

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私は、この、右門捕り物帖が、好きです。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B3%E9%96%80%E6%8D%95%E7%89%A9%E5%B8%96_(1982%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E)

下の女の子(渡辺有希子

写真で、杉さんに、キスをしている娘さんです)

 

 

 

の生意気さが、かわいくて、

 
 

楽しみにしておりました。

 

右門捕物帖 (1982年のテレビドラマ

 
 
 

キャスト[編集]

南町奉行所同心。草香流柔術、錣正流剣術・居合斬りの名手でもある。
右門配下の岡っ引。本作では父親が登場している。
敬四郎の妹。お千代・お春ら他の女性に対して嫉妬深い一面がある。
敬四郎配下の岡っ引。本作では質屋を兼業している。
伝六の父親。元岡っ引の蕎麦屋。
ともに回船問屋・肥前屋紋兵衛の娘。第1話に於いて肥前屋夫妻及び使用人らは全員殺害され、店は爆破・炎上の上、金品は強奪されたが、彼女たちは堀端で遊んでいたため無事だった。江戸で身寄りがないため、右門が自ら預かっている。
敬四郎の妻。敬四郎が最も恐れており、「たか殿」と呼ばれている。
南町奉行所筆頭同心。本作では恐妻家で妹が登場している。

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舞台で「切腹」した役者の狂気 「救急車!」「警察へ電話せえ」客席は大パニック

9/21(土) 7:04配信

BuzzFeed Japan

 

『遠山の金さん』『大江戸捜査網』など、数多くの時代劇に出演してきた杉良太郎
「リアリズムと様式美の混合」にこだわり、「狂気の世界に入りたい」と願う名優は、新たな表現へ貪欲に挑み続けてきた。杉演劇の真髄と破天荒な逸話の真相に迫った

 

【BuzzFeed Japan / 神庭亮介

 

 

 

豚の臓物をぶっ刺して…

――数々の伝説がある杉さん。舞台『悲運の将・信康』では、切腹シーンに豚の臓物を使い、観客の度肝を抜いたそうですね。

「豚の腸、買ってきて」なんて言ったら、小道具も普通は「いや、そんなものありません」って断ると思うよ。ホルモン屋かどこかで買ってきてくれたんでしょう。

回り舞台の奈落の下にサランラップを敷いて、バケツに入った臓物を並べて準備した。「よくできてるじゃないか。人間のもあんまり変わらんな」とか言いながら。

そこに血のりをたっぷり足して、ラップでしっかり巻く。鎖かたびらを着た後、それをお腹のあたりに置き、上から白いサラシを巻く。さらにその上に着物を着るんです。

最後の切腹の場面、着物をはだけてサラシの上から短刀をぶっ刺したら、大量の血が客席までビューッと吹き出した。

風船みたいにパンパンに膨らんだところに、本物の短刀でやるから、お客さんは「ギャー!」ですよ。

 

「本当にやった!」「えらいこっちゃ」

――みなさん、さぞ驚いたでしょうね。

私は日頃から「何をするかわからない」というイメージがあったし、千秋楽ということもあって、会場はもともと興奮してた。

でもグググッと斬って腸が垂れてきた時は、お客さんもさすがに「うわあ…」と椅子に沈み込んでました。頭がおかしくなったと思ったでしょうね。

介錯と同時に私が前に倒れて、緞帳がおりていくもんだから、お客さんはその後どうなったのかわからない。

「救急車!」「警察へ電話せえ」とか、30分ぐらいずっと騒いでましたね。

「あれは本当にやったんやで」「いや、本当に死ぬか?」「えらいこっちゃ」。そんな声がモニターを通して楽屋に聞こえてきました

 

 

 

 

予定調和をぶっ壊す

――杉さんからすると、してやったりの反応。

これが杉演劇や!みたいな。ほかの人にはできない、考えもしない。

千秋楽ですから、それまでにすでに何度も見てくださっているお客さんもいますよね。普通の演出家は、それまでと変わらない脚本・演出で、無事に終われば「あぁ、良かった」という思いではないでしょうか。

