元のハプスブルグ家の国々、訪問;佳子様
概要[編集]
ハプスブルク家(ハプスブルク=ロートリンゲン家)の君主が統治した、中東欧の多民族(国家連合に近い)連邦国家である。1867年に、従前のオーストリア帝国がいわゆる「アウスグライヒ」により、ハンガリーを除く部分とハンガリーとの同君連合として改組されることで成立し、1918年に解体するまで存続した。オーストリア=ハンガリーとも。
前身はオーストリア帝国である。領土には、オーストリア・ハンガリー・ボヘミア・モラヴィア・シュレージエン・ガリツィア=ロドメリア(ルテニア)・スロヴァキア・トランシルヴァニア・バナト・クロアティア・クライン・キュステンラント・スラヴォニア・ブコヴィナ・ボスニア・ヘルツェゴビナ・イストリア・ダルマティアなど、多くの地域を抱える大国であった。
国号[編集]
正式名称はドイツ語で
- Die im Reichsrat vertretenen Königreiche und Länder und die Länder der heiligen ungarischen Stephanskrone
- A birodalmi tanácsban képviselt királyságok és országok és a magyar Szent Korona országai
で、日本語に訳すと「帝国議会において代表される諸王国および諸邦ならびに神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦[1]」となる。「オーストリア=ハンガリー帝国」以外の慣用的な呼び名としてはオーストリア=ハンガリー二重帝国、オーストリア=ハンガリー君主国などともいう。漢字による表記では墺洪国、墺洪帝国と表記される。
正式なものではないが、オーストリア側を指してツィスライタニエン(ライタ川のこちら側)、ハンガリー王国側を指してトランスライタニエン(ライタ川の向こう側)という呼称も存在した。
なお、「帝国議会において代表される諸王国および諸邦」は1915年に「オーストリア諸邦(Österreichische Länder)」と改称し、正式名称は「オーストリア諸邦ならびに神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦」となった。当局はその時まで、「オーストリア」の範囲はあくまでハンガリーを含むものであるとする大オーストリア主義的な姿勢を堅持していた[1]。
歴史[編集]
オーストリア帝国の衰勢[編集]
1848年革命はヨーロッパ中に波及し、ウィーンでも暴動が起こるなど混乱の中、フェルディナント1世の後を甥の若き皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が継いだ。しかし、すでに帝国は衰退傾向にあった。
1853年、不凍港獲得を目指すロシア帝国は、オスマン帝国との間に戦端を開く(クリミア戦争)。これに対し、バルカン半島におけるロシアの影響力増大を恐れたオーストリアは、オスマン帝国を支持した。このため、ウィーン体制の成立以来友好を保っていたロシアとの関係が悪化した。これは神聖同盟の完全な崩壊を意味し、ロシアの後押しを失ったオーストリアは、ドイツ連邦内における地位を低下させた。1859年にはイタリア統一をもくろむサルデーニャ王国との戦争に敗北し、ロンバルディアを失った。1866年にもプロイセン王国の挑発に乗って普墺戦争を起こし、大敗を喫した。その結果オーストリアを盟主とするドイツ連邦が消滅してその威光を失うなど、徐々に国際的地位を低下させていった。
二重帝国の成立[編集]
この帝国の衰退に希望を抱く人々がいた。帝国内の諸民族である。先にあげたようにオーストリア帝国は、数多くの民族を抱える多民族国家であった。しかし支配階級はドイツ人であり、彼らだけが特権的地位を有していた。以前からドイツ人以外の民族の自治獲得・権利獲得の運動はあったが、帝国軍に鎮圧されていた。しかし、衰退傾向にあるこの時期、諸民族は活発に動き出した。そもそも民族運動が活発なのは、支配階級であるドイツ人が国内における人口の過半数を占めていないことも原因にあげられる。ドイツ人は帝国内の総人口の24%にすぎず、諸民族が力を持てばどうにも抑えようがなかった。帝国は改革を余儀なくされたが、改革路線として2つの道があった。