だけど私は座頭として責任があるから、お客さんには「絶対また行こう」「舞台はテレビよりすごいな」と思ってもらいたい。客を呼ぶ芝居をしなければ、商業演劇は成り立たないですよ。

お客様にいかに楽しんでもらえるかを考えた時に、リアリズムの追求が大事だと思ったんですよね。

森の石松』では本見の刀を使って立ち回りをしたことがある。相手役の首元を斬ると、血のりがバーッと舞台に広がって。出演者まで「救急車、救急車」と言うほど。

 

本当に人を斬った時の音

――そこまでリアリティーにこだわる理由は。

私の芝居はリアリズムと様式美の混合。新劇はリアリズムを追いかけた芝居。歌舞伎は様式美で魅せます。だから私はリアリズムと様式美の真ん中を行く。それが杉演劇だと。

テレビで人を斬った時に「ズバッ」「ザバッ」とかって効果音がするけど、あれは本当は違う。濡れぞうきんを地べたに叩きつけたような音が、本当の音なんです。

生き物は水分でできているでしょ。水気の多いものを斬ると、そういう音がする。本当にリアルな効果音がほしいんです。

相手の刀が竹光だったら怖いものなしだけど、本身の刀だったらこっちも用心する。切っ先が当たっただけで指が飛ぶからね。それは許されないわけですよ。

本物の刀を持ってにらみ合っていたら、自然と立ち回りも慎重になるし、緊張感が生まれる。それは客席には伝わりますから。

 

 

 

 

「死に方」に思いめぐらせ

――「死」との向き合い方にも並々ならぬものを感じます。

私の芝居の演目では、8割が最後に死んでいます。だから取り組む時には、まず最初に死に方を考えますよね。

どういう形で死のうか、お客さんの印象に残すにはどうすればいいか。

坂本龍馬役をやった時は、最期に斬られた後に階段落ちをやった。でも、落ちた最後に頭が上で足が下という格好だと当たり前じゃないですか。

で、頭が下で足を上にする死に方にした。これ、あまり我慢できないんですよ。頭に血がのぼるから

 

 

 

 

 

「もう限界だ」気絶寸前に

――それは苦しい。

死んでるから、幕が下りきるまで動けない。早く閉まらないかなと思いながら、息を止めてるんです。

ある日、5秒ぐらい緞帳が降りるのが遅くて、「もう限界だ」と気絶しそうな時もあった。苦しいし、血が逆流して顔も膨張してくる。それでも、「自分は死んだんだ」と言い聞かせるわけです。

もう意識が…っていう時にやっと緞帳が下りて、付き人が飛んできた。いきなり立つとまずいから、まず横にしてもらって。ゆっくり立ち上がってから、肩を借りて歩いて楽屋まで戻りました。

水に溺れた人は、何分かの間に助けないと脳に酸素が回らなくなるっていうでしょ。あれと同じですよ。

商業演劇ってお客さんに満足度を与えないと続かない。芸術に寄りすぎてもダメだし、お客さんに迎合したら行きすぎになっちゃう。

これを継承するのは、なかなか難しい。ほぼ絶滅したのが私たちの芝居。いまとなっては古典の世界に入るでしょうね。

 

 

 

 

 

 

判決を変更「打首獄門に処す!」

――『遠山の金さん』『大江戸捜査網』など、テレビ時代劇にも大きな足跡を残されました。

『遠山の金さん』には、こんな思い出があります。遠山さんが罪人に情けをかけて、ものすごく悪いことしてるのに情状酌量する場面があったんですけど…。

こっちが涙ぐむような場面なのに、それに対して相手の役者の演技が「ありがとーございます」とすごく軽い。だんだんムカッ腹が立ってきてね。

監督を呼んで「このセリフが気に入らない。役者に心がないよ。だから、俺は情状酌量したくない。打首獄門にすればいい」って言ったんだ。

監督はストーリーが変わるって戸惑ってたけど、「いつまでも甘い顔してるんじゃない! 遠山さんだって厳しい時があるんだ。罪の意識が足りないよ」と言ったよ。

「本来ならばこうしたいところだが…」と一言足して、「打首獄門に処す!」。相手の役者の台本には、そんなこと書かれてないからね。「えっ、打首獄門。私がですか?」みたいな。

――それを本当にテレビで流したんですか。

流した!

 

 

 

 

これが本当の遠山裁き

――すごすぎますね(笑)「遠山裁き」ならぬ「杉さま裁き」。

これが本当の遠山裁きよ。遠山さんだって、いつも優しいわけじゃない。当たり前のこと。

この時も本当は小遣いまで渡して「これで幸せに暮らせよ」って言うはずだったんだけど、何が幸せだこの野郎!って。撮影前に役者をお白洲の前に呼んだわけ。

「お前、心ってもんがないのか? 命を助けられて、これだけ優しく言われて、小遣いまでもらって…台本のどこを読んだんだ」

普通だったら、お白洲の玉砂利を握って、控室まで泣きながら帰るぐらいの場面だよ。それを軽く「ありがとーございます」って。監督も何も言わないし。

――それだけ本気ということですね。

本気も本気。

「テレビのドラマだし、堅いこと言わなくても。優しく言ってやってくださいよ」と言われても、「テレビだからって気を抜いていいわけじゃない。たくさんの人が見てるんだよ」と思うんです。

 

ゴッホの墓に語りかけたこと

――フランスにあるゴッホの墓まで行って、地中のゴッホに語りかけたというエピソードにも驚かされました。

30年以上前の話ですが、ゴッホの家に行ったんですよ。小さな小さな家。ああ、こうして身の回りのものをモチーフに絵を描いたのかな、なんて思いながら。

お墓がすぐそばにあるというんで、行きたいと。弟のテオと兄弟でお墓に入ってるんです。僕はそこに寝転んでね、一緒に青空を見てたんですよ。

「ゴッホさん、私はよく知ってますよ、アンタのこと。生きてる時に全然絵が売れなくて、死んでから値段が上がるなんて寂しいよね。結局人間ってそんなもんだよな」

 

 

 



「アンタいま、自分の絵がいくらすると思う? 腰抜かすよ。もうちょっと早く評価する人はいなかったのかなぁ」

とか独り言を言いながら、最後に「じゃあ、さよなら」と。

 

 

 

 

「狂いたい」すら超えて

――自ら耳を切り落としてしまうような、ゴッホの狂気性に共鳴する部分もあった?

芝居に入ったらゴッホの気持ちがわかるね。狂気の世界に入りたいし、入れれば幸せだなと思ってました。もう絶対、狂ってやろうと。

もしくは「狂いたい」とか、そんなことすらわからなくなりたい。いつ舞台に上がって、いつ下りてきたのかわからない。ハッと気が付いたら楽屋にいた――。



https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190921-00010000-bfj-ent&p=4

そんな芝居を、一回ぐらい味わいたいな。

杉良太郎(すぎ・りょうたろう) 1944年、神戸市生まれ。1965年に歌手デビュー。ヒット曲に『すきま風』など。1967年、NHK『文五捕物絵図』の主演で脚光を浴び、以降『遠山の金さん』『右門捕物帖』など数多くの時代劇に出演。舞台の代表作に『清水次郎長』『拝領妻始末』など。デビュー前の15歳から福祉活動に尽力し、ユネスコ親善大使兼識字特使、外務省の日ASEAN特別大使、日本・ベトナム両国の特別大使などを歴任。現在は法務省の特別矯正監、警察庁の特別防犯対策監、厚生労働省の肝炎総合対策推進国民運動の特別参与を務める。緑綬褒章、紫綬褒章を受章。2016年度文化功労者。