だが、特権的地位を手放したくないドイツ人達の抵抗、諸民族による支配で帝国の様相の劇的変化を恐れる、皇帝をはじめとする支配者の存在などの要因があいまって、後者の方針が採られた。その結果1867年、帝国を「帝国議会において代表される諸王国および諸邦」(ツィスライタニエン)と「神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦」(トランスライタニエン)に二分した。このドイツ人とマジャル人との間の妥協を「アウスグライヒ」という。君主である「オーストリア皇帝」兼「ハンガリー国王」と軍事・外交および財政のみを共有し、その他はオーストリアとハンガリーの2つの政府が独自の政治を行うという形態の連合国家が成立した。これが「オーストリア=ハンガリー帝国」である。
自治獲得の動き[編集]
しかし、(いわゆる)オーストリアとハンガリーに分割しても、オーストリアではドイツ人35.6%、ハンガリーではマジャル人48.1%という具合に、ドイツ人とマジャル人はそれぞれの国内で過半数を占めていなかった。そこでハンガリー政府はクロアチア人と妥協して協力を得ることで過半数に達した(ナゴドバ法)。そのような中でハンガリーは国内の「マジャル化」を推し進めた。一方オーストリアでは、新憲法で「民族平等」を謳ったが、ドイツ人の反発とハンガリー政府からの要請があり、ポーランド人と協力して憲法を廃案に追い込み、ポーランド人と妥協することで支配的地位を保とうとした。
その後も民族の自治獲得の動きは鎮静化せず、むしろいっそう激化し始めた。まずは工業地帯を握るボヘミア人(チェコ人)の発言力が増し、資本家・経営者および金融業者のほか、医者・弁護士やジャーナリストなどの専門職従事者も多いユダヤ人もまた発言力を増した。従来の地位を保持しようとするドイツ人と、新たな権利を得ようとする他民族との対立が目立ち始めることとなった。ハンガリー地域でも、マジャル化という同化政策に反して諸民族の自治・権利を獲得しようとする動きが高揚してきていた。しかしこの時点では、どの民族も「帝国からの独立」を望んではいなかった。それは、プロイセン主導の統一ドイツならびにロシア帝国という2つの大国に挟まれた地域で、小国が分立していては生き残れないことを自覚していたためである。各地域の住民が「独立」するのではなく、あくまでオーストリア=ハンガリー帝国という大きい枠のなかで「自治」を得る、つまり諸民族の連邦国家を望んでいたのである。
皇帝一族の不幸[編集]
民族問題もさることながら、ハプスブルク家にとってもこの帝国の末期は悲劇の連続だった。まず1863年、ナポレオン3世の誘いに乗って、フランツ・ヨーゼフ1世の弟マクシミリアンがメキシコ皇帝に即位するも、フランス軍がメキシコ大統領ベニート・フアレスの徹底抗戦によって撤退を余儀なくされ、マクシミリアン皇帝はそのまま見捨てられてしまい二重帝国成立と同じ1867年に銃殺刑に処された。1889年には、皇太子ルドルフがマイヤーリンクで謎の情死事件により落命した(暗殺の疑惑も残る)。皇后エリーザベトはこの事件以来いっそう頻繁に旅行するようになるが、1898年に旅行先のスイスで無政府主義者により暗殺された。皇帝は激しく落胆したが、政務に没頭するようになった。暗殺と謀殺はオスマン債務管理局の場外乱闘がもたらしたかもしれない。19世紀後半オーストリア=ハンガリーの産業にフランス資本が主役を演じていたのに対し、普仏戦争後ドイツ帝国資本の比重が漸次高まった[2]。1901年、二重帝国における外資総額において、フランス資本が30.3%を占めたのに対し、ドイツ資本は49%にも達したのである[3]。
サラエヴォ事件[編集]
1908年、オスマン帝国で青年トルコ人革命が起き、その混乱に乗じてオーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナ両州を併合した。ここにはセルビア人が多く、南のセルビア王国への帰属を望む人々が多かった。またムスリムも多く、彼らはオスマン帝国への帰属を望み、一方カトリック信者はオーストリアへの帰属を望んでいた。そうした民族だけでなく宗教的にも複雑な地域を無理やり併合したオーストリアへの反感があがるのも当然のことだった。その後、2度のバルカン戦争を経て、バルカン半島は「汎ゲルマン主義」と「大セルビア主義」、それに加えて「汎スラヴ主義」が角逐し、個々の民族間でも対立が激化して「ヨーロッパの火薬庫」の様相を深めていった。
1914年6月28日、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公は妻ゾフィーとともにボスニアの州都サラエヴォを軍の閲兵のために訪れていた。オープンカーでパレードしていたところに、「青年ボスニア(英語版) (Mlada Bosna, ムラダ・ボスナ)」のボスニア出身のボスニア系セルビア人(ボスニア語版)で民族主義者のテロリスト、プリンチプが、この皇位継承者夫妻を銃撃した。2人は奇しくも結婚記念日のこの日に暗殺された。これを「サラエヴォ事件」といい、ヨーロッパ中に戦乱を告げる狼煙となった。オーストリア軍部はこれを口実にセルビアを討つことを叫んだ。国民は最初は大公暗殺に関しては冷めていたが、貴賤結婚だった大公夫妻の葬儀は簡素に行われ、これが市民の同情を誘い、「セルビア討つべし」の声が高まった。
第一次世界大戦の勃発[編集]
オーストリア側は、7月24日期限付きの最後通牒をセルビア政府に突きつけた。セルビア側は一部保留の回答をし、オーストリア側はこれを不服としてセルビアと開戦した。ドイツがロシアに圧力をかけ、動きを封じるはずだったが、ロシアはセルビア側につきオーストリアと開戦した。続いてドイツもロシアと戦争状態に入り、ドイツと三国同盟関係にあるオーストリアも遅れてロシアに宣戦。ロシアと三国協商関係にあったイギリス・フランスも相次いで同盟側に宣戦し、ヨーロッパ全土を巻き込んだ第一次世界大戦が勃発した。
開戦当初、どこの国も3か月以内で終了すると予想していた。当初はオーストリア=ハンガリー帝国内の諸民族も政府を支持して戦った。しかし、予想に反し戦争は長期に及んだ。初戦で小国セルビアに敗北したオーストリア軍は、軍事力の弱さを露呈した。多民族国家ゆえに軍の近代化に遅れを取っており、軍内部で使用される言語さえも統一されていなかった。そのため、翌年からは同盟国のドイツ帝国の支援に依存する状況に陥った。
1916年には、68年間帝国に君臨してきた皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が死去し、国内に動揺が走った。さらに1917年にはアメリカが協商側で参戦し、連合国(協商のアメリカ参戦後の名称)は高らかに「民主主義と封建主義の戦い」を戦争目的として宣伝した。同年11月には、ロシアでボリシェビキ革命が起き、「パンと平和」を掲げた。その影響で、帝国内では長い戦争の疲れもあいまって厭戦ムードが高まった。帝国は「民主的連邦制」へ向けた国内改革を迫られた。しかし、皇帝カール1世は理解を示したが、ドイツ人保守派の反抗と諸民族の歩調のずれで、改革は進まなかった。
ハプスブルク帝国崩壊[編集]
詳細は「オーストリア革命」を参照
そのような中、マニフェストどおりロシアのボリシェヴィキ政府(レーニン政府)はドイツと単独講和し、ブレスト=リトフスク条約を結んで戦線を離脱した。同盟側が西部戦線で攻勢を強めるのは必至だった。連合国は極秘にオーストリア=ハンガリー帝国と単独講和を結ぼうとしたが、ドイツに発覚して失敗した。オーストリア側から連合国に講和を持ち込むも、フランスがこれを公にして失敗し、ドイツとの間にも溝ができてしまうありさまだった。
そんな中、シベリアでチェコスロヴァキア軍団(チェコ軍団)の活躍があった。その救出目的にシベリア干渉の名目も立ち、連合国にとってチェコスロヴァキア軍団の活躍は目覚しかった。そこでチェコ人指導者トマーシュ・マサリクは、しきりにチェコスロヴァキア独立を連合国側に持ちかけ、連合国はマサリクの「チェコスロヴァキア国民会議」を臨時政府として承認していた。当初、オーストリア=ハンガリー帝国の解体を戦争目的としていなかった連合国は、それをあっさり踏み越えた。これが端緒となり、帝国内の諸民族は次々と独立を宣言した。盟邦ハンガリーも完全分離独立を宣言した。
皇帝カール1世はこれをつなぎとめようとしたが果たせず、1918年秋に「国事不関与」を宣言して国外へ亡命した。ここに650年間、中欧に君臨したハプスブルク家の帝国、オーストリア=ハンガリー帝国はもろくも崩壊した。しかし、その継承諸国の辿った歴史は、いずれも悲惨なものであった
佳子さま、欧州へ向け羽田空港を出発 初の公式外国訪問
9/15(日) 14:27配信
秋篠宮家の次女佳子さま(24)は15日、オーストリアとハンガリーを訪問するため、羽田空港を出発した。佳子さまにとって初の公式の外国訪問となる。両国と日本が外交関係を樹立してから今年で150年を迎えるのを機に、両国政府から招待があった。両国大統領への表敬のほか、150年を記念した行事などに出席する。
【写真】オーストリアとハンガリーを公式訪問するため、羽田空港を出発する秋篠宮家の次女佳子さま=2019年9月15日午前11時6分、東京都大田区、代表撮影
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190915-00000030-asahi-soci
朝日新聞社